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GAYが観る『天地人』②ーー武士の髪型とイデオロギー

2009-01-27 12:45:50 | 愉しい知識
先日、大河ドラマ『天地人』(第3回)を見るとはなしに見ていたら、武士団の髪型のことでちょっと気がついたことがあったのでメモしておく。

上杉謙信の武士団にイデオロギー性が強いのではないかというような話しをタックスノットでしたことは少し前に書いた。
それとは別に、クロノス時代からの友人で歌舞伎好きのルイ君からもらった年賀状のなかに、「ブッキーはかわいいけれど、あの前髪はどうか?」という主旨のことが書いてあった。これを簡単に説明すると、江戸時代には男の髪型は身分や年齢を示す記号となっており、歌舞伎や時代劇をみればわかるように、成人した男は、基本的にすべて月代(さかやき)を剃っている。「前髪」とは成人するときに剃られる部分であり、それが転化して成人前の青少年を指す言葉として用いられることもある。
歌舞伎をよく見てそのことを知っているルイ君には、妻夫木聡演ずる直江兼続の月代をそらない髪型は、若衆の髪型に見えて、違和感があるというものだ。
ついでながら記しておくと、タックスノットで『天地人』の話しが出たときも男の髪型のことが少し話題になり、①相撲の力士の髪型(月代をそっていない)は、相撲力士が正式には元服していないことを象徴するものであり、元服すると相撲がとれない、②身分・年齢の記号としての男の髪型は江戸時代に定式化したもので、それ以前、月代をそるという習慣はなかったのではないかーーといった話しの流れとなった。
おもしろいのでこれを少しフォローしておく。
①相撲取りと元服・髪型のことでは、藤原頼通と相撲取りのエピソードが、同性愛もからめて鎌倉時代の説話集『古事談』に記されている。今手もとに『古事談』がないので、記憶によってそれを紹介すると、宇治の平等院を創建したことで有名な頼通はある相撲取りを稚児として寵愛しており、彼が元服すると相撲取りを引退し寵愛対象外となってしまうので、40歳ぐらいまで元服を許さず、したがってその相撲取りはいつまでも子供の髪型のままだったといった内容だ。この記事は、相撲がそもそも子供によって行われる神事であった(細かく調べるのが面倒なのでぼんやりした記憶でいうと、古代においては、これは七月七日に奉納されるものだったような気がする)ことを伺わせるもので、それはそれとしておもしろいのだが、要するに、どんなに強く体格がよくても、古代においては、子供でないと相撲を取ることが許されなかったということ、そのため、相撲取りの髪型には現代にいたるまでその約束事が残っているということだ。よく禿になると相撲を引退しなくてはならないと言われることがあるが、それは直接的には禿がダメということではなく、髪が薄くなると子供の象徴である大銀杏の髪型が結えなくなってしまうので相撲取りの資格を失ってしまうのだ。また力士が引退するときに行う断髪式は、単純な引退のセレモニーではなく、元服の儀式を現代化・象徴化したものととらえるべだろう。以前「武蔵丸」という横綱がいたが、こうした「○○丸」といった童子名がしこ名として通用するということにも、相撲力士の童子性は現れている。
②江戸時代にはいって男子の身分や年齢が前髪・月代で示されるようになったのは、それまでの時代は成年男子は烏帽子をかぶり、それによって年齢・身分を示していたのが、成人男子が烏帽子を被らなくなったことが、髪型の変化と関係しているのではないか。また頭に烏帽子などを被る場合、物理的に月代を剃っていない方が被りやすそうである。

とまあ、こんな雑駁なことを考えながら『天地人』を見だしたら、すぐにおもしろい事実に気が付いた。
というのは、信長・秀吉・柴田勝家ら、信長軍団の武士は老若を問わず月代を剃っているのに対し、上杉軍団の武士には兼続に限らず月代を剃っている者が一人もみあたらないということである。
私は、これが厳密な時代考証に基づくものかどうか知らないが、少なくとも『天地人』の風俗考証をした人間や鬘を準備した人間は、戦国時代末期の風俗として、信長軍団は月代を剃るのがふさわしく、上杉軍団の武士は剃らないのがふさわしいと判断したということだろう。私は、それはそれで、新しい風俗・習慣を積極的に取り入れようという信長のイデオロギーと、古い習俗を遵守しようという謙信のイデオロギーを示すものとして、とてもうまくいっているような気がした。

(江戸時代の髪型に関して言えば、信長~秀吉~家康という尾張・三河系の軍団が最終的に日本の覇者となったために、そこから全国に浸透していったととりあえずは考えておきたい。そういえば、人形浄瑠璃・歌舞伎『本朝廿四孝』の武田勝頼の髪型も前髪があるが、あの芝居では、それは武田軍団のイデオロギーを示すというより、勝頼の若さ(幼さ)を象徴するものとして扱われているような気がする。しかしそれは、江戸時代後半につくられた(1766年初演)この芝居では、髪型のもつイデオロギー性が希薄になり、年齢記号という要素が強まっているためかもしれない。)

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ちなみに直江兼続(1560年~1619年)と直前の記事で取り上げたアンリ3世(1551年~1589年)はほぼ同時代人。

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