闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

青山吉良さん演出・主演の『カルテット』を観る。

2007-01-15 01:34:20 | 観劇記
今日(14日)は、青山吉良さん演出・主演の芝居『カルテット』を鑑賞した(於:麻布die pratze)。この作品は、ラクロが18世紀に書いた書簡体小説『危険な関係』を翻案した旧東ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーの作品で、憎みながらも愛し合うメルトゥイユ侯爵夫人とプレイボーイのヴァルモン子爵、貞潔なトゥルヴェル夫人、メルトゥイユ侯爵夫人の姪で清純なヴォランジュの四人の人物を、役を入れ替わりながら二人の役者が演じるという複雑な構成のもの。
『危険な関係』という小説はなんども映画化されており、最近では東海テレビがおとしし、設定を現代の日本に変更し、昼ドラとして放送している。私はこの昼ドラで木崎律(ヴァルモン)を演じたRIKIYAの男くさい美貌にぞっこんで、当時、この番組を毎日観ていたので(^^;)、人物関係は苦もなく理解できたが、はじめて観る人には、この単純化されているが複雑な人物関係と変幻自在な役の変更についていくだけでも大変だったかもしれない。
またこの芝居は、一つ一つのセリフが非常に長く、しかもその間、動きらしい動きがほとんどない。ミュラーは、原作小説のもつある種の不自由さを積極的なものとして、芝居の構造のなかで再現しようとしたのかもしれないが、それにしても、というセリフの長さである(原作はすべて手紙のやりとりなので、基本的には、登場人物同士の会話は存在しない<会話は手紙のなかで間接的に紹介される>)。
芝居を観だしてすぐに気になったのは、この芝居では、どのような動きをすれば「リアル」な動きということになるのかということ。つまり、まるで「リアル」ということを拒否するかのように芝居は書かれている。したがって、男性である青山さんが、ほとんど地のままでメルトゥイユ侯爵夫人を「演じる」という非リアル性の問題は、作品の構造の前にいとも簡単に飛んでいってしまうのだが、だからといって演じる側は、完全に非リアルなものとして演じることも許されない。
そんなことを考えながら第一景を観ていたら、第二景では、今までヴァルモンを演じていた菅原顕一さんがうってかわってトゥルヴェル夫人役になり、青山さんは、そのトゥルヴェル夫人を誘惑するヴァルモン役に替わる(その変換は、例えば青山さんが赤いドレスの上に黒いマントをはおるだけで示される)。以下、芝居の進行に従って二人はどんどん役を入れ替えていき、観客は役者にも登場人物にも同化することができない。
だから結局、その「同化拒否」が『カルテット』という芝居全体の眼目ではないかとも思ったが、惜しむらくは、今回の舞台は、そうした芝居の構造にやや振り回された感じで、その構造をショッキングなものとして観客につきつけるまでは至らなかったように思う。
私見では、思い切って(演出上の)ドラマ性をさらに排除し、素浄瑠璃のようなかたちに徹底してしまったらいいのではないかとも思ったが、個々のセリフは生々しいエロティシズムを目ざしているようなところもあり、この芝居はその辺の匙加減がとても難しそうだ。

芝居がはねてから青山さんと少しお話ししたが、彼は、「とてもおもしろい作品なのでなんとか再演したい」と語っていたので、再演に期待しよう。
ちなみに、今回の舞台では、トゥルヴェル夫人が裸体をさらすシーンが、イマージュとしてとても美しく感動的だった。青山節が絶好調(とりわけメルトゥイユ夫人)だったのはいうまでもない。