TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

吉井勇が詠んだ英彦山

2019年11月24日 | 吉井勇
 吉井勇が英彦山を訪ねたのは1936年(昭和11年)のことである。この年、吉井は141日にも及ぶ大歌行脚の旅に出ている。歌行脚といえば聞こえはいいが、その実傷心旅行であった。記録には、6月15日に小倉に着き「戸畑、八幡に赴き、更にまた會田氏等とともに英彦山に登る。山上の宿坊にひとり残りて、二泊の後小倉に帰る。」とある。英彦山に「ひとり」残ったところに吉井の悲しみの深さが感じられる。

「冬夜独座」というタイトルの中に次の歌がある。

 夜もすがら身を責め心さいなむをわれのこの世の荒行とせむ


 さて、ここからが英彦山を詠んだ歌である。中でも強烈なのが

 寂しければ酒ほがひせむこよひかも彦山天狗あらはれて来よ

英彦山に住むと伝えられる天狗でもいいから酒の相手をしてくれというような、やけっぱち感が強く伝わってくる。自ら求めて孤独になりながら、やはり寂しいという胸中の吐露となっている。
あるいは自分と同じように、深い悲しみを抱きながら山に隠棲している天狗に親近感を覚えたのかも知れない。

この歌は棟方志功の版画になっているので、そのことでも広く知られている。




歌集「天彦」の中には彦山を詠んだ歌が、上記のも含め十首収められている。
山の上に2泊もしたからだろうか、雲や霧を詠んだのが四首ある。

吉井は実は寂しがり屋である。求めて孤独の世界に自分を置いているが人恋しくてたまらないのである。歌集「天彦」は巻頭に「寂しければ」で始まる歌が72首も続く。その筆頭が「寂しければ人にはあらぬ雲にさへしたしむ心しばし湧きたり」で、この歌からもそのことが窺える。
「英彦山」の中では、雲や霧について次のように詠っている。

 英彦山にたたなはる雲をはろばろと見はるかしつつもの思ふなり
 
 見るほどに鷹の巣山も宙に浮き七谷八峡雲わたり来る


(鷹の巣山)


朝な夕なの低い雲がこの鷹の巣山の麓に湧いたのだろう、山が宙に浮いて見えるほどに。


 彦山の荒山伏のあくびよりこれや湧き来し雲にあらぬか

よほど特徴的な雲で、「あっ、あっ、あ…」と大胆なあくびを連想させるような、まるまるとした雲がポツン、ポツン、ポツン…と、ほどよい距離で連なっていたのであろう。
(本文中で「英彦山」、「彦山」、「英彦の山」と表記が混在しているが、これは原文のまま)


 さむざむと霧のひまよりあらはれし英彦の山の山の骨かも








 彦山の杉の雫に立ちぬれぬ妹を待つ身にあらなくにわれ

この歌はあまりにも悲しいものになっている。若い頃の「酒ほがひ」に収められた青春の放埒の歌とは対照的で、自虐的な歌だ。
万葉集、大津皇子の「あしひきの山のしづくに妹待つとわが立ち濡れし山のしづくに」を元にしたのだろう。




 見がまえて豊前坊みちいそぐなり天狗礫も降り来とばかり

「豊前坊」は日本八代天狗の豊前坊天狗なのか、それとも豊前坊高住神社なのか?高住神社のことを豊前坊と言うし…

豊前坊へと続く昔ながらの道


怪しげで、どこからともなく天狗礫が飛んできそう。身構えながら豊前坊へと急ぎ足で行っているのか?
それとも豊前坊天狗が、石が飛んでくるならきてみろと身構えながら歩いているのか?

豊前坊(高住神社)へと続く石段


豊前坊




豊前坊の御神木「天狗杉」




英彦山のお土産 天狗が描かれているお菓子。

英彦山の名物に「英彦山がらがら」がある。これは土鈴としては日本最古で800年の歴史があるが、これも歌に詠み込んでいる。


 天狗風にはかに吹き来あなやわが詠草飛ぶと土鈴(つちすず)を置く



 英彦山(ひこやま)ちむろの谷は見ざれども心は遠く空にこそ飛べ





「天彦」には載っていないが、次の歌も詠んでいる。

 彦山に来て夜がたりに聴くときは山岳教もおもしろきかな



「山上の宿坊」に2泊したとあるが、その時のことだろうか。



 英彦山はおもしろき山杉の山天狗棲む山むささびの山






ゆくりなくこの山に来て見まゐらす役の行者の像のこごしさ




最後に、吉井勇が英彦山に登った20年後に出された歌集「形影抄」に収められた英彦山の歌


 酒汲みてあらたなる世を語らむ彦山天狗わが往くを待て


襲いかかる不幸に出口さえ見えず旅に出たのが1936年で、その時の歌と1956年の「形影抄」の歌を比較すると吉井が精神的にも社会的にも復活できたことが伝わってくる希望に満ちた歌となっている。

 
 寂しければ酒ほがひせむこよひかも彦山天狗あらはれて
 酒汲みてあらたなる世を語らむ彦山天狗わが往くを待て

「妹を待つ身にあらなくにわれ」と歌っていた吉井は英彦山に登った翌年の1937年に孝子夫人と再婚している。このことを吉井は「孝子と結ばれたのは運命の神様が私を見棄てなかったためと言ってよく、これを転機として…)」と述懐している。
人目を避けるため猪野に隠棲していた吉井が孝子夫人との結婚を機に高知市内へ、その後京都に移り住んだ。そして歌会始の選者、日本芸術院会員へと返り咲き、吉井の歌は以下のように評価された。
「人生を味解したものの諦観がその歌に色濃く匂うて来、いよいよ老境の滋味を示しはじめていた。勇調は年とともに深化を加えて潜光を放つに至った」(木俣修「吉井勇研究」)
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