闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

夢の町プロツワフ

2010-11-07 00:27:54 | 東欧滞在記
10月2日、今日は波蘭(ポーランド)に来てからもっとも天気がいい。展覧会主催団体の配慮で、この日はシレジアの中心都市ブロツワフを見物することになっている。
疲れているし、他にすることもないので、いつもより少し遅目に起床。昨日の今日で、友人がすっきり起床するとは思えないので、彼の部屋には声をかけず、一人で朝食。ホテルの周りを歩いて時間をつぶしているところに、彼も起き出してきた。やはり朝食は食べたくないという。

10時過ぎに主催団体のプジョーがホテルまでわれわれを迎えに来た。プロツワフまでは約2時間のドライブ。例によってほとんど起伏のないなだらかな景色が続くが、これまで見た光景と比較すると森が多い。森がとぎれると畑だ。そのくりかえしのなかで、私は生まれてはじめて地平線を見た。しかしこうして穏やかな光景を見ているうちに、私も友人もうとうとと寝込んでしまい、「あとしばらくでプロツワフですよ」という声に起こされた。

ブロツワフ(ドイツ名ブレスラウ)は古くからのシレジア地方の中心で、歴史も古い。現在はシレジア地方の一部、低シレジア(ドルヌィ・シロンスク)県の県庁所在地で、政治的な重要性は低下しているが、それでも波蘭で第4の大きな都市だ。
私がブロツワフを尋ねてみたかったのは、ここがユダヤ系の指揮者オットー・ク○ンペラー(1885年~1973年)が生まれた町だからだ。
ク○ンペラー一家とブレスラウの関係をピーター・ヘイワースが書いた評伝『オットー・ク○ンペラー:その生涯と時代』から簡単にさらっておこう。
ク○ンペラーの父ナタンはプラハの生まれで、商売を目的としてシレジアに移住し、1869年にブレスラウに定住した。この町で、小間物とおもちゃを販売していたという。1881年に、たまたまブレスラウを訪問したイダ・ナタン(彼女はピアノがうまく、ク○ンペラーに最初に音楽的な教育をしてのは、この母親である)と結婚し、83年に長女レギナが、85年に長男オットーが、89年に次女マリアンネが生まれている。次女が生まれた89年の暮、ク○ンペラー一家はイダの実家があったハンブルクに転居し、このためク○ンペラー自身は、自分をハンブルク育ちと見なしていたという。したがって、ブレスラウのイメージが彼の脳裏に明確に刻まれることはなかったかもしれないが、それでも原光景として、彼の人格のどこかにこの町の印象が残っているのではないだろうか。

先を急ごう。
われわれが乗ったプジョーは、ブロツワフの中心にあってこの町を守護している洗礼者ヨハネ大聖堂横に止まった。ここでガイドのマリアさんを紹介してもらい、後ほど落ち合う場所と時間を打ち合わせ、ブロツワフ見物のはじまりだ。主催団体が予約を入れて手配してくれたマリアさんは、フランス語のガイドだが、ゆっくり発音するので私でもききとれる。
13世紀以来の歴史をもつ洗礼者ヨハネ大聖堂では、まず尖塔に登ってブロツワフの町を一望。ブロツワフは、もともとオドラ(オーデル)川とその中州を中心に広がった町で、橋がとても多い。北のヴェネツィアという異名もあるそうだ。また大聖堂の周囲には、カトリック関係の建築物が非常に多い。大聖堂自体は第二次世界大戦で大きな被害を受け、内陣の大半は戦後に再建されたものだというので、その状況をくわしくきいてみると、戦前のブロツワフはドイツ領だったため、ソビエトの空爆によって徹底的に破壊されたという。ワルシャワとアウシュヴィッツではナチス・ドイツの蛮行をまざまざと見せつけられたが、ブロツワフに来ると、蛮行の主はソビエトで、結局、戦争には善も悪も、正義も不正義もないのだということを強くおもいしらされた。
さて大聖堂から中州へと続く橋をわたったとき、橋桁にたくさんの鍵がぶらさがっているのでマリアさんにその理由を尋ねると、結婚した男女が、二人の仲が永遠に続くことを祈願して、結婚式後に橋桁に鍵をかける習慣があるのだという。
中州をとおって左岸に着くと、橋のたもとに20世紀のはじめに建てられた巨大な市場があるので、今度はそれを見物。この市場はとても活気があり、店の種類もさまざまだ。八百屋の店頭には、見たこともない野菜や珍しい茸が並べてあり、おもわず足が止まる。木の実の店もおもしろい。友人と私は、菓子売り場で、日本への土産を物色。肉も菓子も驚くほど安い。
市場から方向を転じて、今度はブロツワフ大学へ向かう。この大学は18世紀にハプスブルク家によって創建されたもの。この大学も戦争で大きな被害を受けたのだが、幸いなことに創建当時の講堂が残っていて、バロック様式による過剰なほどの装飾をとおして、ハプスブルク家の栄華をしのぶことができる。またブラームスの「大学祝典序曲」はこの大学から名誉博士号をもらった返礼として作曲されたもので、音楽ホールにはブラームスを記念するプレートが残っている(ただしこの音楽ホールは再建された建築物)。
大学を出で次に案内されたのは、昔の肉屋横町。長屋のようにつらなった一画に、昔は小さな肉屋がたくさん入っていたという。横町の傍らにある動物の小さな像がかわいい。ただしこれらは、横町のほんらいの意味からすると、「材料」ということになる!現在の肉屋横町は、大半が美術商の店になっており、説明を聞かなければ単なるおしゃれな一画として見過ごしてしまいそうだ。
肉屋横町を抜けて少し歩くと、旧市庁舎のある旧市場広場。この広場は大聖堂同様、13世紀からの歴史をもつといい、市庁舎のなかには、中世以来のビア・ホールもある。ちなみにこの広場の一画にも、クラクフ同様、動物の表札をつけた家が建っていて、その古さをしのばせる。広場を取り囲む建物の多くは戦争の被害を受け、戦後に再建されたものだというが、それらが連なる夢のような美しさは、ちょっと表現のしようがない。ワルシャワの旧市街も美しかったが、ブロツワフの旧市街はそれを上回る。陳腐な表現だが、おとぎの国に迷い込んだようだ。カトリックの町ブレスラウは、ユダヤ人のク○ンペラー一家には無縁だっただろうが、この広場には、彼らも何度か足を運んでいるのではないだろうか。
感心して次から次へと写真をとっていると、ガイドのマリアさんにそろそろ食事にしましょうと誘われる。ブロツラフにレストランのあては何もないのでマリアさんにまかせたところ、学生食堂のようで雰囲気はあまりよくないが、オープンスタイルで好きなものが選べる店があるのでそこにしましょうと薦められる。行ってみると、ほんとうに好きなものを好きなだけとって重さで勘定するという合理的なシステムの店だが、味もそこそこいける。おいしいからと料理の写真をとっていたら、ちょうどそこでデジカメのバッテリーが切れてしまった。要するにブロツワフは、一日でデジカメのバッテリーが切れてしまうような美しさだ。こんなことはワルシャワでもクラクフでもなかった。ブロツラフでは、なにもかにもがすべてフォトジェニックだ。
食事を済ませたところで市内見物に予定していた時間もちょうど終わり、プジョーに乗り込んでブロツワフを後にした。