喜びの種☆

yoshicoの徒然日月
ひとふたみよ
いつむゆななやここのたり、、ももちよろず
天の数歌

アオヒマツリ(ウツキ末・西暦2017.5.25)

2017-05-09 19:48:07 | こよみ

京都の葵祭りは、西暦五月十五日ですが、その元おりがヲシテ文献に記されています。
夏の三分の一が終わり、盛夏に入る準備の「メヲのお祭り」行事です。

ツキスエは アオヒカツラの   
メヲまつり
  (トシウチニナスコトのアヤ)


ウヲ(最強の温)のウツキ末(西暦六月初め頃)、夏至る盛夏はすぐそこです。
もうすぐ降り出すサツユのサミダレ(梅雨)の恵みを実感する「メヲのお祭り」です。
メ・ヲ、どちらの働きもなくてはならない大切ないのちの源。

ヲの象徴として「アオヒ・葵」を飾ります。
アオヒの葉は、滴ってくる雨に活き活きしてきます。
『ア・天空に オ・固まる働きが ヒ・開き来る』

ヲ(温)が地上いっぱいになり、
秋に実ってゆく力を貯め込んでおこうとする配慮から、
カツラ(ヒカゲカツラ)をメの象徴として祭ります。
 『カ・赤くなる秋の要素 ツ・集まって ラ・下の方に広がっている』




ホツマツタヱには、「アオヒマツリ」の逸話もあります。
十代アマカミ・ニニキネ(瓊瓊杵尊)さまは、灌漑用水による京都の新田開拓の際、
災害をもたらす雷雨を火と水に分け、人の役に立つようにコントロールできるようにと、
雷の害を防ぐため、火のカミは「愛宕神社」に、水害を防ぎ利水をはかるため、水のカミは「貴船神社」に祀りました。
アマテルカミはたいそうよろこばれ、『ワケイカツチ』の讃え名を賜りました。
京都上加茂神社のご祭神です。

十一代アマカミ・ホオデミと御后トヨタマヒメ
トヨタマヒメさまが産屋の屋根の吹き合わせず状態でお生まれになったのが、
ウガヤフキアワセズ、十二代アマカミ・カモヒトさんです。
ホオデミさまが皇位を継がれたのちも、ミヤコに上がろうとしないトヨタマヒメ、、
トヨタマヒメは、身重の身体で難破した船から岸まで自力で泳ぎ着いたことを恥じ、
また、産後の養生で寝転んでくつろいでいる姿を夫に見られてしまったことを恥じて、
ツクシの郷へ帰ろうと、貴船神社に居られました。
皇位を譲られたニニキネさまはオオエキミとなられ、
貴船神社のトヨタマヒメのもとへ訪れ、

アオイの葉を男性に例え、カツラの葉を女性に例え、
どちらかがかけているのではありませんか?とお尋ねになりました、、。

のぞいたのはホオデミの恥じで、あなたの恥ではありません。
海に落ちて、岸まで泳ぎ着いたことは立派な事で恥ではありません。
初代クニトコタチさまからの連綿と続くアマカミの御子を守らんとした、
健き(たけき)心をお褒めになり、
大切なことには執着し、つまらぬことから離れる、、
ツク・ハナルの教えに、トヨタマヒメをおさとしになられました。

後に、ニニキネさまはツクシ高千穂に向かわれ、
高千穂峰でカミアガリなさいました。
中腹の霧島神宮でお祭りし、
トヨタマヒメがワケイカツチの宮(上賀茂神社)でお祭りし、
ホオデミさまが都のミヅホの宮(琵琶湖東南岸)でお祭りしました。

喪があけて、ホオデミさまはトヨタマヒメに和歌を届けました。
トヨタマヒメはアオヒとカツラの葉を添えて返し歌を詠みました。
迎えの輿にのり、トヨタマヒメはミヅホの宮にお輿入れです。
京都上賀茂神社の葵祭りは、ニニキネさまの教えの様子を現在に伝えるお祭りです。







縄文カレンダー
一冊1,000円でお分けしています。
ご希望の方は、、
●お名前●ご住所●冊数を下記宛、メールにてお知らせください。
頒価と郵送料の振り込みをお願いします。
郵送料は冊数により異なりますので、折り返しこちらこら
振込先等、ご連絡申し上げます。
【Mail】yoshico1018@yahoo.co.jp
日々の暮らしの中、縄文の息吹を感じていただけたらと思います。
ありがとうございます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イセノミヤ(伊勢神宮)

2017-05-09 17:25:21 | いせしまホツマ

伊勢神宮、、二十年毎に行われる式年遷宮
第一回は持統天皇四年(西暦690年)から、西暦2013年に六十二回目が行われました。
垂仁天皇二十五年(紀元前5年)ヤマトヒメさまにより伊勢の地に祭られたイセノミヤ。
ホツマツタヱ三十六アヤ『ヤマトヒメ カミシツム アヤ』よりイセノミヤをご紹介します。
※ヤマトヒメはこちらです。







◎イセノミヤ
ミツカキ(祟神天皇・瑞垣の宮)三十九年(BC59年)三月三日、
ミマキのキミ(祟神)より「トヨケカミとアマテルカミをお祭りする」とのミコトノリです。
初代ミツエシロのトヨスキヒメは、ミマキのキミ(祟神天皇)のミコ(皇女)。
アマテルカミのお告げにより、ミタマケ(アマテルカミの心の乗り代)をお担ぎになり、
ヨサ(京都府与謝郡、天橋立の宮津市付近)からアフミ(近江)よりミノ(美濃)を巡り、
イセ(伊勢)のタカミヤ(三重県松阪市山添町、神山神社)をお造りになり、
アマテルカミのお心をお鎮めになって居られました。
※この間の諸国巡行は『倭姫命世記』に詳しいが、トヨスキヒメとヤマトヒメのご交代時期の錯誤も混入。

イクメ(垂仁)二十二年(BC8年)十二月二十八日、
ヤマトヒメ・ヨシコが十歳でミツエシロに定まり、トヨスキヒメの許で三年の見習いの後、
イクメ(垂仁)二十五年(BC5年)三月八日、二代ミツエシロ二にヤマトヒメが任ぜられます。

サルタヒコの告げにより、ヤマトヒメはウヂ(内宮の場所)に至り、見て仰います。
「これは、カンカセのイセノミヤです。
 イヤマヒ(尊敬)をかえすアマテルカミご存命時代のアクライシもあります。」
ヤマトヒメは、ウチのミヤ(内宮)の場所をここに定められました。
オオハタヌシや随身のヤソ(八十)人たちに、ヰソススハラのクサ(草)を刈らせ、
オチコチ(近遠)ヤマの木を伐らせます。
モト(元)、スエ(末)、モトシ(逆にして)、マナカをもちて、オオミヤハシラを敷き立てます。
チギ(千木)は、たか(タカ・春と秋・日の出と日の入)シ(為し)りて、ミヤが成り、
ミカド(皇居)のイクメのキミに報告します。

イクメのキミ(垂仁天皇)のミコトノリです。
「ミカサのヲトト(ミカサ・カシマ)をイワイヌシとします。
ワタラヒトミはカンヌシ、アヘ・タケヌガをミカワリ(私の代理)に、
ワニ・クニフクをウチカワリ(皇后の代理)に任じます。
モノヘ・トチネをミウエカラ(皇太后代理)、
タケヒ・アサトをミコカワリ(皇太子代理)に任じます。各々、詣でてください。」

イクメ二十六年(BC4年)九月十六日(西暦10月神嘗祭?)、
ヲヲンカミ(アマテルカミ)のお遷しが執り行われます。
ヰソススカワのサコクシロのウチのミヤ(伊勢神宮・内宮)にわたましが行われ、
十七日の夜にミタケハシラ(真の御柱・スヘラギ(天皇)のタケ(身長))を納め祭りました。
ミヤコ(皇居)にて、ソロ(田畑の作物)の順調なる成長を祈り、
雨、風、ノフシ(台風)の程が良くて豊かになれと臥して澄みイヤマヒ(敬い)て
ノト(祝詞、祈りの言葉)を申す、御恵みに通じるのです。

アマテルカミも、お喜びにて告げて仰います。
「昔わが住むサコクシロのシキナミよするイセのミヤ、
 長くしつまり守るべし。トヨケノカミともろ共ぞ。」
イクメのキミは喜ばれて、早速トヨケカミの鎮まりますアメノマナヰ(京都府京丹後市、
此沼真名井神社)にニキテを持ちて、サオシカ(勅使)を派遣なさいます。
トヨケのカミを伊勢にお遷し申し上げるためのサオシカにはミワのミケモチを、
イワヒト(祝い人)はタニハ・ミチウシが任ぜられました。

○ウチミヤ
アマテルカミは、世継ぎ子を得ることを願われて、イセノミチをお説きになりました。
※イセ(イモヲセ):メヲト(夫婦)のこと、イモは妻、ヲセは夫を意味する。
 稲作の普及とともに結婚の制度が誕生(四代アマカミ)し、八代アマカミ・アマテルの御代に
 イモヲセノミチ(結婚の制度・心得)が説かれた。ホツマツタヱ十三アヤに詳しい。
 イセノミヤは、イモヲセノミチを制定したことを尊称しての呼び名。
 八代アマカミを引退してのちのアマテルカミの晩年にイサワノミヤから
 現神宮内宮のウヂにお遷りになっている。
 地名となったイセクニ及びイセミヤを指す。イセノクニは伊勢・志摩を含んでいる。
ヤモヒトクサ(全国民)を活かして恵むものですから、カツヲキはヤキ(八本)です。
チギのウチ(内)をそぐのはウチミヤ(内宮)です。
ウチ(内)を軽くして、タミを豊かにとの願いの故です。
ウチミヤ(内宮)は、母親が子供を恵み愛しむような、
キミ(天皇陛下)が国民を愛しみ恵むノリ(定め・役割・精神)なのです。

○トミヤ
トヨケカミは、サカホコのノリを強調なさいました。
アメのホシのコクラ(九星、中心とトホカミヱヒタメ)を表すカツヲキはコギ(九本)です。
チギはト(外)をそぐので、トミヤ(外宮)です。
ウチを篤くいつ(イツ・心をしっかりさせる)のタミのチチ(国民全体の父親)の役割です。
畏れ、ミチを学び得るようにしなさい。



神嘗祭は明治六年の太陽暦改暦以前は旧暦九月十七日でした。
改暦後、西暦の九月十七日に実施となりましたが、稲穂の生育が不十分な時期であるため、
明治十二年以降は月遅れとして十月十七日に実施されています。
神嘗祭は神宮の正月ともいわれ、式年遷宮後最初の神嘗祭を「大神嘗祭」と呼び、伊勢の民衆は奉祝の行事を行います。
旧暦九月十六日、イセノミヤにアマテルカミのお遷しが執り行われたとあります。
神嘗祭はアマテルカミのイセミヤお遷しの奉祝行事がその源にあったのではないかと考えられます。


参考文献・資料:
・ヲシテ文献の世界へようこそ-日本ヲシテ研究所
「ヲシテ文献・大意」http://www.zb.ztv.ne.jp/woshite/index.html
・『ホツマ辞典』池田満著・展望社
・「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」「神嘗祭」ウィキペディア






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サビラキ(ウツキモチ・西暦2017.5.11満月)

2017-05-09 14:12:15 | こよみ

ウツキモチ!
夏の最初の満月○、サビラキです。





つきなかは サビラキまつる   
ヰナルカミ
      (ミカサフミナメコトのアヤ)


ウツキ(旧暦四月)ナカ(中)には、田植えです。
サ・ヒラキ(早苗開き・サ(南)開き)のお祭りをします。
田植えに必要な雨がこの時期に十分にもたらされる、
サミタレ(五月雨・梅雨)の恵みへの感謝の行事です。

三重県の郷土料理の蕗俵(ふきだわら)は、豆ご飯を蕗の葉で包みます。
田植えの時期に行う農耕神事では、田の一角に蕗俵を御供えし、豊作を祈願するそうです。
フキの良い香りが、夏至の到来を思い起こし、身体の調子も整えてくれます。


◎縄文カレンダーワークショップも各地で開催しています。
5月の予定はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/ten380445/e/08739380bc561c3085d5dcaf263fe169


◎縄文カレンダー
一冊1,000円でお分けしています。
ご希望の方は、、
●お名前●ご住所●冊数を下記宛、メールにてお知らせください。
頒価と郵送料の振り込みをお願いします。
郵送料は冊数により異なりますので、折り返しこちらこら
振込先等、ご連絡申し上げます。
【Mail】yoshico1018@yahoo.co.jp

日々の暮らしの中、縄文の息吹を感じていただけたらと思います。
ありがとうございます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤマトヒメ

2017-05-09 00:31:24 | いせしまホツマ

伊勢神宮(三重県伊勢市)
伊勢志摩サミットでも各国首脳が訪れて世界的な話題となり、
また、平成二十五年の第六十二回式年遷宮はまだ記憶に新しいかと思います。

神宮式年遷宮の第一回は持統天皇四年(西暦690年)からですが、
垂仁天皇二十五年(紀元前5年)ヤマトヒメさまにより、伊勢の地に祭られたイセノミヤ。
ホツマツタヱ三十六アヤ『ヤマトヒメ カミシツム アヤ』の記述より、
ヤマトヒメさまとイセノミヤをご紹介します。





◎ヤマトヒメ

時はスヘラギ・イクメイリヒコ(十一代垂仁天皇)の世。(在位BC29~AD70年)
タマキミヤ(奈良県桜井市巻向)に政庁が開かれて九年目の九月十六日のこと。
正后(二代)カハイ・ツキヒメが、ヤマトオオクニカミ(二代目オオモノヌシ・クシヒコ)より
シテ(幣)を賜る夢を見て、身籠りましたが臨月を過ぎても産まれずに、病になりました。

イクメ(垂仁)十二年(BC18年)九月十六日、お生れになられましたのはヒメ皇子、
ヤマトヒメ・ヨシコ(イミナ・実名)と名付けられました。
産後、ツキヒメは病の床に就いたまま、十月二日にお亡くなりになられてしまいました。
※カハイ・ツキヒメ:樺井月神社:京都府城陽市水主宮馬場・延喜式名神大
イクメ(垂仁)二十五年(BC5年)三月八日、ヤマトヒメは二代目ミツエシロに任ぜられます。

初代ミツエシロのトヨスキヒメは、ミマキのキミ(十代祟神天皇)のミコ(皇女)。
ミツカキ(十代祟神天皇・瑞垣の宮)三十九年(BC59年)三月三日、
ミマキのキミ(祟神)より「トヨケカミとアマテルカミをお祭りする」とのミコトノリです。

トヨスキヒメはアマテルカミのお告げにより、ミタマケ(アマテルカミの心の乗り代)を
お担ぎになり、ヨサ(京都府与謝郡、天橋立の宮津市付近)に向われます。
ササハタミヤ(篠畑神社、奈良県宇陀市榛原区山辺)に戻りますと、
またカミ(アマテルカミ)のお告げがあり、再びヲヲカミのミタマケを奉賛し、
アフミ(近江)よりミノ(美濃)を巡り、イセ(伊勢)のイヰノ(飯野)のタカヒオガワにススを留められ、
タカミヤ(三重県松阪市山添町、神山神社)をお造りになり、アマテルカミのお心をお鎮めになって居られました。
※この間の諸国巡行は『倭姫命世記』に詳しいが、トヨスキヒメとヤマトヒメのご交代時期の錯誤も混入。

イクメ(垂仁)二十二年(BC8年)十二月二十八日、
ヤマトヒメがミツエシロに定まり、オバ(伯母)のトヨスキヒメに見習いして、
アマテルカミのお心にお仕えします。
ワカコ親子がお伴をしての道中、ウスメ(若い女性)がクシ(櫛)をあげようとして、
川に落としてしまいましたので、そこでとどまり年を越します。※松阪市櫛田町、櫛田神社、櫛田川
新年のハツヒの出で立つとともに、アケノハラ(明野)のイセタカミヤにお入りになりました。
※三重県多気郡明和町斎宮、竹神社:http://www.genbu.net/data/ise/take_title.htm

三年の見習いの後、イクメ二十五年、トヨスキヒメ(百三歳)よりヤマトヒメに
ウチ(アマテルカミのウチミヤ)のヲミコ(ミツエシロ)を任せることになりました。
ヤマトヒメはミタマゲを担いで、イヰノ(飯野、タカミヤ、神山神社)から
イソヘ(イソミヤ、磯神社?伊勢市磯町。伊蘇上神社?三重県多気郡多気町大字相可)に
お遷しして鎮め祭ります。

「良きミヤトコロ、サ(南)にあり。」
と伝わりきましたので、ワカコを遣わしたところ、ヰススカワ(五十鈴川)に至りますと、
フモヤヨロホ(二百八万歳)のサルタヒコがあらわれワカコに告げます。

「われ昔、カミ(アマテルカミ)からの賜り物を
サコクシロのウチミヤ(アマテルカミの晩年のご座所、伊勢・内宮)に入れ、
アラミタマ、ヤヨロホ(八万年)待ちました。
『カカン・ノン・テン時待ちて、ミチ表せ』、アマテルカミよりの申し渡しです。
コニモヱズ(亡くなることを得ず)して、お渡しするべきヌシを待っておりました。」
※アマテルカミのご遺詔はホツマツタヱ二十八アヤ。
とサルタヒコはワカコにミクサのカンタカラを渡します。

報告を聞いたヤマトヒメは、早速にウヂ(内宮の場所)に至りて見て仰います。
「これは、カンカセのイセノミヤ、ミクサは祭るミナモト、
イヤマヒ(尊敬)をかえすアマテルカミご存命時代のアクライシもあります。」
ヤマトヒメは、ウチのミヤ(内宮)の場所をここに定められました。
※三重県伊勢市、伊勢神宮・内宮



イセノミヤにつづく。

参考文献・資料:
・ヲシテ文献の世界へようこそ-日本ヲシテ研究所
「ヲシテ文献・大意」http://www.zb.ztv.ne.jp/woshite/index.html
・『ホツマ辞典』池田満著・展望社
・ホツマツタヱ勉強会(イセの会)池田満先生講義資料
・上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧ウィキペディア

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする