人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

タンクバッグ限定

2008年03月30日 | バイク雑談
何気なくウェブログの編集画面を開くと、こんな画面が。



この3番にご注目ください。
オートバイ関係の記事がここに出ていることもすごいですが(私のウェブログにオートバイの記事が多いことと、このトレンドランキング画面とはいっさい関係ありません)、しかもタンクバッグの総合ナビサイトだなんて、マニアックすぎませんか?

紫色になっている通り、すでに実際見に行ってきましたが、中々面白いです。

「人気のタンクバッグはもちろん、本、DVD、音楽、ファッション、デジタル機器などなど、タンクバッグのことならおまかせください!」

だそうです。
流行のウェブAPIというサービスを使ったわけですが、それにしても何故タンクバッグなんでしょうか。
それより、3位に入っている理由は何故なんでしょうか。何か理由があると思うのですが、あいにく私はあまりITに詳しくないので分かりません。誰か教えてください。

しかしあいにくタンクバッグはまだ買い替え需要がありません。
今年で8年目になる、今は亡きJTC製バッグが相変わらずいい仕事をしてくれております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チューブラー・ベルズ」(最近聴いた音楽)

2008年03月22日 | 70年代ロック雑談


1973年発売、マイク・オールドフィールドの1stアルバム。プログレ好きの私は巷の評判を耳につけ黙って買って聞いてみた。
このアルバムに関わるウンチクとしては、あのヴァージンレコードの第1作になったとか、冒頭のテーマが映画「エクソシスト」に使われたとか、英No1のほか世界で何百万枚も売れる大ヒットになったとか…。
これだけ聞けば、ふだん洋楽なんて聞かない人でも「へぇー結構よさげじゃん!」と思い興味を持つかもしれない。
しかしこのアルバムが発売されたのは1973年である。ピンクフロイドの「狂気」が大ヒットするような時代である。必ずしもポップでキャッチーな要素があるとは限らない。
私は、極力事前に知りえた情報を排除し、インサイダーにならないように純粋に聞いてみることにした。

「空に浮かぶ曲った金属棒」という意味不明なジャケットの封を切る。
スリーブを開くとさっそく出ました、収録曲はわずか2曲!
A面「パート1」B面「パート2」たったそれだけで50分弱のフルアルバムだ。
そして歌詞がない。つまり全編インスト。
この時点で「歌謡曲は好きだが、ロックは知らないなあ」というような方には全くお勧めできない内容であろうことが想像できた。
たとえどれだけ著名で売れた作品であっても、洋楽そのものが比較的マニアックなジャンルと見なされていることは、そこらのカラオケの収録曲を見ればよく分かる。そんな中でもプログレと呼ばれるジャンルは、普通の趣味の人から見ればとりわけマニアックなのだろう。私はロックは教養だと思っているので、特に意に介さず「未聴の名盤」とあれば、とりあえずは聞くことにしている。

ということで、ここから先は洋楽ファンの特権だと思ってこのアルバムと戯れることにしよう。
ライナーには、「Mike Oldfield plays」と書かれた後に、20種類を超える楽器が書かれている。プリンスみたいなマルチプレイヤーぶりを想像させる。なんか自慢気でちょっと鼻につくが、まずはプログレらしさへの期待感が高まる。
実際ドラム等を除くほとんどの楽器を自分でプレイしている様子だが、ここで「○○と××以外の楽器演奏=わたし」みたいな書き方をせず、敢えて各楽器の名称を書き連ねているところに本作品のひとつのヒントを感じたのだが、それは後述したい。

ではいよいよプレーヤーにかけてみよう。
全体的な曲調は…。
フォークとは言えないが、こうトラディショナルな、バグパイプとかで演奏されてそうな民族的な旋律が多く、ところどころエンヤみたいな印象を受ける。あまりロック然とはしていない。前述の通り様々な楽器が多重録音されており、シンセサイザーの出番は無い(たぶん)にも関わらず非常に色彩豊か。ギターはエレキギターが多いが、マッタリしたフレーズが多い。またドラムスがほとんど使われておらず、基本的に「静か」だ。後味は、どこか地味で、陰気で、不気味で、重々しい。(そういうのは、決して悪いことではない)
曲はパート1パート2と分類されているものの、実際には小曲を順々に繋いだ構成である。各曲の間に旋律的な関連性は皆無で、そういう意味でシンフォニックでもない。目まぐるしく曲が変わるのかというとそうでもなく、延々と同じテーマを繰り返し、次のテーマへ移るとそれもまた延々と繰り返し、それがまた続く…という「まったりメドレー」。平坦過ぎないよう、味付け程度に変化するアレンジが施されている。
唯一、パート1のクライマックスでは、繰り返しながらどんどん楽器が増えていき、ラヴェルの「ボレロ」の手法そのまんまで大いに盛り上がる。
パート2も同じようにフレーズを交互に提示していく展開ながら、ドラムの登場する場面もあって多少騒々しい。エンディングにフィナーレらしきものが用意されているわけでもなく、マンドリンだかバンジョーだかによる陽気なテーマを最後にして何のまとまりもなく唐突に終わる。

感想は。
初見では「?」だったが、数回聞いているうちに、間違いなく良い作品だと思えるようになった。
これを何と表現したら良いのだろうか。

少し話は逸れるが、プログレというカテゴリーの定義についてはそもそも議論があるところだと思う。何しろいわゆるプログレ全盛期にはプログレという言葉が無かったそうで、後からそういうジャンルに大別されたそうだ。当時はパープルとELPが同じステージに出たくらいだから、リスナーも好みの違いこそあれ「ロック」という大枠の中にあってはそれほど違いを意識しなかったのかも分からない。
ということで、自分はプログレファンを自称しつつ、世間で「プログレ」と言われるものの中でも、特に「近現代クラッシックっぽいアプローチを試みたもの」をとりわけ好み、それこそが「真のプログレ」であると勝手に線引きしている。言い換えれば「インテリ系」ロックである。テクニックだけではなく、そこそこの音楽理論をわきまえていて、かつそれをひけらかすミュージシャンが、私の大まかな好みだ。何だか同党内の派閥のようでもあるが。。この理屈から私はポール・マッカートニーのソロやクイーンのアルバムにも大いなるプログレスを感じる。

そう考えると、マイク・オールドフィールドの音楽は、上でボレロの例こそ挙げてはみたけれども、自分にとっては「プログレ」の範囲外となる。和声もシンプルだし、大した転調もなく、リズムもいたって平坦。旋律やコードはほとんど一発で耳コピ出来るレベルである。器用に様々な楽器を演奏しているが、得意のギター含めテクニック的に特筆すべきものはなく「鳴らしている」の域を出ない感がある。
また、本作は当時19歳のマイク青年によるほとんど単独の多重録音で、2000回におよぶオーバーダビングを繰り返して完成したとか。多分に暗くて神経質そうなオタク青年のイメージがしないだろうか?

それではこの作品の魅力は何なんだろうか。
まずはそのハーモニーである。タイトルのチューブラーベルというのは、楽器の名前である。パート1のボレロ様の盛り上がりの最後を飾る楽器が、このチューブラーベルなのである。チューブラーベルというのは「キンコンカンコン」と鳴る筒状の鐘であり、ジャケットの写真はまさにこれのことだろう。またそのボレロパートには何故かナレーションが入り、オーバーダブされる楽器が加わるたびに、その名称をいちいち紹介している。初めは「おいら、これだけ色々弾けるんだぜ!」とでも言いたいんだろうかと考えたが、時代的に技巧派のミュージシャンがワンサと居たことを踏まえれば、プレイヤーとしてのマイク・オールドフィールドのテクニックはひけらかすレベルのものではない。その裏付けに、「次、なんたらギター!」とナレーションが入った直後に、お茶目にもそのギターをトチッたりしている。
要するにここで彼が狙っているのは、あくまで音色なのだ。シンセを用いず、彼が操り得る限りの楽器を重ねた結果、非常に独特の響きを得ている。それらは民族的なフレーズと相まって、「●●に似ている」とは表現しようのない、彼独自の音世界を展開してみせる。よくよく聞いてみれば、音の重ね方はかなり細かく、ひとつのフレーズを断片にして複数の楽器で弾き分けたりもしている。相当なこだわりぶりだ。

続いてなのだが、オーバーダブしながらモニターの向こうで、うつむきながらニヤニヤしている青年の姿が目に浮かばないか。もう一つの魅力は、決して器用とまでは言えない、孤独ないち青年が、精一杯頑張ってコツコツ織った手編みのマフラーのような、素朴で真摯な味わいとでも言おうか。よって私はこのアルバムを通じて、鳴っている「音」以上に、それを作った「人」のことを想い浮かべるのだ。
これは私の勝手で主観的な想像だが、マイク・オールドフィールドはたぶん友人が少ない。孤独だったと思う。友人という小さな社会に馴染めず、誰とも通じ合えずにいじけていたと思う。そんな中で彼がリーダーとなって、たくさんの楽器を集めた。自らによる指揮とプレイのもと、それぞれ性質の異なる多くの楽器たちにそれぞれの持ち味を発揮させ、ハーモニーという大きな世界を作り出す。作曲こそ地味だが、アレンジはオーケストレーション的でさえある。このアルバムの中では、彼は王様なのだ。控え目だけど意志の強い青年の心情世界が、見事に具現化されていると思うのだ。
実は私も学生時代に同じことをやっていた経験がある。半分引き籠り状態で、宅録ばかりやっていた。作品への愛着はかなりのものだった。作った音は「自分の分身」と言っても過言ではなかった。そんなこともあってか、このアルバムはサウンドだけでは片付けられない親しみを覚えるのだ。本作を聞き込み暗記していくにつれ、次の展開を待ちながら聴いてしまう。新しいテーマが現れるとアドレナリンが出て、そのたびにこれを作った彼の気持ちと同期できる気がしてならない。
その後の活躍も含めていまや世界的に偉大なミュージシャンである彼を私ごときと比べるのはご本人やファンの方から叱責を受けそうだが、もちろん個人的な思い上がりなので大目に見てもらいたい。彼は私と異なり、豊かな音楽的センスは言うに及ばず、とってもイケメンだ…。

おっさんになった現在も、多くの伝説的白人ミュージシャンの例から漏れ、ハゲることもなくメタボにもならず、いぶし銀の渋いルックスを保っている。完敗だ。

個人的にこの作品の白眉はパート2における「ピルトダウン人」というテーマだろう。
この名前は骨マニアなだけではなく「人類学」の一般科目もしっかり履修した自分には忘れられない名前で、有名な捏造人骨のことである。確かオランウータンの下額骨と原人の頭蓋骨を合体させたというシロモノだった記憶がある。
ここでは唯一ボーカルならぬボイスが入る。これがかなり先進的だ。野太く低い唸るような声で
すグぅフのワヵァハァァァ、だッ!フん、のゥフぉぅわハァァァー!
だ。延々とこの唸り声で「歌う」。
狼男のごとく「あおぉぉーん」という叫び声も入る。この端正なルックスからは想像もつかない醜悪な叫び声。
こいつにはかなりたまげた!本作で最も変態的インパクトが強く、個人的に最も惹かれる部分である。全曲中で唯一ドラムとベースがしっかりリズムを刻んでおり、最もロックらしい「聞かせどころ」にも関わらず、ひたすら声にならない低い叫び・唸り。
メインディッシュにウンコを盛るようなマイク・オールドフィールドの素晴らしいセンスにノックダウンされた。
なかでも13分45秒すぎあたり、4拍目のウラで
「ぶバっ!
と叫ぶところは射精モノである。
アゴが偽造では声も出せないということなのだろうか。何が言いたいのかは全く分からない。

というところで本作と同じく何のオチもつけずに、レビューを終わろうと思う。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年度末に自らを振りかえる

2008年03月18日 | 自己紹介
日本人には毎年正月と4月の2回春が来る。理由が何であれ、節目があるのは何かと便利なことだ。というわけで平成19年度はどんな年だったかな。

一番大きかったのはアル中の疑いによる断酒経験であったろう。これは久しぶりに自分の人生観までも変えるくらいの大きな出来事であった気がする。この期間かなり内省的になった。自分自身を捜索した。今まで気にもしなかったようなことを、やたらと考えてみた。そうして自分と言うチン毛な存在を定義してみた。反省という言葉を知らなかった自分にとっては本当に良い経験であったと思う。
この1年は結構長く感じられた。ここ数年、月日が過ぎるのが早く感じられてならず、光陰矢のごとしという格言は加齢とともに現実身を帯びてくるなあなんてのん気に思っていたのだが、どうやらアル中気味で意識がすっ飛びまくっていたことが大きく関係していたようだ。
なおその後再度飲酒を試み始めたが、飲み会等でそこそこ飲んできても記憶をなくすようなことや問題行動をおこすようなことはなくなり、今は幸せに酒と付き合って生きている。

続いての出来事が、およそ10年ぶりにバンド活動を再開したことである。と言っても昔も今もプロであったことは一度も無く、遊びの領域を出ないものである。おかげで捜索もとい創作活動に打ち込む楽しみを得た。良い方向でのエネルギー発散だと思う。
考えてみればスポーツやっててプロを目指す人なんてほとんど居ないのと同じで、とかく「音楽やってます」というと本人も周囲の人もプロ志向の有無を意識するみたいだけど、音楽もテニスと一緒で「休日の趣味」で良いのではないか。
バンドに誘ってくれた友人(かつてプロを目指していた)による、「己の無力さを知り、アマチュアとしてのスタンスに意義を見出し再スタートした」という主旨の発言に大いに共鳴した。自分はスポーツこそやらないものの結構負けん気が強く何事もやるならとことんという「結果重視」の面があったが、おかげでリラックスして趣味を楽しむという心の余裕を得た。むろん向上心はあるけれど、それは排他的であったり唯我独尊的なものではない。
井の中の蛙というのは忌むべきものだと考えていたが、今はそう思わない。そう思わないようになれたことが嬉しい。

最後に自分の日記であるつまらないウェブログをざっと1年分読み返してみた。
自分でも書いていたけど、精神年齢が幼稚だ。まだまだ幼稚だ。これがオトナが書いた文章なのか…。しきりと「私はDQNだ!」と言い訳しているみたいだけど、DQNだから云々というのも単なる出しゃばりの主張みたいで潔くないナア。
一方、社会との距離感が掴めないまま、なんとか周囲に馴染むべく空気を読もうともがいていたみたいだ。「普通になりたい」という気持ちが強かった一方で、なおも内心それを拒んでいる私の姿が見て取れる。

そんな時期を過ぎて、今は不思議と落ち着いている。普通で、目立たなくて、何ら特別でない存在の自分を、以前より認められるようになったみたいだ。他人より優位である必要は全く無い。私は私で低レベルでも構わないから好きなことをやっていればよい。今はそう思える。
最近は人ごみでもそれほどイライラしなくなったし(好きになったわけではないけど)、他人を敵とも思わなくなってきた。
なんだか1年で随分心境が変わったみたいで、すがすがしいです。
自分で言うのもなんだけど、DQNが少し丸くなったような気がしている。

2歳の息子に続いて、間もなく娘が産まれる予定だ。
ありきたりの普通の人生を、幸せだと思えたら素敵じゃないか。
残りの人生、上手に年を取って行けるかな?
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3匹のこぶたドカティに乗る

2008年03月12日 | バイク雑談
先日の春一番はすごかった。ウチの庭は8割方を駐輪場に割いてあり(実際はほぼ「駐車場」だが私の脳内ではあくまで駐輪場なんだよォォ)、駐輪場の総てがコンクリート土間である。だからぬかるむことはないものの、隣が畑のため普段から砂埃がすごい。
春一番を迎えるにあたって、屋根の下に置いているバイクについては、カバーが吹っ飛ばないように縛って固定しておいた。
砂嵐の後カバーを開けてみたところ、バイクは「きなこもち」みたいに美味しそうになっていた。チェーンなどは畑に捨てられカビが生えハエもたからないカボチャみたいであった。
ひとまず吹いたり拭いたりしてから一度バイクを走らせたところ、とりあえずはきれいになったよ。

そこでふと思った。

「庭にガレージが欲しいなあ」

ガレージッ!

かつて妻にその話をしたことがあるッ!

が一笑に付された。

「そんなん日当たり悪くなるからダメに決まってんじゃん」

しかしそれから既に4年が過ぎた。子育てに夢中の今の彼女にとって、住環境への興味は庭よりむしろ屋内にあるようだ。最近は彼女に命じられるままにキッチンやら棚を据え付けてやっている。

今だ、今なら言える!
勇気を出して言ってみた。
「勇気とは、言う気である」とは、3回くらいしか会ったことがない大学時代の知人、関くんが吐いた名言だ。

「好きにすれば」

いただきました、星みっつ!
お許しが出ました。


そこで、どのように好きにするか考えている。

まず素材については、ワラでもレンガでもなく、市販の物置メーカーのスチール製か2×4の木造に絞られた。
この他にも単管パイプとアクリル板とか、中古コンテナ利用というのも考えたが、選定から漏れた。たとえば後者は意外に耐用年数が短い(10年とか。税務会計上のそれではなく、実質的なもの)ことが分かったりで。
続いて、設置の手法については、外注するのとDIYとに分けられる。
また、別途基礎工事がいる。
工事か、悩ましいじゃあないか。

基礎工事というのは、地面と建物を固定する土台を作ることだ。重力のみを頼りにコンクリブロックの上へ単に建物を載せておいた場合、それこそ春一番で吹っ飛ぶおそれがある。まずは地面にしっかり食い込む基礎を築き、その上へ建物を繋いで固定する。
しかしこの基礎は結構難しいらしい。書店にて、普段全く用が無く近寄らない「庭」とか「エクステリア」コーナーへ立ち寄り覗いてみたが、水平を出したり、モルタルを流したり、「はつ」ったり、アンカーを打ったりと、バイクいじりとは全くご縁のない訳のわからない作業が目白押しだ。
また我が家の庭は上述の通りすでにコンクリート土間打ち(傾斜つき)であるため、この上に新たに基礎を作るのにはどうするべきかよく分からない。
素直に左官屋さんに頼むべきか。自力でやるべきか。んー…MMMMPA!


基礎をクリアできたらば、ウワモノは自作が良いと考えている。建物は比較的楽しく作れると思う。物置メーカーのバイクガレージを組み立てるのもよし。あるいは木造自作を楽しむもよし。
物置と木造にはそれぞれ長短がある。

メーカー物置は、一部を基礎へモルタル付けする以外は取説通り組み立てるだけでOKだ。作業はラクだろう。既存のコンクリ土間がそのままガレージの床となるので、床部分を作る必要もない。もちろん堅牢さも申し分ない。
ただし既存サイズのものをでーんと置くだけになるので、スペース的に制約を受ける場合や、逆にデッドスペースを生んでしまう可能性がある。

これに対して木造は設計の自由度が魅力だ。設置場所や形状(たとえば三角コーナー型とか)、開口部の位置等が思いのままとなるだろう。クルマのために空けなくてはならない限られたスペースを有効に活用できる。完成後も、補修や改修やカスタマイズがしやすいだろう。また木材は湿気を吸収するため内部の環境も良好となるらしい。
ただし、設計作業ならびに大工労働の手間がかかり、コスト的にもむしろ物置を上回る可能性がある。また制作工程で失敗に直面する可能性もある。

たかが物置されど物置である。大工でも左官屋でも姉歯氏でも無い自分は未経験という名のハンデを背負っている。それを補うためにも綿密な事前調査と的確な設計が求められる。あらゆる可能性を検討し、最良のチョイスをしなければならない。万一にもガレージが暴風で吹っ飛ぶような事故を起こすわけにはいかないのだ。ご近所様への迷惑もさることながら、中のバイクはそれこそ「きなこもち」では済まないからだ。

思いもよらなかったドカティもといドカチンデビューの可能性!私はラッキーボーイもといオヤジ。こぶたのようにウキウキ☆Do it!!
えへらへらァ!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴミ箱から蘇った花

2008年03月08日 | ただの雑談
職場にシクラメンの鉢植えがある。正月頃に年賀のご挨拶として上得意様よりもらったような記憶がある。
このシクラメンが、登場以来少しばかり職場を騒がせている。

こいつが鉢植えでオフィスへやってきた当初、職場の女性(オールおばさん)たちは大いに喜び過保護なほど面倒を見ていた。
なかんづく自称「華道の師匠」、出しゃばりなおばさんが1名おり、彼女が毎日のように騒いでいた。やれ水やりだの蕾やら花摘みだのであまりにうるさく、おかげで花なんかに全く興味のない自分までが初めて「シクラメン」という花の形を覚えることが出来たくらいだ。
何度も言うが、自分はチューリップとかサクラとか、小学生レベルにしか花の種類を知らないし、そもそも植物に全く興味がない。

さて、その後シクラメンは段々と花の数が減っていき1か月ほどで花はなくなり、ちょこっと残った葉っぱさえもモヤシ状態、ショボショボの死に体となっていた「らしい」。
シクラメンは鉢植えの中にいくつも花を咲かせていたが、華道おばさんがしぼんで美しくなくなったものをジャンジャンと撤去し、花とのバランスのためとか称し葉っぱまでジャンジャンもぎ取っていたんだ「そうだ」。いよいよ花は一輪たりとも無くなってしまい、急激に彼女の興味は失われ、面倒見もなおざりになった「らしい」。
なぜ伝聞の助動詞を多用するのかというと、私は興味がないため花の経過なんて見ても聞いてもいなかったからだ。全部あとで聞いた話だ。

具体的に自分の目と耳で知ったのはここからだ。
やがて放置プレイが開始され、シクラメンの残骸をゴミとして捨てることになったのだ。
自分は「花」は興味ないが、「ゴミ」には興味がある。ゴミ処理なら私の出番だからだ。そいつはモヤシという表現が妥当なほどへたりきった単なる葉っぱと化していた。

このゴミの発生原因について、私は花のことは全く知らないから「ふーん」くらいしか思わずどうでも良かったのだが、いよいよ明日ゴミに出すかなあと腰を上げた時、突然ある人が立ち上がった。

職場のおじさんである。

彼は、ひとつも花の付かなくなったシクラメンを指して「捨てるのはよしてください、私が世話をしますから」と宣言し、突然世話を始めたのだ!何故か?!

初めに書いたとおり、このシクラメンは上得意様からの贈り物だった。そのお客さんは実際にウチのオフィスを頻繁に訪れる。

「それなのに、誤った自己流でぞんざいな扱いをしちゃ失礼千万でしょう?シクラメンは上手にやれば5月まで持ったんですから」

彼は、お花大好き華道おばさんの勝手な振る舞いに内心腹を立てていたとのことだ。

自分は正直このおじさんが植物に造詣があるとは思いもよらなかった。
先日、余り物の花束を誰に持って帰らせるかで揉めた時も「面倒だから」と言って受取を拒否していたのに。

彼曰く

「私も特別に花なんか好きじゃありませんよ。ただ、一般教養として、何事も嗜んでおくのは大事でしょう?」

この発言には素直に頭を垂れた。さすがアダルトである。自分も見習わなくてはいけないなと思った。

おじさんが立てた目標は、第一に来年もう一度花を咲かせること。
そして、それを贈り主にもう一度見せて差し上げること。

かくして始まった「シクラメン復活プロジェクト(業務外)」に、私も微力ながら参加させていただくことになった。

シクラメンは冬に咲く花で、チューリップみたいに球根になって厳しい夏を越すらしい。しかし、おじさんは何とか葉を残したまま夏を越す方法にトライしたいという。その方が良い花が咲くんだそうだ。
ひとまずシオシオのモヤシと化した葉っぱに対して、昼は外に出し夜は冷え切らない場所へ置き、葉っぱや球根にかからないようちびちびと器の底から水を与えたところ、元気な葉っぱに戻った。

「お花には愛情をもって接すると、ちゃんと返してくれるのよ♪」

という、今に至ってさえのんきな華道おばさんの声は完全に無視して、男性陣やる気満々である。
愛情なんていう、計測もできない適当で一方的なメジャーじゃ花は育たない。バイクだって直らない。
花に必要なのは、具体的な「温度」ど「水分」と「日光」それから「養分」の管理だ。
愛なんて無くても良いのだ。
能天気な宗教みたいなことをしたり顔でのたまう還暦のおばさんなんぞは、さっさと引退してダンナとでも愛を語ってろ!
と、シャイな我々は心の中でブーイングを送った。
こんな理系技術者的な心持ちで花を咲かせてみせてこそ、大和魂ってもだろう。

私は人事異動で結果を見届けられない可能性が高いが、もし今の部署を去る場合は液体肥料でもプレゼントしておこうと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君はいずこへ

2008年03月05日 | ただの雑談

先日のニュースによれば、いわゆるブログの開設数は年々増加しており、昨年11月の段階で1300万件を突破したという。10人に一人がマイブログという計算であり、ネットへの市民参加はここまで来た、みたいなのが記事の主旨であった。
ブログは商用利用も相当数に上ると思うが、そのことは考慮していないみたいだ。また、SNSについても触れなくてよいのだろうか。
本件に限らず、マスコミによる報道というのは常にある物事の一側面だけがクローズアップされている。我々視聴者は「一を聞いて十を知る」とまでは行かずとも、マスコミが報道しなかった残り9通りの側面の存在の可能性についてだけには、常に注意を払っておくべきだと思う。
いきなり話が逸れたが、いわゆるブログで出来ることというのは、基本的に従来の「ホームページ開設による情報発信、掲示板開設やメールによるコミュニケーション」と大差ない。
ブログの利点は、開設方法の容易さ、日替わり日記形式による更新の容易さ、コメントならびにトラックバックによる簡易な双方向コミュニケーションといった、「気楽さ」が一番の売りではなかろうか。
ブログ誕生によって、いち市民ユーザによるインターネットを用いた情報発信のための門戸が、大きく開け放たれたとでも言おうか(偉そうに)。

いっぽう誕生の時期をブログとほぼ同じくして、「ミクシィ」に代表されるSNSというコミュニティツールも成長を続け、幅を利かせている。こちらはコミュニケーションに比重を置いた切り口で人気を呼んでいる。ミクシーへの登録ID数(≒参加人数)は、今見てみたら1600万件超であった。より短期間でブログ開設数を上回ったことになる。
「♪1年生になったら友達100人できるかな~」は少子高齢化の昨今では現実的にムリとなってしまったが、代わってネット上ならば学校なんてとうの昔に卒業した人間であっても友達100人は十分に達成可能だ。会ったことの無い「マイミクシー」を何百人も溜め込んでおられる御仁は少なくない。

こういうご時世であるからして、実際に会ったことがなくネットを通じてのみという「友人」が、私にもいる。
居るには居るが、それは数名だ。現実の世の中で友人が少ないように、ネット上であっても私は友人は少ないらしい。
改めて、普段コメント等をくださる皆さん、いつもありがとうございます。
このような、顔を知らない友人たちと実際に会ってみたいなという気持ちは、私にも結構あったりする。
そう思うのが私だけではない証拠に、いわゆる「オフ会」は毎日のように開催されている。今日もどこかで、長い間互いに顔を知らぬ友人だった誰かと誰かが、初めて実際に会ったであろう(私も経験があるよ)。

そんなネットの世界での友人。今はネット上でのお付き合いだけだけど、何か機会があればお会いしてみたい人。そして未だそれを果たせない相手。
きょうは、その中の1人についてお話ししたい。
特定の個人について採り上げてお話することは、ひょっとすればご本人に迷惑をおかけするかもしれない。だから、「勘弁して欲しい」というご指摘をご本人あるいは縁者の方からいただいたならば、いつでもこの投稿を取り下げるつもりである。忌憚無くご指摘いただきたいです。
だけど何しろ私は彼のことが頭から離れない。気になるというか、心配というか、何よりミステリーなのだ。
だからお咎めを覚悟であえてここに紹介したい。併せて、このことが特殊なケースであることを予め弁解させていただきたい。

※ ※

冒頭で紹介したブログの開設数のニュースには続きがある。開設数増加の一方で、更新を停止してしまっているブログも相当数見られるという話だ。休眠ブログが全体の何割程度になるのかは忘れてしまったが、1300万件中の実質稼働数はかなり低率だったように記憶している。
実際、今ここをご覧になっている皆様も、休眠ブログというものをしばしば見かけるのではなかろうか?
その多くが、始めの頃は結構盛んにエントリの投稿がされていたのだが、段々段々とネタが細ってきてしまいに力尽きるという「自然死型」であると思う。
ブログに限らず流行なんて何であれそんなものであろう。ひとつの流行が自然死し、また新しい流行が湧いて出る。たったそれだけのことであり、人類の営みの必然であると思う。それで良いのだ。
かくいう自分だってウェブログはただの流行だと思っていたから、自分のブログがこんなに長寿になるとは当初は思ってもみなかった。
仮に自分が飽きずに書き続けたかったとしても、サービス自体がいつまで残っているやら、と思っていた。
ところが現在のところ、ウェブログのツールとしての立場はまだまだ強固な様子であり、私自身もまだ飽きないみたいだ。
(ちなみに私は、遊び仲間による内輪ホームページを代表として管理していたが、それを自然死させてしまった経験がある…)

昨年九州ツーリングから帰ってきたころ。私にはたまたま互いのウェブログがきっかけでネット上で知り合いになった人がいる。
いわゆるハンドルネームとして、「中年侍」と名乗られる方だ。
彼がどんな人かというと、私と同じくライダーであり、同じくキャンプツーリングを趣味とし、全く同じラフ&ロードのツーリングバッグを背負い、私より数ヶ月先立って九州を同じく初めてツーリングで訪れ、私がいつか乗ってみたいW650というバイクに乗られている方である。ロック好きという点でも共通項が多く、彼の勧めにより私はボストンを愛聴するに至った。あまりプログレではないが大いに気に入ったため、かなりのローテーションで鑑賞している。

ブログから知り得る限りの情報によれば、彼は中京地区在住のサラリーマンで、私より一回りほど年長で、奥さんのほかにお子さんが2名おられる。
とにかく筆が早く、かなりの文量のエントリーを毎日立て続けに投稿されていた。ツーリングの日記によれば、朝4時起きで1日14時間くらい走るキャンプツーリングを何泊もこなしており、気力体力ともに相当なものであろうことが窺い知れた。まさに働き盛りの40代といった趣だ。わりと元気の無い白面のヤサ男としては、頭の垂れる思いである。
またハンドルネームに因んで侍口調に徹しており、例えば自らの「出勤」を「登城」と読み替える等、統一的な世界観(?)が与えられており、読み物としてかなり面白かった(以後は彼の世界観に敬意を表して、ここでは中年侍「殿」と呼ぶことにしたい)。
酒の席に出てきそうなたわいもない話題から、ライダーなら語りたくなる旅の想い出や、あるいは赤裸々な心情の吐露に至るまで、ひたすら「ござる」口調。
どうも最近この侍口調が一部で流行しているらしいが、彼はパイオニアであろう。
私は気がつけば彼氏のウォッチャーと化していた。
彼と同じ年代の人間は私の職場にも多く居るが、趣味を通じての知り合いや、プライベートでの友人と呼べるものは皆無だ。だから私は40代という「年頃」の一面だけしか知らないことになる。
そのこともあって、中年侍殿の、職場では見せないであろう饒舌な横顔に、非常に興味を持ち、同時にその人間臭さに惹かれたのだ。そう、「プライベートについて饒舌な40代」というのが、私にとって唯一の存在なのかもしれない。
彼からの申し出がきっかけで、我々は互いのウェブログへブックマークを貼り付け、友好の証とした。
(よろしければ、画面左の方のブックマーク一覧から参照していただければ幸いです)

ところがある日を境に、突然彼のウェブログは更新されなくなった。
停止の直前に「PCの調子が悪い」と訴えておられたので、修理や買い替え等で手間取っているのではないかと想像していた。
それきり月日は過ぎて行き、昨年10月の更新停止からとうとう4ヶ月が過ぎた。
更新停止後も今日に至るまで私は毎日のように彼のサイトを訪問し続けている(RSSは使わない主義なので…)。しかし名古屋港で息子さんと釣りをされたきり、その後の消息についてはついに記されないままである。
今初めて彼のウェブログを見る人が居れば、最後の投稿日が昨年10月であることをみて、休眠ブログか、あるいはその一歩手前と見なすことだろう。本当にこのまま休眠になってしまうのだとすれば、残念なことだ。

果たして中年侍殿は流行に則って「自然死」してしまったのだろうか。私はそうは思わない。
まず第一に、上で書いたとおり彼の筆の早さと量はハンパではなく、その勢いは終始一貫していて、更新停止前まで全く衰えた様子を見せていなかった。
続いて、彼は複数のブログランキングに参加しており、ランクインすることを停止寸前まで喜んでいた。よって投稿に飽きてしまったようなフシは全く見受けられず、これも自然死を否定するに足る。
なおアファリエイト投稿もやっておられたが、毎回ではなかったし、各投稿への気合の入り方を見ればアファリエイトが目的ではなかったことは間違いない。あくまで趣味の範囲で嗜まれていたはずだ。
怒涛のように新しい記事を書き続け、ある日突然居なくなってしまったのだ。
これまでのところ、ブログでの実質活動期間はわずか半年程度。
本当にこのまま居なくなってしまったら、さながら東洲斎写楽である。

彼は何故沈黙してしまったのか?私はずっと真相を推理している。
「自然死」の可能性が低いと考えている自分としては、何か更新できない事情があるに違いないという前提で論を進めてみた。
まさに「写楽は何者か」みたいなミステリーの世界であるが、そのいくつかを紹介してみたい。

※ ※

仮説1「ネット環境不備」

推理の初動段階で考えたのが、彼の使用していたPCがそのまま壊れてしまったという仮説である。不調を訴えていた通り、そのままウイルス等にやられてHDDが破壊されてしまった可能性は低くない。
しかし、故障後4ヶ月間も放置というのは考え難い。このご時世で一たびブロードバンドの恩恵を受けたものが、「壊れたから止めました」ということは中々無いだろう。修理に出したり、ビスタマシンに買い換えるなりの対処を試みたはずだ。
4ヶ月という時間は、問題解決のためには十分な時間といえる。復旧は既になされたと断定して差し支えないだろう。
それにも関わらず更新されていないということになる。

となると次に思い浮かべるのが、マシンが変わったことによって、彼がブログ編集用に設定していたIDならびにパスワードが分からずログインできなくなってしまった可能性だ。
パスワードを問い合わせようにも、メールアドレスまで変更になってしまい、にっちもさっちも…というケースだ。
いっぽう、あれだけの蓄積がなされていた自らのウェブログをそのまま放棄するのは、中々出来ないことだろう。人には愛着というものがある。自然死ではなければ尚更だ。何とかして自分のウェブログを自分のものとして繋ぎとめたいと考えるのが自然ではないか。不本意な更新停止の理由について、何らかのフォローのアクションを起こしてしかるべきである。

そこで各エントリ記事への「コメント」欄が使われていないかを確認することにした。これは読者であれば誰でも書き込みできるから、仮にログイン出来ずとも本人が発言することが出来る。
それから、もし彼がID・パスワードともに紛失してしまった現ウェブログへログインすることを諦めたのなら、その有り余る投稿意欲をぶつけるべく、新しくどこか別のウェブログサービスを用いて続編を始めたと考えることも、不自然な論理ではないだろう。
そのような場合にも、コメント欄を用いて移転先をPRすることが可能だ。続編を始めたならPRしているだろう。
続編が存在しなかったとしても、更新停止について本人から何らかのコメントが見られるかもしれない。

しかし残念ながら本人からのコメントはその後一切されていない。沈黙の理由が語られることはなく、読者からの沈黙を心配するコメントに対しても返答が無いままなのだ。
「続編」の存在を独自に探すことも試みたが、それらしいものを見つけることも出来なかった。

よって故障のせいで沈黙中という説は、いまいち説得力が無い。無事に暮らしてさえいらっしゃれば、どこかで必ずネットを見ているはずだ。
私はこの仮説1を先月末には放棄した。


※ ※

仮説2「出奔・浪人」

第二に、自らの意志で「中年侍」を封印してしまったという仮説。

ブログといえば「炎上」がしばしば取り沙汰される。
有名人ブログの炎上は3面記事になったりもするが、それは一般人である我々にも十分起こりうる。犯罪行為等を書いた場合がそれだ。変態でキチガイである私の場合、過去の投稿で危険な部類のものが結構あったりするのでヒヤヒヤものだ。
炎上発生の場合に取るべき手段は色々あるらしいが、鎮火まで沈黙期間を置くというのは常套手段のひとつと思われる。裏を返せば、沈黙の理由のひとつたりえる。
が、中年侍殿のそれに関しては、炎上の形跡は全くないし、そもそも炎上するようなことは一切書かれていない。素朴で私的なウェブログであった。
彼を自重させる外的要因は今のところ見当たらない。

となると、沈黙を続けているのは自発的な意志によることになる。
もしかしてウェブログを通じて関わりつづけてきたネット社会に疲れ、嫌気がさし、ネットという名の仕官先から出奔し浪人されているのかもしれない。
そう言えば、投稿の中で「ツーリングの日記を一気に書くのが大変だ」というようなことをこぼしていた。
また、日中勤務のサラリーマンにも関わらず、夜中に眠れなくてPCへ向かいひたすら投稿を書く、というような発言があったことも記憶している。これは少し心配なエピソードだ。
あるいはネットそのものが嫌になるまでは至らなかったにしても、何らかの理由から「中年侍」を演じつづけることに疲れてしまった。そして、ひとり静かにお腹を召されたのかも分からない。「切腹」を決意するふとしたきっかけが、仮説1によるPC故障に起因した静養期間にあったというのなら、あり得ないストーリーではなさそうだ。
彼はネットへ向けて積極的に発言することをいっさい止め、私の憶測をよそに「元」中年侍として、今は静かなネットライフを送っているのかもしれない。

ところで、自然死した個人ブログの「死因」のうち、「ミクシーの日記へ移転」というケースは案外多いのではなかろうか。
ミクシーを始めとしたSNSがコミュニケーションに重きを置いているのは上述の通り。
ブログの投稿とミクシーの日記を比較した場合、自分の書いた投稿に対して読者から何らかのレスポンスを得ることができる(いわゆる「絡んでもらう」)可能性はSNSの方が断然高い。
一方、アクセスカウントを重視し不特定多数の人間に一方的に何らかの情報を発信するツールとしてはブログに軍配が上がるだう。これは両者の性質の違いに起因する現象といえる。
そんななか、従来よりブログを活用してきた多くのユーザーたちは、ある時「自分の場合、ブログよりもミクシーの方が使えるかも」と感じる場面に直面した。
これまた現在の流行と言えるが、すなわちネットを通じた未知のユーザーとのコミュニケーションを、魅力的に感じるユーザーは多いのだ。
ミクシーの登録IDがブログの開設数を超えているのは、その裏づけではないだろうか(ミクシーにも休眠IDは多いが…)。
コミュニケーションを目的にブログを開設していたユーザーがミクシーに移転してしまった事例は、果たしてどれほどあるのだろうか?
残念ながら統計のような物を見つけることは出来なかったが、自分の周囲ではこういうケースを複数件目撃している。

ちなみにミクシーにはアクセスログ機能を利用し自らのページへアクセスを誘うネズミ講的コマーシャルIDも多い。商用利用が禁止されているせいでアファリエイトが存在しない代わりの抜け穴なのだろう。しかしここではあくまで大多数の一般ユーザによる一般的利用を前提に話をした。

自分に関して言えば、上述のようにリアルでもバーチャルでも友人は少なく、どちらかというと1人で静かなのが好きだ。いっぽう、気心知れた相手とのやり取りでまでシーンとしているかというと、そうでもない。むしろかなりフランクだ。
現在のところ、私は両サービスの良い所取りをして使い分けているつもりだ。

ということでまた話が逸れたが、例えば中年侍殿が遅ればせながらミクシーの存在を知り、これこそ自分の求めていた活動の場であると悟ってしまった可能性もある。今まで苦労してブログをせっせと更新し、他のブロガーとの連携を強めてきたが、その努力に空しさを覚え、ミクシー等のSNSで心機一転し、積極的に活動しているのかも知れない。
だがその場合も、これまで築き上げてきたブログによるコミュニケーションまでを放棄する必要があったのだろうか。彼にとって「中年侍」という役は不本意なものとなってしまったのだろうか。
また東洲斎写楽別人説があるように、中年侍殿も実はそもそも別の誰かが創造した架空の人格ということもあり得るのだろうか。
今ひとつ納得行く説明が得られず、仮説2にも今のところ謎が多い。

※ ※

仮説3「身上に異変」

第三の仮説、これはあまり考えたくないのだが、事故説だ。
つまり「ポール死亡説」みたいなものだ。これはあまり考えたくない。
まさか既に故人となられてしまったとは思えないが、ブログなんかやってる場合じゃないような、致命的な問題が発生したのではないか。
この説については、これ以上考えることは出来ない。

※ ※

結局どのような理由があるにせよ、中年侍殿の意思は不明のままであり、私には何も出来ないしこれ以上何もするべきでない。出来れば帰ってきてもらいたい気持ちは正直あるが、私は彼の意志を尊重したい。失礼な詮索は十分し尽くしてしまった。ここで何らかの呼びかけをするつもりもないし、私はただ黙って成り行きに任せるだけである。今後何か状況に変化があるかもしれないし、無いかもしれない。ただ見守るしかない。

1300万件の中うちたった1件、ほんの小さな出来事のお話でした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする