人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

who doesn't understand

2007年05月21日 | ただの雑談



「わかんね」

若者がよく使う言葉だと思う。人様のブログ日記にもよくこういう悩みの吐露を見かけたりするし、ぼくの弟なんかもよく言っている。
わかんねとだけ言われても何が分からないのか意味が通じない。だけどこの言葉が狙っている「分からなさ」は、「相手に意味が通じない」という部分も含んで、言葉の響き全体から想起せらるる総合的なニュアンスではないだろうか。つまりそれくらい自分でもワケが分からないということを言わんとするのが、この表現なのだと思う。それ以上でも以下でもない。わかんね・ザッツ・オール。

ということで、ぼくもわかんね。

それだけではあまりに無責任なので、もう少し咀嚼して説明してみるとこういうわけだ。
このところ、アルコールから解放されたわが頭脳(マイ・マインド)は無駄に回転ばかり続けていて、仕事を終えて家に戻ってからボーとすると色々な思いが頭をよぎる。「わかんねーわかんねー」と古いCPUみたいに発熱しうなりを上げるのはこの時である。
簡単に言い切ってしまうと「ぼくは何のために生きているのだろうか」という、極めて高尚で哲学的でブルジョア的でしかもありきたりな思考の無限ループに陥っているのだろう。もはや幼稚でさえある。
それ以上、ちょっとでも頭をひねると、果たして何が分からないのかさえよく分からなくなる。従って今はあまり深追いはしないし、ここで議論もしない。

客観的な事実として言えるのは、ぼくは「分からなくなる」前までは、かなり確固とした信念・人生観を持って生きてきたということだ。自分が用いる言動にはしっかりとした裏付けや意味があって、概ね矛盾は無かった。つまり自分の行動と選択にいつも自信があったのだ。これはぼくがぼくとして生きていくことに明確な動機付けを与え、人間として充実した生活を推し進める効果があったことであろう。世の中に対してはともかくだが、クローズド・マイ・マインドにとってはプラスに作用していたことは間違いない。
ところが先日もお話したと思うが、今のぼくはかつてのような考えを改めなくてはいけないと自覚している。さすがに「ま自分さえ良ければ良っか♪」では今やどうにもならない。妻子及び住宅ローンを抱えご近所さんでは●●くんのパパで通している30代リーマンという環境が、それを赦さない。気持ちの準備が整う前にこの環境に飛び込んでしまった。だけど後戻りも出来ないし、するつもりもない。とにかくぼくに求められているのは社会的「恐怖の頭脳改革」である。

初めてこの意識を持ったのが2004年であったろう。3年前のことだ。上述のような環境の変化が起きた年である。奇しくもアルコール依存症としての自覚を持ち始めた時期とも奇妙な一致をみる。アル中になった原因には、禁煙のこと、仕事のことが関係していそうだと先日も書いた通りなのだが、この「信念」も無関係ではなさそうである。ぼくが人生初のブラックアウトを起こし、代々木の雑居ビルの1階通路で身包み剥がされ横たわっていたことに気付いたのが、2004年5月1日未明のことであったと記憶している。妻からの要求を容れてマイホーム探しに明け暮れていた時期でもある。

今までぼくを支えてきた主義思想や信念は、それから3年も経った現在となっては、既にリセットが施されてしまっている。生きるための指針を欠いたままの状態で、ぼくはアルコールで意識を塗してホンノリした味わいの中を3年間たゆとうてきた。酒を断ってみて、久しぶりにそのことが明るみになった。コンニチワ。

わからない。