
以前、「風まかせ」という雑誌の表紙に書かれていた「旅と野宿は男の至福」というフレーズを目にしたとき、「何と素敵な言葉だろう」と思った。今でこそ「野宿」という言葉の響きに懐旧の情を覚えるが、天山歩荷のあの頃はそんな余裕などなかった。
サイクリングの場合、キャンプ場に泊まるというのは希で、けっこう行きあたりばったりだった。駅の敷地はトイレや水が使えるので何回かお世話になった。あとバス停や公園、橋の下の川原など行く先々でテントを張る場所を求めた。
ある駅の軒先で晩飯を作っていたら、おばちゃん達が寄ってきて、しきりに「いいね、いいね」と口していたのを覚えている。あのときは、人が行きかう中で飯を作っていて、こんな貧乏旅行のどこがいいのかと心の中で思っていたが、自分もこの年になると、自転車で旅している若者などを目にすると、同じように「いいね…」とつぶやき、郷愁にも似た思いが胸の中に満ちてくる。あのときの駅前のおばちゃん達も、自由に旅している私たちを見て心の底からうらやましく思ったのであろう。
さて、冒頭の写真は1979年の春、南九州をサイクリングしたときのものだ。開聞岳近くの海岸に建っていた国民宿舎の敷地の隅にテントを張らせてもらった。山に登る前と登った後の2泊も。今思えば、当時は若者の旅行にとても寛大であったように思う。行く先々でいっぱい親切にしてもらったのを覚えている。前回(前々回も)のブログ、北海道サイクリングのときには2回も民家に泊めてもらった。札幌と旭川である。どちらも街中でどこにテントを張るか泊まる場所に困っていた。札幌ではたまたま通りかかったおばちゃんに「どこかテントが張れる公園はありませんか?」と訪ねたら、即座に「うちに泊まらんね」と言ってくれたのだ。全く見ず知らずの、しかも汚い恰好の5人組を目の前にして。旭川では同じようにラーメン屋さんに泊めてもらった、道を尋ねただけで…
天山歩荷のあの頃、周遊券、夜行列車、ユースホステルなど、お金を持たない若者の旅を支援する制度に加え、カニ族・エビ族の若者達を温かく見守ってくれる大人達の目が多くあったように思う。