泊まる場所は見つかった。温泉に入り、サイト地でゆっくり過ごしてもよかったが、6年前の忘れ物を探しに行かなければならない。
それは6年前のエスケープルートでの道間違い、消し去ることのできない苦々しい思い出だ。
(終点に車を停め、林道を歩いて行く)
6年前は雨の中、坊主尾根を下った。濡れた岩は登山靴のグリップが利かず、常に滑落の恐怖がつきまとった。やがてエスケープルートとの分岐点に到着したとき、迷わず林道へのエスケープルートを選んだ。エスケープルートと言っても甘くはなかった。すぐに沢に出くわしたが、そこはすでに増水していて膝まで浸かりながら渡らねばならなかった。そして林道、ダンプが通る車道をイメージしていたら、とんでもなかった。それは荒れ果てていた、かっては林道だったかも知れないが、およそ林道などと呼べるような道ではなかった。それでも、それまで散々苦しめられたロープや梯子が無いだけましだった。夕闇が迫る中、とにかく急いだ。やがて、谷底に見える麓の村を目にしたとき、「あと一息」と緊張の糸が緩んだ。
ところがだ、時おり木々の間から見える村が一向に近づかないのだ、行けども行けども。こともあろうに、行くほど村が小さくなるではないか。次のカーブを曲がれば下りに転ずるだろうという思いが幾度も裏切らなければ異変に気づかなかった。
「しまった、この道は間違っている」と思ったときには、夕闇がそこまで迫っていた。
山で道を間違えたら、間違った場所まで戻るのが鉄則だ。間違えたとしたら林道の入り口か?(実は、林道の入り口は正しかった)
なぜそう考えたかというと、歩いてきた道はあまりにも一般的な「林道」からかけ離れていたからだ。入り口付近をよく探せばきっとイメージしたような「林道」があったはずだ。-この時点でパニックになっている-
来た道をひたすら戻る。急がなければ日が暮れる。行けども行けども今度は林道入り口にたどり着かない。やがて滝となって流れる大きな川に出た。
「こんなの無かったぞ」と、絶望にうちひしがれ、目の前が真っ暗になった。
不安が頂点に達したとき、見覚えのある、確かに見覚えのある我が愛車アトレーが目に飛び込んできた。
地獄で仏だった。涙が出るくらい嬉しかったが、不思議でならない。狐につままれた気分だった。
後日、地図を見て、そのからくりが分かった。分岐点を2回間違ったのだ。
間違いの間違いで、結果的には林道入り口に行くことなく登山口に達したのだ。
黄色が本来のエスケープルート(鋭角に曲がって行く)
赤の矢印が1回目の間違い
2回目は林道入り口に戻るために左折(赤の矢印の逆方向)しなければならないところを直進(緑の矢印)したので、気づかないうちに本来の道に戻っていた。
濡れ鼠のていで美人の湯を訪ねた。
そこで店主に、雨の中を命からがら下山したことと、エスケープした林道で迷い、不思議な体験をしたことを話すと、「あの林道は迷うとこはないけどな」と首をかしげられた。
ただ、下まで降りず、林道にエスケープしたことは褒めてもらったが、それ以前に「こんな天気の日には大崩には登りませんよ」と言われた。
昨日お会いしていたら「止めていました」とおっしゃるが、いかんせん、前日は木曜日で美人の湯は定休日だったのだ。
ずうっと気になっていた6年前の苦い思い出、いつかはもう一度行って確かめねばとの思いが叶えられた。
結論から言えば、やはり「間違えるような場所じゃない」だった。
どうしてあそこを間違ったのだろうか。
恐怖と焦りから冷静さを欠いていた、6年前は目印の赤テープがコース全般に少なかった、早く下山することに夢中で視野が狭くなっていたなどが考えられる。
今では、目印のテープが幾重にも巻き付けてあった。
いろんなことを思いながら、今来た道を下りていく。
午後の光を浴び黄葉混じりの雑木林が輝いていた。
6年前のことが嘘のような余裕の林道歩きだ。
あのときは違う景色に見える麓の村
ゴールに到着
この後は美人の湯で汗を流し、車中泊をして明日の大崩登山に備えた。
ー 続く ー
それは6年前のエスケープルートでの道間違い、消し去ることのできない苦々しい思い出だ。
(終点に車を停め、林道を歩いて行く)
6年前は雨の中、坊主尾根を下った。濡れた岩は登山靴のグリップが利かず、常に滑落の恐怖がつきまとった。やがてエスケープルートとの分岐点に到着したとき、迷わず林道へのエスケープルートを選んだ。エスケープルートと言っても甘くはなかった。すぐに沢に出くわしたが、そこはすでに増水していて膝まで浸かりながら渡らねばならなかった。そして林道、ダンプが通る車道をイメージしていたら、とんでもなかった。それは荒れ果てていた、かっては林道だったかも知れないが、およそ林道などと呼べるような道ではなかった。それでも、それまで散々苦しめられたロープや梯子が無いだけましだった。夕闇が迫る中、とにかく急いだ。やがて、谷底に見える麓の村を目にしたとき、「あと一息」と緊張の糸が緩んだ。
ところがだ、時おり木々の間から見える村が一向に近づかないのだ、行けども行けども。こともあろうに、行くほど村が小さくなるではないか。次のカーブを曲がれば下りに転ずるだろうという思いが幾度も裏切らなければ異変に気づかなかった。
「しまった、この道は間違っている」と思ったときには、夕闇がそこまで迫っていた。
山で道を間違えたら、間違った場所まで戻るのが鉄則だ。間違えたとしたら林道の入り口か?(実は、林道の入り口は正しかった)
なぜそう考えたかというと、歩いてきた道はあまりにも一般的な「林道」からかけ離れていたからだ。入り口付近をよく探せばきっとイメージしたような「林道」があったはずだ。-この時点でパニックになっている-
来た道をひたすら戻る。急がなければ日が暮れる。行けども行けども今度は林道入り口にたどり着かない。やがて滝となって流れる大きな川に出た。
「こんなの無かったぞ」と、絶望にうちひしがれ、目の前が真っ暗になった。
不安が頂点に達したとき、見覚えのある、確かに見覚えのある我が愛車アトレーが目に飛び込んできた。
地獄で仏だった。涙が出るくらい嬉しかったが、不思議でならない。狐につままれた気分だった。
後日、地図を見て、そのからくりが分かった。分岐点を2回間違ったのだ。
間違いの間違いで、結果的には林道入り口に行くことなく登山口に達したのだ。
黄色が本来のエスケープルート(鋭角に曲がって行く)
赤の矢印が1回目の間違い
2回目は林道入り口に戻るために左折(赤の矢印の逆方向)しなければならないところを直進(緑の矢印)したので、気づかないうちに本来の道に戻っていた。
濡れ鼠のていで美人の湯を訪ねた。
そこで店主に、雨の中を命からがら下山したことと、エスケープした林道で迷い、不思議な体験をしたことを話すと、「あの林道は迷うとこはないけどな」と首をかしげられた。
ただ、下まで降りず、林道にエスケープしたことは褒めてもらったが、それ以前に「こんな天気の日には大崩には登りませんよ」と言われた。
昨日お会いしていたら「止めていました」とおっしゃるが、いかんせん、前日は木曜日で美人の湯は定休日だったのだ。
ずうっと気になっていた6年前の苦い思い出、いつかはもう一度行って確かめねばとの思いが叶えられた。
結論から言えば、やはり「間違えるような場所じゃない」だった。
どうしてあそこを間違ったのだろうか。
恐怖と焦りから冷静さを欠いていた、6年前は目印の赤テープがコース全般に少なかった、早く下山することに夢中で視野が狭くなっていたなどが考えられる。
今では、目印のテープが幾重にも巻き付けてあった。
いろんなことを思いながら、今来た道を下りていく。
午後の光を浴び黄葉混じりの雑木林が輝いていた。
6年前のことが嘘のような余裕の林道歩きだ。
あのときは違う景色に見える麓の村
ゴールに到着
この後は美人の湯で汗を流し、車中泊をして明日の大崩登山に備えた。
ー 続く ー
登り慣れた山ならともかく、あまり馴染みのない山道で、おまけに夕闇が迫っていたら…
6年前の “狐につままれたような体験” のカラクリ、面白く読ませていただきました。
続きが楽しみです!
案内テープ、二重巻きは分岐点で、白いテープはこの先は危険地点、
だが、この近年は、赤や黄色やピンクなど色んなテープがあって
案内テープを信じたらとんでもない事になりかねません
私は、山の目印や案内テープは信じないことにしています。
でも、やっぱり自己資料だけでは迷いそうで困っています。
「狐につままれたような体験」の記憶はずうっと頭の片隅に残っていました。間違った箇所は地図上では理解していたのですが、実際に現場を訪れて納得しました。焦りから周囲を見渡す余裕がなくなっていたんですね…
私が不覚にも道を間違ったところは、目印のテープ以前の平静さをなくした精神状態(パニック)が原因でした。