門前町から宿場町、住宅・商業・工業都市へ、そして湘南・江ノ島の観光都市へ。わが住む里藤沢は、中世、近世、近代、現代が重層的に折り重なった都市である。
しかし藤沢の歴史に対する地元の関心はというと、従来、近世の藤沢宿が中心だったように思う。郷土史家の書くもののそのあたりの時代が多かった。
今から十数年前、自分の足元のことも少しは知らないとと思い、藤沢地域史研究会に入ったときにも、幕末史が対象であることに抵抗はなかった。藤沢の郷土史なら江戸という思い込みが刷り込まれていたのである。
と同時に、それは自分の中に「中世」のイメージが希薄だったこととも見合っていた。それ以前から、近世や近代のイメージは江戸・明治とともに比較的鮮明だった。しかし自分の不勉強を棚上げするわけではないが、鎌倉はともかく、南北朝や室町になるとどうにもとらえどころがなく、「中世藤沢」といっても「藤沢は鎌倉時代、遊行寺の門前町として発達した」という以上にイメージがわかなかった。そのため藤沢宿の発想からなかなか離れられなかったのである。
ところが遊行フォーラムという文化団体を有志で立ち上げ、ともに活動しているうちに、いつのまにか中世藤沢に関心が向かっている自分に気づかされた。最初のきっかけは第一回以来続いている「説経節公演」である。
武蔵大掾、若松若太夫、説教節政太夫らの語る中世の人々は、飢餓、病、災害といった悲惨な境遇の中でも、生への希望をもって、懸命に生き抜いた。現代人に比べて中世人のほうが立派だとはいわないが、少なくともより人間らしいのではないか。しだいにそう思えてきたのである。
その思いは中世のエッセンスを抽出した藤沢発の中世演劇「遊行かぶき」にかかわる中でいっそう深まっていった。
一方で、こうした転換は自分の興味や関心の変化とも結びついていった。
中世という身体
ここ十数年、わたしは科学技術の効用と限界について考えたり、書いたりする機会が多かった。きっかけは現役の科学者が犯罪者となったオウム真理教事件だったが、こうしたテーマを考えるうえで中世がひとつのキーワードになることに気づかされていったのである。
たとえば中世の「錬金術」は、かつては単なる錯誤や迷妄の産物とみなされてきた。しかし、その物質観や実験的方法が評価され、近代化学(近代科学)の原型と考えられるようになった。錬金術の不純な要素を切り落とし、洗練化したのが近代科学だというわけである。「占星術」や「魔術」についても同様の見直しがあった。
しかしこうした見方も、現代から過去を切る啓蒙史観、進歩史観の産物とする批判が起こり、今日では記号、シンボル、意味などに満ちた世界観として、科学的世界観と同等の価値をもつ思想体系として再評価されるに至っている。
錬金術に代表される中世的思考は決して「克服」されたわけではない。テレビや雑誌には中世的世界観の残滓である星占いが生き残りであり、呪術や魔術、オカルトなども新興宗教や、ホラー映画や小説の不可欠な要素として生き残っている。キリスト教やイスラム教、あるいは仏教などの伝統宗教についていうまでもないだろう。
では、中世的思考や世界観の存続は悪しきことなのだろうか。わたしたちは合理的思考によってこれを克服し、中世の迷妄から一刻も早く脱出すべきなのだろうか。
どうも、わたしにはそうは思えないのである。中世が今に生き残っているのは、人間が身体を備えているのと同じように、あるいは人間の脳や体や遺伝子に進化の痕跡が刻みこまれているように、その存在が生にとって基本的なものだからではないだろうか。
近代の合理主義的人間像では、人間が人間であることは思惟(思考)にあるとされた。つまりつまり頭だけに価値を求め、それによって中世の無知や迷妄から脱することができると信じたのである。人間は頭だけで生きられはずがないのに、それが可能であるかのように思いこみ、そうみなしてきたのである。ここに大きな錯誤があった。
同じように、わたしたちは長く中世を否定し、近代だけで生きられるように錯覚してきた。だが中世とは、身体のようにわたしたちの生の条件であり、必要不可欠なものなのではないか。切り捨てようと思えば、生存すら危うくなるような。
そのような生の原型としての、あるいは歴史的身体としての中世と中世藤沢の存在は、わたしの中でますます大きくなってきている。それをフォーラムの活動を通して、街の中で実践的に考えていくことが目下のテーマになっている。
(「遊行フォーラム15年記念誌」に寄せた文章から)
しかし藤沢の歴史に対する地元の関心はというと、従来、近世の藤沢宿が中心だったように思う。郷土史家の書くもののそのあたりの時代が多かった。
今から十数年前、自分の足元のことも少しは知らないとと思い、藤沢地域史研究会に入ったときにも、幕末史が対象であることに抵抗はなかった。藤沢の郷土史なら江戸という思い込みが刷り込まれていたのである。
と同時に、それは自分の中に「中世」のイメージが希薄だったこととも見合っていた。それ以前から、近世や近代のイメージは江戸・明治とともに比較的鮮明だった。しかし自分の不勉強を棚上げするわけではないが、鎌倉はともかく、南北朝や室町になるとどうにもとらえどころがなく、「中世藤沢」といっても「藤沢は鎌倉時代、遊行寺の門前町として発達した」という以上にイメージがわかなかった。そのため藤沢宿の発想からなかなか離れられなかったのである。
ところが遊行フォーラムという文化団体を有志で立ち上げ、ともに活動しているうちに、いつのまにか中世藤沢に関心が向かっている自分に気づかされた。最初のきっかけは第一回以来続いている「説経節公演」である。
武蔵大掾、若松若太夫、説教節政太夫らの語る中世の人々は、飢餓、病、災害といった悲惨な境遇の中でも、生への希望をもって、懸命に生き抜いた。現代人に比べて中世人のほうが立派だとはいわないが、少なくともより人間らしいのではないか。しだいにそう思えてきたのである。
その思いは中世のエッセンスを抽出した藤沢発の中世演劇「遊行かぶき」にかかわる中でいっそう深まっていった。
一方で、こうした転換は自分の興味や関心の変化とも結びついていった。
中世という身体
ここ十数年、わたしは科学技術の効用と限界について考えたり、書いたりする機会が多かった。きっかけは現役の科学者が犯罪者となったオウム真理教事件だったが、こうしたテーマを考えるうえで中世がひとつのキーワードになることに気づかされていったのである。
たとえば中世の「錬金術」は、かつては単なる錯誤や迷妄の産物とみなされてきた。しかし、その物質観や実験的方法が評価され、近代化学(近代科学)の原型と考えられるようになった。錬金術の不純な要素を切り落とし、洗練化したのが近代科学だというわけである。「占星術」や「魔術」についても同様の見直しがあった。
しかしこうした見方も、現代から過去を切る啓蒙史観、進歩史観の産物とする批判が起こり、今日では記号、シンボル、意味などに満ちた世界観として、科学的世界観と同等の価値をもつ思想体系として再評価されるに至っている。
錬金術に代表される中世的思考は決して「克服」されたわけではない。テレビや雑誌には中世的世界観の残滓である星占いが生き残りであり、呪術や魔術、オカルトなども新興宗教や、ホラー映画や小説の不可欠な要素として生き残っている。キリスト教やイスラム教、あるいは仏教などの伝統宗教についていうまでもないだろう。
では、中世的思考や世界観の存続は悪しきことなのだろうか。わたしたちは合理的思考によってこれを克服し、中世の迷妄から一刻も早く脱出すべきなのだろうか。
どうも、わたしにはそうは思えないのである。中世が今に生き残っているのは、人間が身体を備えているのと同じように、あるいは人間の脳や体や遺伝子に進化の痕跡が刻みこまれているように、その存在が生にとって基本的なものだからではないだろうか。
近代の合理主義的人間像では、人間が人間であることは思惟(思考)にあるとされた。つまりつまり頭だけに価値を求め、それによって中世の無知や迷妄から脱することができると信じたのである。人間は頭だけで生きられはずがないのに、それが可能であるかのように思いこみ、そうみなしてきたのである。ここに大きな錯誤があった。
同じように、わたしたちは長く中世を否定し、近代だけで生きられるように錯覚してきた。だが中世とは、身体のようにわたしたちの生の条件であり、必要不可欠なものなのではないか。切り捨てようと思えば、生存すら危うくなるような。
そのような生の原型としての、あるいは歴史的身体としての中世と中世藤沢の存在は、わたしの中でますます大きくなってきている。それをフォーラムの活動を通して、街の中で実践的に考えていくことが目下のテーマになっている。
(「遊行フォーラム15年記念誌」に寄せた文章から)