TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

太良嶽山金泉寺(1) ~ 巡礼登山

2014年06月09日 | 山(県内)


これまで四季折々の自然を愛でながら何度となく登った多良岳ですが、今回は「山岳信仰の山」というテーマで歩いてきました。

現在私は、多良岳や金泉寺のルーツに興味を持って調べている最中です。
古文書には、多良岳、多羅岳、太良岳、太羅岳、太郎岳といろいろな表記が出てきます。
(もっとも「岳」は「嶽」と表記してありますが…)
昔は、例えばイチローを「一郎」や「一良」と表記していたので、「郎」と「良」は同じです。
そうすると太郎岳も太良岳も同じ山と考えていいようなのですが、別の山という説もあります。
しかし、別の山だったとしても大権現の起源は、どれも和銅年間で一致しています。
日本史で覚えたように「通貨になれや和同開珎」が708年で、その次の年の709年に太良(郎嶽三社大権現開創の記述が出てきます。
しかも、開いたのは名僧で名高いあの行基と記してあります。
さらに100年の後、弘法大師空海が留錫し、自ら不動明王を刻み本尊として金泉寺を創建したとあります。

高野山真言宗 太良嶽山金泉寺の由来には次のように書かれています。
 「金泉寺は、空海 (弘法大師)が平安時代の初め頃(806~07)行基菩薩の遺跡を訪ね、
  ここに錫を留め山頂よりやや下った西側の清水のこんこんと湧き出る所に、
  身の丈四尺余の不動明王と二童子立像を刻んで本尊として建立した寺である。
  太良嶽大権現の神宮寺として肥洲の真言宗道場として多くの信徒に崇められて来た。
  即ち祈祷仏教として名高く『国家安泰、五穀豊穣、航海安全、神仏混交の名刹』として
  遠近の崇敬の聖地として栄え最盛期には30余の宿坊を数えたと言う。」

大いに栄えた金泉寺ですが、古の都奈良のお寺でさえ戦火や廃仏毀釈の受難を受けたように、太良嶽も例外ではありませんでした。
その後の主な出来事をまとめてみました。

1583年 キリシタン教徒の焼き討ちにあい金泉寺消失
1663年 諫早氏の保護で金泉寺再建
1699年 本明川大洪水(487人の死者)、翌年大干ばつ
1703年 千手観音奉納(大水害の死者の霊を弔うため)
1868年 神仏分離令
1871年 太良山大権現廃社
1911年 金泉寺建立
1922年 上宮に石の祠建立
1951年 県営山小屋建設
1957年 諫早大水害
1969年 金泉寺建立
1987年 千手観音像、不動明王像、二童子立像 高来町文化財に指定
2007年 再建計画「多良岳と『文化財』を守る会」発足
2009年 金泉寺再建
2010年 千手観音開眼法要

これまで私は、自然をテーマに登っていましたので、高来町からの金泉寺登山道はあえて避けていました。
人工的に石を敷き詰めた登山道が好きになれなかったからです。
ただ、あの石を敷き詰めた登山道ですが、多良岳は今も多くの参拝者登るので、木の根や登山道が傷まないようにと、自然保護の観点からは必要とのことです。

今回は、連綿として人々の信仰を集めた多良岳に思いを馳せながら登ってきました。
するとあんなに嫌だった石の登山道にも、それを積み上げた人の思いが感じられ、
石段を一段一段踏みしめながらの登山は、いつもとは違う巡礼の旅となりました。

(高木町の金泉寺登山口 数あるルートの中で、これが金泉寺への最短ルート)


(敷き詰められた石の登山道)




(わずか20分で金泉寺に到着 コンクリートの車道は…)


(高野山真言宗・太良嶽山金泉寺の看板 左前方の石碑には金泉寺縁起が刻まれています)


(「行基」の文字を見つけることができます)


(太良嶽大権現への石段)




(役の行者座像:1712年の作 「役の行者」は奈良時代の修験道の開祖)


(梵字が刻まれた碑)


(羅漢 岩の上の隙間にあり、足下ばかり見ていると見落とします)


(いかにも修験道場といった雰囲気の鎖場)


(大権現上宮への最後の石段 早春にはマンサク、今はツツジが彩りを添えてくれます)


(太良嶽大権現上宮 今は石の祠だけですが以前は大きな社があったのでしょう。手前の石畳の広さがそれを物語っています)



(墓石群 金泉寺近くの森の中に静かに佇んでいます。信仰の山を守ってこられた方々がここに眠っておられます)


金泉寺の石垣と墓石群について、諫早市のホームページに次のように紹介されています。

「金泉寺本堂正面に、野面積みの苔むした古い石垣が築かれています。台風を防ぐものか、暴徒に備えてのものか、いつ頃築かれたか記録はありません。
墓石群は本堂東側の坂上の尾根近くの樹林の中にあります。歴代先師の宝篋印塔、大きさが種々の五輪塔、板碑、切支丹焼打ち後の法印や墓石等があります。
中興以前の舜恵法印や以後の法印名が確認できますが、別院にも法塔があります。この中で五世賢雄大和尚と九世賢恵法印の墓は、太良町片峰にあった廃寺『縁故庵』跡の墓地にあります。これは法印が隠居された後、この廃寺で余生を過ごされたのではないかとも考えられます。」

上記のように書かれていたので、墓石群の中から舜恵法印のお墓を見つけお参りをしたかったのですが、見つけることができませんでした。
舜恵法印は、1583年のキリシタン教徒の焼き討ちの際に、金泉寺の本尊を背負って逃げ、洞窟に避難させたと太良嶽縁起に記してある僧侶です。
お墓は特定できませんでしたが、墓石群全体にしばらく手を合わせてから下山しました。
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