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アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

長崎探訪① 稲佐 「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年11月21日 | 吉井勇
実家の改修が終わったころ、山は纏っていた紅葉葉を散らしていました。
秋山への未練がなくなった今、中断していた吉井勇研究に心置きなく時間が使えるようになりました。その手始めが、吉井勇が若き日に新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿ることです。

まずは地元の長崎からと思ったのですが、実はその長崎が一番難しいのです。
なぜならば、その旅の紀行文である「五足の靴」には、長崎のところだけがすっぽりと抜けているからです。
紀行文「五足の靴」は一緒に旅をした五人が輪番で書いていたのですが、長崎の番だった与謝野寛が怠けたために全く記録が残っていません。

しかし、後に出版された吉井勇の歌集に収められている歌から、一行が長崎で立ち寄ったところが見えてきます。

つれなくも稲佐少女はことさらに酸き木の果をわれに与ふる 

これは明治43年(1910年)に出された処女歌集「酒ほがい」に収められていますが、「明治40年(1907年)8月、九州の旅にて」と補足まであるので、この歌から稲佐に行ったことがわかるのです。

このように、長崎での足どりを掘り起こすことができる歌を探してみました。

歌集「夜の心」の「長崎紀行」には

その昔稲佐にわたる船にして見し夕雲に似たる雲かな

露西亜文字遊びの家としるしたる招牌も見ゆ稲佐おもへば


歌集「旅塵」の「長崎会遊」には

露西亜語の招牌多き街にさすさびしき夕日いまも忘れず


以上の歌からも、「五足の靴」の一行が稲佐を訪れたのは間違いないようです。

稲佐は、幕末の開港以来ロシアの軍艦の寄港地で、水兵相手の遊郭とし賑わっていた街でした。吉井達が訪れた時には、街のいたる所にロシア語表記の看板(招牌)はあるものの、2年前の日露戦争でロシアの軍艦が来なくなり寂れた街になっていたのでしょう。しかし、その光景が吉井の心に強く残ったのでしょうか、そんな街の様子を吉井は詩にもしています(ここでは省略)。
ただ、「五足の靴」御一行様の稲佐訪問の目的は遊郭視察にあったというのが私の考えです。当時はロシア人は来なくなったものの、日本人相手に遊郭は細々と続いていたでしょうし、ちょうどお昼頃だったので、どこかに登楼し豪華な昼食をとったのではなかろうかと思います。夜は夜で丸山の遊郭にでかけ、紀行文さへ書けないほどに遊び惚けたのではなかったのかと。
「失礼な」と言われそうですが、そう考えたのはメンバーの一人であった北原白秋が次の回想記事を遺していたからです。
「(略)殆ど九州の西部の都会は大半見尽くして来た。而して殆ど毎夜のように酒にも女にも親しんで来た」


さて、そんな稲佐を訪ねてきました。

稲佐の街並み(左手が稲佐山)



稲佐の遊郭への途中にある悟真寺



「五足の靴」当時の悟真寺 ☆あの上野彦馬が撮影した写真だそうで境内の説明板にありました。


唐風の朱塗りの山門は一行の目に留まったはずです。

本堂

当時の本堂はロシア将校の宿舎にもなったことがあるそうですが、原爆で焼失したために今の本堂は戦後再建されたものです。

この悟真寺の横には広い異人墓地(現在は「長崎国際外人墓地」)があります。当時もあったのですが、吉井達が訪れたかどうかは記録が残っていません。



赤煉瓦の両側が墓地です。


ロシア人墓地





墓地内にあるロシア正教の教会


日露戦争の日本海戦で亡くなった艦長の墓


碇のレリーフは海軍さんの墓でしょうか。









オランダ人墓地


鎖国政策時代、出島に住むオランダ人のための墓地で、オランダ商館長の墓や日本人遊女が恋人のために建てた墓もあるとのことです。


中国人墓地


「福州」の文字が読み取れます。


異人さんが眠る墓地は、長崎の港が見下ろせる静かな所でした。



「五足の靴」の一行がこの墓地を訪れるのは時間的に無理だったろうと思われますが、私にとっては、かっての国際交流都市であった長崎の歴史が肌で感じられる所でした。
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