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GAYが観る『天地人』④ーー謙信の遺言とエクスタシー

2009-02-23 01:10:37 | 愉しい知識
21日にNHK大河ドラマ『天地人』第七回「母の願い」、22日に第八回「謙信の遺言」を観たので、その極私的感想をまとめてアップしておく。

まず第八回の「謙信の遺言」、なかでもタイトルになっている謙信が兼続と二人差し向かいで会い、兼続こそ自分の志を継ぐものと謙信が内心を語り、酒をつぐシーンは非常に感動した。

この回は信長が登場し、例によって謙信の行動や考え方と対比されるので、わかりやすくおもしろいのだが(そして信長がなかば寝そべって葡萄酒を飲むシーンもある)、そこでまず、このあいだ少し考えた同性愛の二つのパターンについてあらためて考えさせられた。
その第一は、信長における同性愛を快楽追求を主目的とするものとすると、謙信的同性愛には(身体的)快楽はともなわないのかということ。これはもちろん、謙信に同性愛行為があったかどうかが確認できないないので、あくまでも仮定的な設問ではあるのだが、仮に私が謙信型と考える人間関係構築を重んじる同性愛といえども、その入り口やきっかけとしては、なんらかの身体的快楽をともなったのではないかというのが、私の下世話な考え。ただ仮に入り口は快楽追求だったとしても、それを快楽追求だけにとどめないというのが、謙信型(献身型?)同性愛の特徴といえるのではないだろうか。少なくとも私はそう考える。
それと、これも前の記事に少し書いたが、信長のような前近代の権力者の場合、同性愛者(もしくは両性愛者)だったから同性の愛人を求めたというより、彼ら権力者にとっては、性的快楽の対象として異性も同性もほとんど区別がなく、自分の好みにあえば誰にでも手をつけたのではないかという気がする。というか、日本の権力者の場合、信長、頼通にとどまらずその同性愛的事実が知られている人物が非常に多く、これは遺伝や個人の性向だけでとらえることのできない権力者全般の傾向と考えた方がいいのではないだろうか。したがって、現代のような市民社会における同性愛と、こうした前近代の同性愛、特に権力者の同性愛は区別して考えた方がいいのではないかと私はおもう(前の記事で秀吉はこの点で例外的と書いたが、家康は水野忠元と井伊直政を寵愛したことが知られている。また秀吉の家系では、甥の秀次に不破万作という寵童がおり、秀次が高野山で自刃する折に一緒に死んでいる)。

次に人間関係全般についてだが、仮に謙信軍団が義、信長軍団が利で結束していたことを認め、また義をかざす謙信に天下統一の機会と意志がなかったことを認めた場合、では信長には果たして天下統一できたのか、またその統一した天下を保つことができたかというこれまた仮定の上での疑問が生じてくる。つまり謙信よりも明らかに天下統一に近い位置にいた信長は、明智光秀の謀叛にあってその野心を完遂させる前に倒れてしまうわけだが、信長の場合、この光秀の謀叛は偶然だったのか必然だったのか、もし仮に光秀が謀叛を興さなかったとしても、別の人間が謀叛を興す可能性があったのではないかということだ。すると天下統一に必要なのは義か利かという問題は、現実から回答を引き出すことはできず、結局振り出しに戻ってしまう(結果的には、天下人になったのは義と利をバランス良く兼ね備えた秀吉や家康だったわけだが)。したがってこの問題に関しては、現実に謙信が北陸の勇将の域をでなかったからといって、謙信的な考え方を一概に無力・無効として否定できないようにおもう。今回の大河ドラマの狙いも、もしかするとその辺の疑問を提起することにあるのかもしれない。

さてこうしたさまざまなことを考えている最中に、謙信と兼続の対面のシーンが映し出されたわけだが、するとこれは、政治や軍略を別にして、自分の理想を次の世代にどのように引き継いでいくかという、より普遍的な問題と深くかかわっているシーンのように私にはおもわれた。つまり、同性愛者であるにせよないにせよ、現実に謙信には実子がないので、自分のおもいや権力を子供に譲るという安易な解決はできない。すると結局、相手の器量を見定めたうえでその相手に自分のおもいを託すしかない。だから、これは謙信が普通に結婚し子供をもうけていたらありえないシーンというしかない。そしてこの特殊な男同士の対面のシーンは、別に身体的接触をともなうわけではないのだが、私には非常に同性愛的に見えてしまう。異性愛社会のなかでは例外的なものに過ぎないこうした場面も、同性愛という世界のなかでは非常に現実的な場面なのである。少なくとも、この「伝授」には、単なる言葉のやり取りや理解、主従の盟約確認等の日常的感情を超えたエクスタシーのようなものがともなったのではないかという気がしながら、私はこのシーンを観た。だからそこで酒を酌み交わす(一緒に酔う)というのは、非常に重要な意味をもつのだとおもう。

なお、兼続の母の死を描いた第七回「母の願い」は、これに比べると内容的にもドラマの構成的にもあまりにも平板で、私は楽しめなかった。

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