てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.9

2008年03月14日 | 五十点美術館
中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』


 私的なことだが、ぼくは今年の8月で37歳を迎える。もはや若者とはいえないが、中年と呼ばれるには抵抗がある。もしこの年で死んだとしたら、夭折という扱いをされるかもしれない。ことごとくにおいて、中途半端な年齢である。

 ぼくはひとつ年を取るたびごとに、同い年で死んだ著名人のことが気にかかる。今この年齢になるまでに、素晴らしい仕事をやり遂げてきた人たちがいたというのに、このぼくはまだ何もできていない、と自分をいましめるつもりなのだ。だが、こっちはどうせ“ただの人”にすぎないのだから、世界的な偉人と単純に比較したところで、どうなるというものでもないけれど・・・。

 37歳というと、すぐ思いつくところでは宮沢賢治が死んだ年である。美術に眼を移すと、ゴッホがみずから命を断ったのも37歳のときであった。さらには、ルネサンスの代表者のひとりラファエロも、やはり37歳で生涯を閉じている。そして日本人画家では、中村彝(つね)がそれにあたるのである。

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 といっても、中村彝のことをそれほどよく知っているというわけではない。重要文化財になっている有名な『エロシェンコ氏の像』は写真でしか観たことがないし、これまで実物に接した作品は10点あるかないかというところだろう。

 中村彝は、ルノワールの影響を受けた画家だといわれている。つい先日、ひろしま美術館が所蔵しているルノワールの『パリスの審判』という絵を観る機会があったが、中村がこの絵の模写を残していることを後で知った。また、俊子という健康的な少女のあられもない裸体を描いた作品にも、ルノワール的なものが感じられる。肉付きのよい豊満な女性像は、いかにもルノワール好みである(この少女は、クリームパンを発明したパン屋「中村屋」の令嬢であった)。

 しかし画家本人の肉体は、結核という病魔に冒されていたのだ。いうまでもなく、当時の結核は不治の病いであった。彝は30代の半ばになって病状が悪化し、寝たきりの生活を余儀なくされる。遺書をしたためていたともいう。若き晩年が彼を待ち構えていたのである。

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 そんななか、最後の力をふりしぼって描かれたのが『頭蓋骨を持てる自画像』だ。頬はすっかりこけ、髪は逆立ち、眼ばかりがらんらんと輝いて虚空を見つめているこの表情を前にすると、ぼくは言葉を失わざるを得ない。

 瀕死の男が手にしているのは、ドクロである。画面上部の角は、まるで教会の壁に穿たれた壁龕(へきがん)のように丸く縁取られ、金色に塗られている(これの正体は楕円形の鏡の枠らしい)。男の両肩には、聖職者を思わせる黒いマントが掛けられている。

 彝とモデルの俊子とは恋愛関係におちいったが、周囲の反対もあって別れていた。そして今では、絵筆を握ることさえも覚束ない、死期の迫った肺病やみである。この世への置き土産のように、最後の自分の姿を描きとめようとしたとき、画家としての姿ではなく、みずからを聖人になぞらえて描こうとした。彝は洗礼を受けたことはあったが、熱心なクリスチャンというわけではなかった。だが、今の彼には、ほかに何も残されてはいなかったのだ。

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 画面の左下には、少しばかり白く塗り残されたような箇所がある。病み衰えた画家は、もう力尽きてしまったのであろうか。この自画像が描かれた翌年、彝は他界する。さっきも書いたとおり、37歳であった。

 ほとんど今のぼくと同じ年代に、生と死の狭間にいる自分自身をぎりぎりまで見つめて描いた、中村彝の自画像。この絵は何も語りはしないが、ときどきぼくに向かって何かをいいたげに、脳裏にあらわれるのである。

(大原美術館蔵)

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