テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

蒸気王伝説ーイザムバード・キングダム・ブルネルの生涯

2010-12-31 12:08:49 | Weblog
   

 今日は蒸気好きのわたしがもっとも尊敬する蒸気テクノロジスト、イザムバード・キングダム・ブルネルを紹介しよう、
 ブルネルは1806年、イギリスのポートシーに生まれた。父のマークは、シールド工法の発明者として知られる大技術者である。土木工学史上の難工事として知られるテムズ水底トンネルが完成を見たのも彼の尽力のおかげだった。
 幼少期のイーザムバードは6歳でユークリッド幾何学をマスターするなど、神童ぶりを発揮した。ロンドンで初等教育を受けた後、父の祖国フランスに留学、名門学校で高等教育を受けた。
 卒業すると、たたき上げの名工ルイ・ブレゲーのもとで機械技術の基礎を学び、帰国後は父の協力者で、「工作機械の父」と称されるヘンリー・モーズレーのもとでさらに修行を積んだ。
 はじめ橋の設計などを手がけ、28歳の時に設立間もないグレイト・ウェスタン鉄道の技師長となった。ここで彼は超広軌による高速鉄道の建設を唱導した。
 そのレールの幅(軌間)は約2メートル。日本の新幹線の1.5倍という驚異的な広さだった。
 画期的な試みは多くの技術的困難に直面したが、ブルネルは創意と工夫でこれに立ち向かい、苦心の末ついに完成にこぎつけた。
 開通した広軌鉄道は、ロンドンーブリストル間を平均時速90km以上で走行することができた。これは新幹線開通前の在来線特急の平均時速を上回っていた。150年前の高速鉄道の実力がわかるというものだろう。
 この圧倒的スピードで、ブルーネルの鉄道はジョージ・スティーブンソンの狭軌鉄道のライバルとなった。ブルネルの広軌とスティーブンソンの狭軌、互いの信念を貫くように路線を延ばしていた二鉄道は最後に激突、どちらの軌間を採用するかで大論争が起きた。この「軌間戦争」は路線延長の差によって惜しくもブルネルの敗北で終わったが、その鉄道は世界最速の蒸気鉄道として鉄道史上に名をとどめることになった。
 その後、蒸気船の建造に挑んだブルネルは、蒸気船グレイトウェスタン号を完成させた。当時、大洋を蒸気船で横断するのは不可能とされていたが、ブルネルはグレイトウェスタン号による大西洋横断を成功させ、その可能性を証明したのである。
 その後、グレイトイースタン号、グレイトブリテン号という大型汽船を相次いで建造した。グレイト・ウェスタン号と同様、完成時には世界最大の汽船の名をほしいままにした。とりわけ最後に挑んだグレイトブリテン号は、全長210メートル、重量は1万9千総トンと、当時としては空前のスケールを誇る文字通りの怪物船だった。
 ブルネルはこの怪物船の建造に経験と情熱のすべてを注ぎ込み、着手から3年半余りで完成にこぎつけた。しかしすでに50歳の坂を超えたからだに連日のハードワークはこたえ、ついに病に倒れた。これにめげず静養ののち職場に復帰し、最後の仕上げを陣頭指揮したが、完成を目前にして甲板で再び倒れてしまった。
 病の床で処女航海の様子と爆発事故の報告を聞きながら、不死身のブルネルはついに不帰の人となった。
 ブルネルは想像力豊かな天才肌の技術者で、蒸気と土木の時代の基礎を築いた一代の技術者だった。彼の真骨頂はリスクを恐れず、ハードルが高ければ高いほど闘争心をかきたてて挑戦するところにあった。この技術屋魂が世界最速の鉄道や世界最大の蒸気船を可能ならしめたのである。
 日本ではジョージ・スティーヴンソンの名前が余りに突出したため、ブルネルの名を知るものは少ない。だが、その劇的な人生は今も技術のロマンをかき立ててやまない。