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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.6

2008年02月23日 | 五十点美術館
レンブラント『机の前のティトゥス』


 この少年には、これまで2度、出会ったことがある。

 最初はもう十何年も前、大阪の百貨店で開かれた展覧会でのことだ。いろんな画家によるさまざまな肖像画が掛け並べられているコーナーに、少年はいた。

 彼はまだ若かったが、父親譲りの豊かな巻き毛におおわれたその顔は憂いにみち、何かを深く考え込むふうだった。両眼を見開いてはいるが、彼には何も見えていないかのようだ。右手にペンを持ち、その手で神妙にあごを支えた姿は、おそらく勉強をしているところなのかもしれないけれど、ただそれだけとも思えなかった。

 キャンバスのなかでポーズを作ったり、ぼくたちに向かって嫣然と微笑んだり、たくさんの肖像画が並んでいるなかで、この絵が放つオーラには独特のものがあった。少年がティトゥスという名であることも、かのレンブラントの息子であることも、まだよく知らなかったが、観る者をつかんで離さない、何か切々たる声がそこから聞こえてくるのだった。

 同行していた友人に、この絵は抜きん出ているね、と耳打ちすると、一も二もなく同意され、やはり本当にいい絵というのは誰の心にも響くものだ、と感じたりした。この絵が専門家によっても高く評価され、レンブラントの代表作のひとつとされていることを知ったのは、ずっと後のことである。

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 その日から10年近く経ったころだろうか、レンブラントの大規模な展覧会が京都で開かれ、そこでティトゥスとの再会を果たした。ぼくはもう、彼の生い立ちと短かった生涯について、いくばくかの知識があった。

 レンブラントの前半生は、画家として望み得るかぎりの成功に彩られていた。彼の肖像画は評価が高まり、多くのパトロンに気に入られ、大邸宅を構えることができた。妻に迎えた美貌のサスキアは資産家の娘で、自由になる金銭はいくらでもあった。彼らは文字どおり、富と名声をほしいままにできたのである。

 ただ、ふたりの間に生まれた子供はみな早世してしまった。たったひとり生き残ったのが、ここに描かれたティトゥスだったのだ。彼が生まれた翌年、レンブラントは畢生の大作『夜警』を描き上げるが、サスキアは30歳で世を去ってしまう。

 このときを境に、流行画家としての華やかな生活が、失意と窮乏と日々へと一変した。愛人問題で裁判沙汰となり、借金はたちまちふくれあがり、ついには邸宅も売らねばならなくなる。『机の前のティトゥス』が描かれたのは、まさにそんなときだった。この少年が、うら若いひたいに眉根を寄せ、深刻そうな表情で描かれているのも、理由のないことではないのである。

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 この絵から13年後、レンブラントの最後の望みだったひとり息子ティトゥスも、若くして死んでしまった。天涯孤独の身となったレンブラントは、日々おいぼれゆく自分の顔を見つめ、キャンバスにとどめる。世の中でもっとも素晴らしい自画像のいくつかは、不甲斐ないみずからの姿を赤裸々に描き出した、レンブラント最晩年のものだろう。すべてを失ったかつての巨匠には、絵を描くことしか残されていなかったのだ。

 ティトゥスの後を追うように、レンブラントも世を去った。自画像では80歳ぐらいの老人に見えるが、彼はまだ63歳だった。

(ボイマンス・ファン・ビューニンゲン美術館蔵)

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五十点美術館 No.5

2008年02月16日 | 五十点美術館
伊藤若冲『果蔬涅槃図』

(部分)

 『動植綵絵』が若冲のオモテの代表作だとしたら、ウラの代表作はこの『果蔬涅槃図』ではなかろうか。

 鮮烈な色彩を駆使し、鳥や動物たちが密集して描かれた息づまるような絵もいいが、どこか飄々として肩の力の抜けたような水墨画にも、独特の魅力がある。いったいどっちの若冲が本当の若冲なのか、という疑問はぼくの頭をときどきよぎるが、両方をバランスよく描きわけることで、うまく吊り合いがとれていたのかもしれない。

 若冲は何も、ニワトリばっかり描いていたわけではないのだ。絵師としての間口は、おそらく世間が想像しているよりも、ずっと広かった。彼は現代でいうところのアマチュア画家だという位置付けがされることもあるが、ぼくはかなりプロ意識の高い画家だったのではないかと思う。

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 描かれているのは、釈迦が入滅する場面、つまり死ぬところである。仏教絵画のなかでもきわめて重要な画題で、各地の寺には荘厳な涅槃図がたくさん伝わっており、文化財の指定を受けているものも多い。法隆寺の五重塔内にある塑像のように、立体であらわされたものもある。

 ただ若冲は、見てのとおり、登場人物を野菜や果物たちに置き換えて描いた。擬人化ならぬ、“擬菜化”とでもいおうか。猿などの動物が人間の服装をして、俗世間を風刺してみせるような絵は、かなり以前から西洋でも描かれているが、野菜に扮した絵というのはちょっと聞いたことがない。

 伊藤若冲はなぜ、こんな風変わりな絵を描いたのだろうか。若冲というと、自邸の庭に生きたニワトリを放ち、日がな一日それを眺め暮らしていたというような、写生の画家というイメージが流布している。でも、ただ野菜を眺めていただけでは、こういう絵にはならなかったはずだ。若冲は、柔軟な想像力の持ち主でもあったにちがいない。

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 籠をひっくり返した上に横たわっているのは、釈迦になぞらえられた大根である。それもごていねいに、二股の大根だ。たしかにその形状は人体によく似ているが、最近では大根もアスファルトのなかから生えてきたりして、かなりのど根性ぶりが注目されてきているので、死の床の釈迦をあらわすにしては少々元気すぎるかもしれない。

 ぼくがもっとも感心するのは、大根の足もと(?)にいる蕪である。さかさまになって、長い葉を地面にくたりと寝かせているさまは、まさに人が嘆き悲しんでいる姿さながらではないか。これぞ“擬菜化”の究極の表現であろう。

 ほかにも実にさまざまな野菜や果物が描かれていて、ぼくたちにもおなじみのカボチャやシイタケやナガイモがあるかと思えば、ライチやランブータンやチョロギといった、かなり珍しい種類もある。亡くなった釈迦のまわりには、弟子たちをはじめとしてありとあらゆる動物たちが集まり、その死を悲しんだということだが、ここにも当時の江戸で手に入り得るありったけの野菜が集まっているといっても過言ではない。

 そしてそれらが、実に多彩な筆致で明確に描き分けられていることに、ぼくは素直に感動を覚えてしまう。ここで若冲が用いたのは、極彩色の顔料などではなく、墨だけだ。墨に五彩あり、とはよく聞く言葉だが、ただ色だけではなく、無限ともいえる筆づかいを駆使して野菜の質感を巧みにとらえてみせる手腕は、至芸と呼びたくもなってくるのである。

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 伊藤若冲がこれほどさまざまな野菜を知り尽くしていたのは、やはり彼が京都の青物問屋の息子だったからだろう。しかし商売っ気がほとんどなく、画業に専念するためにはやばやと家督を譲ってしまったということだが、この絵をみるかぎり、野菜や果物に何の関心ももてなかったわけではなさそうだ。むしろ彼は嬉々として、かつての自分の商売道具を描いているようにも思われる。

 また彼は、非常に信心深い人物でもあった。伏見の石峰寺の境内には、若冲が下絵を描いたといわれる石仏群があることは以前の記事でも触れたことがあるが、そこにも釈迦入滅の場面はちゃんと用意されている。

 野菜と仏教は、浮世離れした奇想の絵師のプライベートな部分を大きく占めていたはずだ。それらを大胆に取り合わせて描いたこの一幅の軸は、ある意味で彼の自画像だったのではないか、という気もしきりにするのである。


(全体図、京都国立博物館蔵)

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五十点美術館 No.4

2008年02月06日 | 五十点美術館
マルケ『ポン・ヌフとサマリテーヌ』


 大阪の中之島を歩いていて、ふと白昼夢のように、パリのセーヌ川に挟まれたシテ島の景色が頭をよぎった。

 とはいっても、フランスに行ったことは一度もない。ぼくがよく知っているのは、絵画のなかのパリである。セーヌ川であり、アルジャントゥイユであり、フォンテンブローの森である。それらは主にフランス印象派やバルビゾン派の作品によって、日本人の脳裏に刻印されているだろう。マウント・フジの姿が、おそらく北斎の浮世絵によって世界に知られているのと同じように。

 20世紀に入ると、風景画も主観的に描かれるようになる。実際の風景にはあり得ないような鮮烈な色彩を帯びていたり、故意にゆがめられたり、いろいろな変形をはじめるのである。モネの『睡蓮』も、ジヴェルニーの庭を描きながら、どこだかわからない絵になってくる。これはモダンアートのはじまりを告げる現象のひとつといっていいだろう。

 フォーヴィスム(野獣派)は、19世紀と20世紀を明確に切り分けた、画期的な美術運動だった。これ以降、旧態依然の絵画を描くことは前世紀へ逆戻りすることだ、という認識が、フランスの画家たちの間に生まれたのではないだろうか。新進気鋭の若者がこぞって革新的な仕事をはじめるには、古いものに一旦ふたをしてしまうのが近道である。フォーヴィスムは美術史の上で、そういう大事な役割を担ったといえる。

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 マチスに代表される彼らの活躍ぶりが、既成の価値観を大きく揺さぶり、20世紀美術の推進力となったことは間違いない。だが、なかには泰然自若として我が道を行く、といった画家もいたことはたしかだ。

 アルベール・マルケは、そんなひとりだろう。彼はマチスの同窓生で、生涯にわたって親交を結んだことから、フォーヴィスムの一員ということになっている。だがその作品からは、みじんも野獣的な要素は感じられない。牙を抜かれたライオンほどの迫力もない。

 彼は、かつてルノワールやピサロが描いたような何の変哲もないパリの街並みや、穏やかな海辺の風景を描いた。しかも、眼がチラチラするような印象派の筆づかいをもってではなく、柔らかな線描と落ち着いた色彩によって、やさしく描いたのである。20世紀絵画の展覧会を観ていて、ふとマルケの絵に出会うと、不思議なくらい安心してしまう。

 それと特筆すべきは、彼の絵にみられる白の用い方である。誰だったか、マルケは絵の具に牛乳を混ぜて描いたようだなどといっていたが、たしかにそんな気がする。スープなどに牛乳を入れるとまろやかな味になるように、マルケの色彩はその白さのなかに、豊潤な旨みが溶け出しているように感じられる。

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 ポン・ヌフというのは、セーヌ川にかかる橋のことだ。中州であるシテ島を経由して、対岸へと通じている。画面の中央に小さく描かれているのはアンリ4世の騎馬像で、今でも現存している。

 その奥にあるカマボコ形の建物がサマリテーヌで、老舗のデパートだということだ。写真を探して見てみると、この絵よりはもうちょっと角張っているが、2本の旗が立っているところまでそっくり同じであった。セーヌから立ちのぼる靄をとおして見ると、こんなふうに見えるのかもしれない。

 あれこれ調べていたら、大阪の中之島はシテ島をモデルに作られたという一文にぶつかった。ぼくの白昼夢は、どうやら的外れではなかったらしい。ただ、高層ビルが続々と建てられているところが、この絵とはだいぶちがうけれど。

(サントリーミュージアム[天保山]蔵)

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五十点美術館 No.3

2008年01月31日 | 五十点美術館
松本竣介『建物(茶)』


 何の気なしに本屋をのぞいてみると、オールカラーで図版の豊富な新潮社の「とんぼの本」の一冊として、「洲之内徹 絵のある一生」が刊行されているのを見つけた。ぼくは片時も迷うことなく、中身も見ずにレジにその本を持っていき、買ってしまった。

 だが、ページを少しめくってみただけで、まだ読んではいない。ぼくの部屋の一隅には、かつて文庫化されたもの、あるいは古本屋で偶然手に入れたものを含めて、洲之内の随筆「気まぐれ美術館」のシリーズがすべて置いてあるが、それもまだ半分ほどしか読んでいない。ぼくにとって洲之内の本は、おいそれと手を出すことのできない、パンドラの箱のようなものだ。

 なぜかというと、美術随想を書きはじめたのが、ほかでもない洲之内徹の影響だったからである。今ではすでに彼のもとから離れ、自分なりのやりかたで日夜書き継いでいるつもりだが、ここでまた洲之内の文章を読んでしまうと、「なんだ、ぼくはまだこの程度しか書けていないのか」と幻滅するのが眼に見えるような気がするのだ。

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 洲之内徹がもっとも愛情を込めて、ときには厳しい批判を込めて、繰り返し書きつづけたのが松本竣介という画家のことだった。ぼくは洲之内の本をはじめて読んだ10年ほど前に、彼の熱意に引きずられるようにして竣介の絵にはまり込んだ。とはいっても実物を観る機会にはなかなかめぐまれず、画集を繰り返し眺めたり評伝に眼を通したりするだけだったが。

 でも、さまざまな展覧会を辛抱強く観つづけていると、運よく松本竣介の絵に遭遇する機会がおとずれる。大原美術館で『都会』という絵に出くわしたのを皮切りに、これまで10点ほどの絵と対面してきたのではないかと思う。

 彼には人物画もあり、風景画もあり、それらが渾然一体となった奇妙な構想画のようなものもあるが、ほとんどすべてに得体の知れない寂寥感がただよっている気がするのは、13歳のときに病気で聴覚を失っていたせいかもしれない。一方で、時代が戦争へと猛スピードで突入しつつあった1941年、雑誌に「生きてゐる画家」と題した文章を発表し、ひとりの芸術家としてファシズムに抗議してもいる。

 お気に入りのモチーフだった横浜の月見橋が爆撃を受け、見るも無残な廃墟になってからも、彼はその橋を冷静に見つめ、変わり果てた姿をそのまま描いた。声のない戦争の告発だった。

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 昨年、画家の絶筆ばかり集めた展覧会のなかで、思いがけず松本竣介の最後の作品と出会った。それが『建物(茶)』である。彼は36歳の若さで病いに倒れ、帰らぬ人となった。

 彼の親友で彫刻家の舟越保武は、この絵について「竣介はたしかに絶筆として描いた」と述べている。「これから彼が入って行く、白い建物と、その暗い入り口を、竣介は最後の力を燃やして描き上げた」というのである。

 画家自身が自分の死に場所として描いた、この世とあの世の狭間に建つような教会の絵は、ぼくの心を激しく揺すぶった。このなかに竣介がいるのか、と思うと、まるで彼の墓前に立ったみたいに、ぼくの心のなかから声にならない言葉があふれ出た。耳の聞こえない竣介にも、その言葉は伝わっただろうか。

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 「洲之内徹 絵のある一生」のなかに、自分が経営していた画廊の椅子に腰かける晩年の洲之内の写真があった。彼のそばには絵画が入っているらしい厚紙の箱がいくつか立てかけてあるが、そのなかのひとつに「松本竣介 白い建物」と書かれている。白い建物とは、あの教会のことではないだろうか。

 愛する松本竣介の絵をかたわらに置いて、洲之内は屈託のない顔で微笑んでいた。絵を描く人と、それを観る人との密度の濃い関係が、そこにはあるようだった。

(東京国立近代美術館蔵)

参考図書:
 「アサヒグラフ別冊 美術特集 松本竣介」朝日新聞社

※追記:調べたところ、『白い建物』は宮城県美術館に所蔵されていて、『建物(茶)』とは別の絵であることがわかった。ただ写真で観るかぎり、『建物(茶)』のほうが鮮やかな白さが眼に残る絵になっている。

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五十点美術館 No.2

2008年01月23日 | 五十点美術館
ミロ『アルルカンのカーニヴァル』


 子供のころから、ミロの絵が好きであった。いや、子供だったからこそ、というべきかもしれない。

 以前「ミロの思い出」という記事にも書いたことがあるが、ぼくは幼いときにミロの展覧会を観るという幸運に恵まれた。彼の茶目っ気たっぷりな美術との出会いは、人生最初の大事件といっていい。ぼくのなかでコトンと音がして、何かが確実に変わったのだ。

 それからというもの、ミロ展にはできるかぎり足を運ぶようにしている。15歳のときだったか、当時は福井に住んでいたが、富山の近代美術館でミロの展覧会をやっていると聞くと、いてもたってもいられなくなった。不慣れな国鉄にひとりで乗り込み、富山駅からさんざん歩いてようやくの思いでたどり着いたりしたものだ(この美術館には『パイプを吸う男』という名作がある)。

 2002年には、京都からわざわざ愛知の美術館までミロの絵を観にいった。そこで出くわしたのが『アルルカンのカーニヴァル』である。想像していたよりもずっと小さな絵だったので驚いた。おもちゃ箱をひっくり返したように、あまりにも多くのものが描かれているので、壁画のような大きな絵ではないかと思い込んでいたのだ。

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 この絵には、有名な伝説がある。当時かなりの貧乏だったミロは、空腹のためによく幻覚を見た。そのときに浮かんだイメージがもとになっている、というのである。

 この話はある程度真実だと思うが、だからといって夢うつつの状態で描いたわけではない。この絵のためにたくさんのデッサンを描いたと、ミロ自身が語っているところをみると、かなり用意周到に、意図的に画面を構成したにちがいない。お化けとも妖精ともつかない不思議な生き物が勝手気ままに跳梁しているように見えるけれど、そこにはおのずからなる秩序が感じられる。これだけ雑多なものが描かれていながら、すべてが仲よく共存していて破綻がないのは、不思議なくらいである。

 カーニヴァルというだけあって、絵のなかから今にも陽気な音楽が聞こえてきそうだ。中央に描かれた胴体の長い生き物は片手にギターを持っていて、そこからは音符がこぼれ出している。その左には立派なヒゲを生やし、パイプなんぞくわえた紳士らしき顔があるが、首は軟体動物のように伸びきってしまっている。しかしその長い首の真ん中には、しっかりとネクタイをしめているのが何ともおもしろい。

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 諧謔と笑いにあふれた空想世界は、ミロの創作のいしずえとなった。彼は、人生を楽しんで生きるすべを知っていた。空腹の男の手から生まれた、この底抜けに楽しい絵が、それをじゅうぶんに証明してくれる。

(オルブライト=ノックス美術館蔵)

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