闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

人間存在の希薄化

2010-11-01 00:07:34 | 東欧滞在記
その後少し間をおいて、今度は3階の特別室で、波蘭(ポーランド)側の学芸員ルイさん、友人、私の3人の公開ディスカッション(通訳はリシャールさん)。若い人を中心にまずまずの入り。B市の市長も後ろに陣取っている。

ディスカッションでは、まずルイさんが簡単に展覧会の概要を説明したのち、戦後の日本の文化状況を含めて、より詳細にこの展覧会の背景を説明するよう、私に振りがあった。
そこで私は、展覧会全体にかかわる基調として、次のようなことを指摘した。
まず最初に、一般的には、戦後の波蘭が社会主義体制に組み込まれて辛苦を重ねていたあいだ、日本は早い段階で戦後の混乱から抜け出し経済的な繁栄を謳歌していたように受け止められているかもしれないが、日本の戦後にも複雑な問題があったということ、そのなかでも大きな問題がアメリカとの同盟関係で、アメリカと同盟を結ぶことが日本が独立を回復するための必須条件だったために、日本はアメリカと安全保障条約を結ばざるを得なかったこと、この条約が10年ごとの改定だったために、60年と70年には、大規模な反安保運動があったことをアウトラインとして述べた。このあたりは、聴衆が理解しやすいように、戦後の波蘭の状況と日本の状況を比較しながら考えて欲しいという配慮をはたらかせている。
さて、1964年の東京オリンピックは、日本の復興を内外にアピールする大イベントだったいっていいが、繁栄の一方では、それを疑問視する人たちもいた。たとえば、三○由紀夫、渋○竜彦らは、そうした日本の戦後のあり方に疑問を抱いていた代表的な存在だったとも考えられる。渋○にとって、戦後の日本は力ある者が蟠踞する野蛮な時代で、それは、サド侯爵の作品世界とオーバーラップしてみえたのではないか。また三○もそのことに気づいており、それゆえ渋○のサドの翻訳をいち早く支持したのではないか(今回の展覧会では、三○が推薦文をよせた渋○による『ジュスティーヌ』の翻訳の初版も展示している)。彼らが気づいていた人間性の希薄化が一方ではサディズムの紹介という形であらわれ、もう一方で、波蘭出身のあるアーチストの紹介につながっていったのではないか。友人は、渋○によるそのアーチストの紹介にもっとも強く受けた者の一人で、それによって作風をまったく変更し、そのアーチストの影響を強く受けた作品を発表し続けて現在にいたっている。そのことが、結果的に今回の波蘭の展覧会につながっているのだが、それゆえ友人の作品も、人間の希薄化をどのように表現するかというアプローチの一つという視点からとらえて欲しいと指摘して発言を結んだ。
ディスカッションは、その後ルイさんと友人のあいだでかなり盛り上がり、ギャラリーが予定していた時間をかなり超過してしまったようだ。それでも、聴衆は熱心に最後まで聴いてくれた。

ディスカッションが済むと、今度はワルシャワから来た放送局の記者のインタビュー。主催者の方で友人の疲労を心配し、インタビュー時間を10分程度にして欲しいと申し入れたようだが、記者は非常に熱心で、結局1時間近く、いろいろなことをきいてきた。
そのなかでも最大の関心は、やはり、なぜ友人は波蘭のアーチストに注目したのか、その作品のどこが友人を引きつけたのかということだった。
話がかなりこみいってきたところで、最後に私が日本の十一面観音に言及し、その説明で記者も納得したのか、われわれはようやくインタビューから解放された。
それがどのような内容だったかというと、十一面観音の頭部には、喜び、怒り、祈り、蔑みなどの表情をもった十一の顔がついているが、それは、単に人間のさまざまな感情を一体の像に封じ込めて表現したものではなく、人間は喜んでいる時に心のどこかで怒っており、祈っているときに心のどこかで蔑むといった複雑な存在であり、人間のそうしたあり方をリアルに表現しようとすれば、結果として観音像の頭部にさまざまな顔(表情)をつけざるをえないということではないか。結果として、リアリズムにはさまざまの種類や幅があり、表現スタイルは変わっても、波蘭のアーチストや友人が求めているのは、そうしたリアリティーではないか、ということだ。

こうしてわれわれがインタビューに応じている間に、いつの間にか時間は10時をまわり、ギャラリーにはわれわれの他誰もいない。みなK市で首を長くしてわれわれを待っているとのことで、急ぎ、K市の打ち上げ会場に回った。