闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

夜の果ての旅

2006-12-02 15:35:11 | 愉しい知識
これまで、自分の過去のことを他人に向けて発信したことはほとんどなかったが、こうして過去のことをブログにつづってみると、それを他者がどう読むかという前に、自分で自分のことを第三者的に読み、考えることができるというのがおもしろい。そしてそういう読み方をしてみると、ゲイとしても、自分は特殊な生き方をしてきたのかなとも思う。ただ、自分にとってはそれが唯一の生き方だったのだから、それを否定するつもりは少しもない。今日は、ブログを書くことによって自分のなかで明確になってきたことを少し書いてみたい。

   *    *    *

新宿二丁目でいろいろな人と話したり(ただし、最近はちゃんと話のできるバーは少なくなった)、いろいろな人のブログを読んだりすると、なにかのきっかけで男とセックスしたり、特定の男が好きになることでゲイとしての自覚をもつようになったという人が多いように思うが、私の場合、まず幼稚園や小学校時代、ものごころがついたらすでにゲイだったという感じで、「ゲイに目覚めた」という記憶がないし、ゲイでなかった自分というのが考えられない。うっすらとした記憶のなかでは、幼稚園時代にすでに好きな男の子(同級生)がいたように思う。で、それがそのまま発展していればそれこそめでたしめでたしの神話的物語なのだが、これまたぼんやりとした記憶の中では、その子の親は転勤族で、小学校に入学するとき突然、その子は私の目の前からいなくなってしまった。それ以来、特定の人が好きになるということもなく、同性へのぼんやりとした憧れのなかで小中学生時代を過ごしてきたのが、高校時代のMくんから具体的になってきたという感じだ。
そのMくんとのことも、すでに書いたように、具体的にどうこうということは何もなかったのだが、自分は彼が好きなのだと言うことは紛れもなかった(彼に対してある距離以上近づかなかったのは、嫌われるのが恐いというより、自分は第三者からどのように思われてもかまわないが、彼をそうした「スキャンダル」のなかにまきこみたくないという気持ちからだったと思う)。
セックスという具体的な行動にうつる前に、同性に対して強烈な恋をし、同時にパゾリーニの思想的洗礼を受けて、ゲイとして自分を確立したというのは、かなり特殊な例かもしれないとは思うが、しかしゲイについて語ろうとするとき、私はそうした自分自身の体験から出発せざるをえない。
だから私にとってゲイであるということは、何よりもまず同性が好きになるということであって、その相手とセックスするかどうか、そのセックスが気持ちがいいかということではない(ちなみに正直にいっておくと、私は女性とセックスしたことも複数回ある。それは何がなんだかわからない、これまた薄ぼんやりとした不可思議なものとして私の記憶のなかにある)。また誤解されると困るのではっきりつけ加えておくが、私はセックスが嫌いでもなんでもなく、セックスは好きだし、その快楽を否定はしない。発展場に行ったことも売り専に行ったこともある。ただ同性愛というのは同性とセックスすることがすべてかといわれたら、それは違うだろうといいたいのだ。
そんな私が納得できない考え方の一つに、一見もっもらしい、「ゲイとは同性とセックスをすること(同性とのセックスを好むこと)。しかしセックスにはいろいろなパターンがあるのだから、それもさまざまなパターンの一つであり、同性愛は、単にそれが少数派であるに過ぎず、異常でもなんでもない」というものがある。なぜこうした考え方が納得できないかというと、こうした考え方はあまりにも単純に、同性愛的なものと同性とのセックスを同一視しているとしか思えないからだ。いやもしかすると、こうした考え方をする人は、同性愛を行動の一パターンに限定することでその「健全性」を強調し、自分を多数派に組み込んでもらうということが最終目標なのかもしれない。
私は、こうした考え方の底にある即物的で行動決定主義的な考え方が嫌いだが、同性愛の社会的認知の美名のもとに多数派との妥協を図るのも、つまるところはゲイの自己否定であり、ゲイにとっての屈辱でしかないのではないかと疑問に思う。
つまり私がいいたいのは、同性愛即性的快楽ではなく、同性愛とは同性が好きになること、それによって、自分が他人とは違う考え方をしている、違う欲望をもっていると明確に自覚することではないかということだ。私にとっては、その自覚の方が直接的な性的快楽よりも重要だ。その欲望を、無理に、これを抱くのは少数ではあるが異常ではないと説明して、自分を説得しようとしたり、同性愛の「正常さ」を社会に訴えていく必要などないのではないだろうか。
話が一気に「社会」までふくらんでしまったが、もし社会とゲイとのかかわりあいを問題にするのなら、ゲイにとっては、自己の「異常性」を否定し多数派に同化して生きていくことが重要なのではなく、自分たちがあくまでも少数派として社会のなかに存在していることを示していくこと、それによって、社会が実は不均質な要素(たとえばさまざまな欲望)から成り立っていることを明らかにしていくことが重要なのではないかと思う。多数派に同性愛を理解してもらう必要などないし、そもそもそんなことなど不可能だろう。彼らは、自分たちはスキャンダルとは無縁の存在だと信じ込んで、その安心感のなかでぬくぬくと生きているのだから。
そんな「草木のような無為」、私はごめん蒙りたい。
だからゲイは孤独を生きなくてはならない。いや、孤独を生きることを定められた存在がゲイなのかもしれない。

  Notre vie est un voyage, dans l'hivers et dans la nuit,
  Nous cherchons notre passage, dans le ciel ou rien ne luit.
   (Chanson des gardes suisses, du "Voyage au bout de la nuit" de Celine)

  俺たちの人生は旅、冬のさなか、夜のなかの、
  俺たちはみちを探してる、なにも光らない空のなかに。
   (スイス衛兵の歌~セリーヌ『夜の果ての旅』より)

そんな私が同性愛の標語として好むのは、「世界の関節がはずれてしまった」というシェークスピアの言葉だ。同性愛者は、同性とセックスをすることで同性愛者になるのではなく、世界の関節がはずれたことを自覚し、絶望的な孤独にたえながら、世界を多数派とは違う角度から見、世界に対して永遠に異議を唱えていくことを定められた存在者なのだと思う。

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2006-12-03 20:43:23
ぼくは10代の時、「幹は養殖のホモだ」とあるおじさんから言われたことがあります。ぼくの場合はぼんやりしてた状況の中でセックスを教えられた、という感覚だった。今となってはわからないですが。
返信する
『風と木の詩』風? (闇太郎)
2006-12-04 00:02:27
ん!? 養殖!?
幹くんがめざめたきっかけというのはちょっと想像したことがなかったけど、養殖というと、ちょっと古いけど竹宮恵子のコミック『風と木の詩』風かなあ…。たとえが特殊でゴメン。
返信する
Unknown ()
2006-12-04 03:06:24
風と木の詞っていうのが、どんなのかわからないんだけど(^-^;
その時、高1くらいでぼくともうひとりタメのT君という子がいたの。おじさんは、T君は「天然」でぼくは「養殖」って分類したの。T君はその頃にちょで自由に遊んでて有名で、ぼくは悩んでたからでしょうか(笑)でも、闇太郎さんと違って、少なくとも14歳まで、誰かを好きになったというのがないです。14歳が初えっちだったけど。
返信する
単なる「分類」 (闇太郎)
2006-12-04 14:55:57
え!14歳で初えっち!?
それきいたら、やっぱ「養殖」っていうより「天然」って気がしてきました。
でも、それって単なる「分類」かもね(笑)。
返信する

コメントを投稿