人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

わが親愛なる友へ

2021年07月31日 | ただの雑談
人生を通じて多くの人たちのお世話になってきたことについては、残念ながら社交辞令程度にしか、そう思っていない。人付き合いの多くは、オフィシャル(社会人)を演じている俳優としてのそれ(芝居)がほとんどであるし、プライベートであってもほぼ表面的なものに限られる。別に人付き合いが嫌いなわけではないのだが、私にとって「人間」というものは、これを趣味・興味の対象として全身全霊を注ぐには、あまりに脆くて壊れやすいのだ。異性として人間に惹かれるしこれと仲良くなるのは自然のことだが、出会った数だけ別れているのが、相手が異性である以前に人間である証左であろう。家族や家庭というものは、世間一般では最も心を許せる安らかな居場所とされているし、私もそう信じたかったが、いよいよそれさえ捨ててしまった。おそらく本当の私は弱くて臆病で警戒心が強く、何かにすがって生きていたいのだろう。しかし壊れやすい存在を前提とし、それを中心に据えて重んずる環境には、とうとう耐えきれなかった。すなわち精神的に未熟というか、乳児そのものであり、仮に周囲に求めているものがあるのであれば、それはもはや母性だけなのかもしれない。これを現代日本の成人男性として照らせば、非常に非情で非常識で、わがままで、自分勝手で、反省もしなければ向上心もなく、およそ責任という言葉から最もかけ離れており、総合的に人間失格としか言えないキャラクターであって、いっそ犯罪者のような気分がする。自分は人間でなかったら良かったのにと思う。本気でそう思う。
そんな自分にかつて親友と呼べる存在があった。残念ながら彼はもうこの世には居ない。没年当時、世の中にはまだ携帯電話もインターネットも無かったから、彼の名前を検索しても同姓同名の別人しか出てこない。ゆえに個人の特定のしようがないから、私にとって馴染みの深いその名前をここに書いてしまっても良いのだが、残されたご家族の心情等々もあるので、やはり名前は書かない。ここでは彼をTと呼びたい。
Tと過ごした時間と、彼の死、それにまつわる諸々の出来事は、私の人格形成に多大な影響を及ぼした。ということは、Tこそが私を変えてしまった犯罪者メーカーだったのだと言いたいわけではなく、全く逆である。私がこうなったのは、私の責任であり、他の誰かのせいではない。否、私に責任などは無く、己の自我というものは単純に哲学的な主体というか存在でしかない。すなわち冒頭で散々自分を罵ってはみたが、哲学的な存在としての自分は、そもそも希薄だし、良くもなく悪くもなくどうでも良いのである。単純に、たまたまTのことを思い出した。そこで、うろ覚えな部分もあるが現時点で一度書き留めておこうと思った。改めて、私にとって唯一だった自分以外の人間、親友への、感謝と敬意と慕情を確かめておきたい、そんな気分に今なっただけである。

私がTと出会ったのは中学生の時であったが、互いに認め合い共に励んだ時間は、高校1年生の冬に彼が他界するまでの僅か数か月であった。中学の音楽の部活で出会ってから長い間、Tとはそれほど懇意ではなかったのだ。性格的に雑な私と几帳面なTとでは、それほどそりが良いとは言えなかった。ただし、中高生ともなれば異性にも興味を持つし淫らな妄想もするものだが、私とTでは「下ネタ」「エロ話」だけは盛り上がったことをよく覚えている。彼は絵が上手だったので、真面目な性格の割にはよく卑猥ないたずら書きをしていたものだ。また、Tには2つ下の妹がいて、学祭で見かけたその妹さんを気に入った私は、
「おい、今度君の家に遊びに呼んでくれよ、君の妹と会いたいからな!」
と言って憚らず、Tからは
「絶対呼ばねえ」
と煙たがられるような、そんな程度の付き合いであった。
お互い同じ高校に進学し、周囲では高校生らしく進路の話題などが盛んとなった。当時私は本気で音大に進学して作曲を学びたいと考えていた。当時すでに習作のような音楽作品を作って録音などしていたので、これを彼に渡して聞かせた記憶がある。おそらくそれが彼と通じあうようになったきっかけであったはずである。
「すごい、この曲を、本当に君が作ったのか?どういう和音を使っているんだこれは!天才じゃないか」
というような反応だったので、自分は大層気をよくして、色々と説明した。
「いや、誰でも耳コピできるような、ギターのコードみたいな和音は、もう卒業したのさ。近現代の作曲家たちはこうとか、こうとか、奇妙な響きを多用するだろう?ぼくはそれが好きなんだ。あまり詳しくはないけどね」。
そこで、音楽教育を受けたことがあるわけでもない高校生ふたりは、音楽室に飾られている西洋音楽の作曲家の肖像画のうち、なるべく後ろの方から色々と聞き探っていくことにした。今と違ってインターネットが無い時代ゆえ、足で通って盤で聴くしかなかったのだが、互いに勉学で忙しい中貴重な時間を割いて収集に励んだものだ。彼からいただいた年賀状に、
「ダフニスとクロエ、展覧会の画は最高だよ!」
と書かれていたことをよく覚えている。音楽的嗜好は今ではクラシックはメインではなくなってしまったものの、モーリス・ラヴェルは今もって好んで聴く作曲家である。
Tは私が作曲を本格的に学ぶことを後押ししてくれたし、自分もそのつもりでいた。共にいろいろな音楽を見つけては情報交換しあった。急激に互いにどんな話でもできるように打ち解けた。ある日の帰り道でのエピソード、例の妹の話である。彼女が習っていたというピアノの発表会だか何だかで入賞したと聞いたので、
「それはおめでとう、大した妹さんだね。それと比べればぼくなど何かの賞など取ったことも無い。是非名を上げてみたいよ」
というコメントをしたところ、
「いや、君は、君自身がやりたいことを続けるべきだよ。誰かが賞を取った、なんて他人の話に影響される必要はない」
という予想外の反応をされた。これは後に胸に刻まれる言葉となる。
そんなTが、高校1年生の2学期くらいからか、唐突に学校に来なくなったのだ。親友と思っている人間が学校へ来ないというのは非常に寂しいものであったが、理由は分からないが彼が登校しないことに触れるのは周囲でタブーとされていた。今思えば、厳格な進学校であり、行事やチームワークや友情より何よりも勉学が重んぜられるという厳しい校風であったから、勉学の士気に影響しそうな話題は触れられなかっただけかもしれない。しかし、自分は何か家庭の事情があるのかもしれないと大層心配をしたものだ。今日も今日もと彼が登校するのを待つばかりで、とうとう一度も会えないまま2学期が終わって冬休みになった。

自分は意を決してTの自宅に電話を入れた。母親が取り次いでくれた。とりあえず家にいることが分かっただけでもほっとした。
「どうしたんだ一体。ぼくに何も言わずにずっと学校に来ないというのはどういうことだ。何があったんだ」
Tは理由について明確にしようとしなかった。言いたくないのだろうと考え、あまり追及しないことにした。
「とにかく、冷静に考えろよ。何かのっぴきならない事情があるんだろうが、ぼくたち今高校1年生だろう?この先進学もするかもしれないし、ゆくゆくは世に出ることがあるかもしれない。だけど、学校の授業の日数が足らないってことは、もしかしたら留年とかしちまうかもしれないし、君の将来にケチが着くだろう?今さら、今年度の成績なんてどうでも良いし、仮に進路で悩んでいるのだとしても、そんなものは後から修正が効く。今はとにかく、学校に来ることだ」
私が一番言いたかったことは伝えられたのだが、Tはこれに対しても色よい返事をしてくれなかった。私は業を煮やしてこう言った。
「わかったよ、ぼくの言うことが伝わらなくても構わない。君には君の考えがあるだろうから、それをぼくは決して否定しない。だから一つだけ、ぼくを安心させるために約束してほしい。それは、3学期からはきっちり登校することだ、いいかい?」
それでもTは相変わらず気乗りのしない様子であったが、私もそれ以上その話をするのはやめたはずだ。せっかく久しぶりに電話で話したのだから、残りの時間は互いに好きな音楽の話でもしたのだろう。先に紹介したダフニスとクロエと書かれた年賀状は、この冬休みに届いたものだ。

学友たちがみな冬休みの莫大な量の宿題と戦い抜き、課題ノートという首級を「どっさり」と携えて、新学期の初日を迎えた。Tは来るだろうか?手ぶらではさぞ気まずいだろうと気を使いつつ、恐る恐る学校へ向かったのをよく覚えている。もしかしたら初日こそ居なかったのかもしれないが、とにかくTは無事に登校を再開した。私は大いに喜び彼を励ましそして礼を言った。
「こちらこそ礼を言うよ。約束させられたから、無理にでも来ることにしたんだ」
Tはそう言った。
このことは後に私に「約束事は、極力、しない」という強い信条を植え付けることになった。

1月には寒空マラソンという学校行事があった。河原をひたすら走るのである。去年まで10kmだったが、今年から高校生なので15kmだ。1月の体育の授業はそれに備えてひたすらジョギングであった。自分とTは球技が苦手で大嫌いなので、ジョギングという体育授業は好きであったが、当日は別だ。さすがにしんどい。前日には、体調が不安な生徒は任意で保健の先生の面談を受けられることになっていた。体育授業の内容といい、この面談設定といい、学校が生徒の体調管理を最大限気遣っていることが見て取れるが、私とTに関しては
「おい、もしこの面談で引っかかったら、明日走らないで済むかもしれないぜ!」
「ああ、もちろんだ、ダメ元でも、面談を受けない手は無いよな!」
と2人して意気揚々として保健室に向かった。実際に面談に行ったのは私とTの2名だけだった。にこやかに2人を迎えてくれた女医が、初めにTに対してこう言った。
「はい、健康健康!問題なし!明日頑張っておいで!」
「ちぇー!!!」
ところが私の番になって女医の顔色が曇った。
「あなた、ちょっと脈がおかしいわよ。ちゃんと病院で調べてもらったことある?」
「は?脈?いや、今までそんなの一度も」
「あら、そう。貴方は明日の参加は認められません。見学していなさい。一度ちゃんと心臓系の病院に行ったら良いわ」
「(まさか!ラッキー!)はいっ!!」

私はホクホク、Tはガッカリな結果となってしまった。
「まじかよー、おれ、15kmなんて走ったら、死ぬぜ、、、」
「大丈夫大丈夫、ちゃんとおれが看取ってやるから!」
「まったく、君がうらやましいぜ、、」

迎えた当日の朝、相変わらず萎え切っているTに対しては
「終わったら一緒にマック行こうぜ、きっと君が次に食うマックは最高にうまいはずだ!」
などと応援して送り出し、自分はずっと河原で座って、晴れた空を眺めてぼんやり考え事をしていた。
「良かった、Tが無事に学校に戻ってきてくれて。お互いどういう進路になるか分からないけど、ぼくと彼とはきっと、一生の付き合いになるんだろうな。まだ日は浅いがこれからが楽しみだ。こういうのを青春ていうんだろうか」

ポツリポツリと、15kmを走破した先輩や同級生たちがスタート地点に戻り始めた。Tは足も遅いし途中でへばって歩いているだろうから、早く帰ってくるはずはないので、走り終わったTが自分を見つけて話しかけてくれるまで待っていようと思い、河原のグラウンドの端っこの方で空を眺め続けていた。
いよいよ終盤(ビリ)グループに近い生徒たちが戻りだしたところで、
「みたか?」
「みたみた、大丈夫かよあれ!」
みたいな不穏な噂が立ち始めていた。何かがあったらしい。やがて別の友人から具体的な情報がもたらされた、
「おい、きみの仲良しのTが、あの辺でぶっ倒れていたぞ!救急車で運ばれた!」
あの辺りと言って指さしたのはもうスタート地点から辛うじて見えるあたりだった。そういえばさっき救急車の音がしたかもしれない。全く気付かなかった。
これを聞いた自分がたまげたことは言うに及ばない。わたしはTが帰ってくるのだけをずっと待っていたのに、彼だけが帰ってこないなんて。救急搬送に対応したといいう体育の教師を捕まえて、何があったのかを問いただした
「ちょっと無理したのかな、意識をなくしたようだ。まあ、比較的よくあることだから大丈夫。心配しないで良いよ、さあきみも帰りなさい」
と言われ、少し安心した。
「判りました。念のため、彼が担ぎ込まれた病院名だけ教えてください。」
と尋ねて、私も帰路に着いた。だがやはり気になる。教師の指示に背くことには勇気が必要だったが、私は帰路に着くふりをして、その病院を訪ねたのだ。昨日の保健の先生は、まさか私とTの脈を取り間違えていたのではないか?どうか無事でいてほしい。それを確認するのは自分の務めだろうと思った。至近にある比較的大きな町の病院であった。ここまでくれば、とにかく彼と会えるんだ、勇気を振り絞って病院の受付にて、不躾な訪問の趣旨を伝え、ぜひ面会させてくれと頼んだ。ところが帰ってきた答えに自分は驚愕した。

「ああ、さっきの心肺停止の子ね。うちでは処置できず、○○大学病院に緊急で再搬送されました」

その大学病院てのは、聞いたところ、めちゃくちゃ辺鄙な場所にあってクルマじゃなければ行けないような場所なのだったが、どうやってそこへ向かったのかは、全く覚えていない。相応の時間がかかったはずだが、とにかく夢中で辿り着いた。あまりに広くてどこからどこまでが病院なのか分からないような病院であったが、救急搬送される患者専用の出入り口を見つけ、ノックもせずに飛び込んだ。Tはどこだ。廊下に面して処置用の簡易な病室がたくさんあるのだが、そのどれかに相違ない。一つ一つ勝手に開けてしまえば、病院からつまみ出されてしまうに違いない、冷静になるよう言い聞かせて、よく観察した。ほどなくして、見慣れた教師が憔悴した様子でそのうち1室から出てきた、あそこかっ!
「こら!お前!どうしてここに居る、やめなさい!」
私の首根っこを掴む教師を振り払って、その病室に駆け込んだ。処置用ベッドを囲んで輪になって座っている見慣れた教師たちが、同じく一斉に目を丸くして立ち塞がって壁となった。再び私に罵声を浴びせた。
「何やってるんだ!出ていけ!」
大の男3人に羽交い絞めにされてしまい、さすがの私も観念した。ところがある女性がそれを制止してくれた。Tのお母さんだった。
「せんせい、まってください!もしかして、それは、○○さんですよね?!そうではありませんか?」
「そうですが」
「なら、今朝もTから彼の話を聞かされていました。どうか、いま、会わせてやってください」
涙ながらにそう言われた。
教師たちから解放され、処置台の上で横たわっているTに再会できた。頬に触れると、既に冷たくなり始めていた。

昨日、冗談で話していたことが、まさか全部本当になっちまった。
たとえ冗談でも、ああ言うことは、言ってはいけなかったんだ。
言葉というのは、どれほど重いのだろうか。
そして、彼が、先月までの通り登校拒否を続けていたら、今頃どうなっていた?
自分が余計な約束をしてしまったせいではないのか。
ぼくがTを殺したんじゃないのか。
同じく、例の妹もそこで泣いていた。こんな形で彼女と再会するなんて。

自分より遅れて、Tの父親が駆け付けた。16歳の息子の死に接した父親の姿はこのようなものであった。
彼は息子に対して2回、やさしく、その名前を投げかけた。当然返事はない。その後大声で怒鳴り始めた
「おい先生はどうした?どこだ!」
「はい、私が担任の…」
「あんたじゃない!!病院の先生だよ!ちょっと呼んでくれよ!!先生だれか!!おい!これ!なんとかならんのかね?!」
大声で呼び出された医師が、数時間前の時刻がスタンプされた死亡宣告を再度、朗々と読み上げた。
「おお」
父親も泣き崩れた。
あのシーンは本当に頭から離れないし、二度と見たくない。少年の心はもうズタズタであった。

それから色んなことがあった。初めに、Tを失ったTのお母さんはショックのあまり、息子を亡くした瞬間に初めて出会った息子の親友すなわち私を、Tの生まれ変わりのように思い込んでしまい、もう1人の母みたいになってしまったのだ。次に、私はTの死に責任を負っているので、彼女の息子にならなくてはならない、そんな義務感にかられた。そうして、そのお母さんから、Tが語らなかった色々な逸話を教えてもらった。几帳面さゆえか「マラソン当日は、とにかく走りぬく、絶対歩かない」と豪語していたそうだ。彼が登校拒否していた理由は、ついに本人から聞くことはなかったのだが、お母さん曰くどこかのアフリカの国で内戦だか難民が発生しているのを憂いて、今すぐにでも支援に駆け付けたいのに高校生では何もできない、という殊勝な理由であった。今思えばそれは思春期の若者特有の反体制的思想の一種であり、一過性のものだったはずだろう。だが、当時音楽漬けだった自分にはとても衝撃的な理由であり、死してなおTという人物の偉大さにかられ、自分は彼のために彼の分まで生きなくては、と思うようになっていった。彼が不登校の自宅で何をしていたかというと、オピニオンの文章を用意して新聞社とやりとりしていたそうだ。学校の単位が足らないのは良くない、なんていう忠告は、彼にとってどうでも良かったんだろう、無理やり約束させた自分を恥じた。そうして、自分では知りえなかったTの色んなものを吸収して、もうほとんどぼくはTと一体になってしまったのではないかと思った。とにかくTは私とは異質な偉い人物だったのだし、自分は責任をもって、Tの意志をよく踏まえ、2人分の人生を生きなくてはならないと思った。
自分の家とTの家、2つの家庭を頻繁に行き来していた。今思えばなかなか異様なことである。そんな折に、実の母親が、産まれて初めて私の目の前で涙を流して泣いて見せた。
「あなたは、私の息子なのだからね」
私は実の母は最強にして最恐と思っていたから、憚ることなく何でも思ったことを伝えてきたのだが、まさか、わが母も、気を遣わなくてはならない弱い存在だったのか、そんな弱い母を困らせてしまっていたのか、私はいったい誰の胸に飛び込んだら良いのか。いや反対なのだ。これからは、母には立派な息子の姿を見せておかなくてはならない、母は守られるものから守るものに変わったのだと感じた。
これからは母を大切にし、そして自分だけを頼りに、Tの為せなかったことまで全て私が代わりに為さなくてはならない、茨の人生になったぞ、大変な人生だぞ、でもやり遂げなくては!自分はそのように、ぼんやりながら息巻いていた。

このようなグチャグチャで奇妙な状態が続き、彼の死から1年ほどが過ぎた頃であっただろうか。
唐突に、先に紹介したTの発言エピソードを思い出した。Tと一体化していた私は、お母さんから聞かされる逸話ではなく、本人の言葉を久しぶりに思い出した。
「いや、君は、君自身がやりたいことを続けるべきだよ。誰かが賞を取った、なんて他人の話に影響される必要はない」
という予想外の反応のことだ。
あっ、これか、と私は直感した。あれだけたくさん何でも話してたのに、登校拒否のことは一切ぼくに語らなかったのは、聴かせる必要がなかったからに相違ない。これは覚醒したと感じた。私は私でなくてはならない、今一度、私に戻らなくてはならない。それが私がTから引き継ぐ意志に間違いない。自分に戻れた後に、さらに元々付いていた余計なモノまで、何もかもそぎ落とさなくてはならないことまで、今の自分には判る。まさに覚醒だ。やらなくてはいけないことが、分かった。自分自身になる、他人は関係ない、誰に何を言われようが、やりたいことをやりきる、これだ。
その結果、音大への進学は母親のために取りやめた。その後現在に至るまで、私はこのとき目が覚めた感覚だけを頼りに、生き続けてきたと言ってよい。それで失敗もした。現時点の自分と社会との関係ついては、冒頭に書いた通りの有様である。だけどもまだまだ自分はこれから成長できると思っている。後悔はない。人生常に新しい発見の連続だからだ。

月日は流れ、後に開催されたTの20回忌では、Tのお母さんと妹の元気な姿を見れた。挨拶をしたが
「元気にやってる?」
それだけであった。

自分とTとは今でもたまに語り合っている。彼は何故か家族のお墓ではなくて独立墓に入っているから、いつでもサシで会える。不定期で墓に出向いては、酒を交わし、近況を報告したり、相談に乗ってもらっていたりする。ぼくの口癖はこうだ
「これで、間違っていないよね?」

この不思議な感覚を上手く表現できないのだが、ぼくは、Tの死後も、彼と一緒に成長し続けている。ぼくと彼は永遠に同い年だ。16歳で止まっているのは、想像上のうわべだけ。そして「2人分の人生」という気持ちは、今もどこかに少し残っている。何か自分自身が他人のように思えることが多いのはそのせいかもしれない。
これが私と私のたった1人の(元)人間の親友のお話でした。
ちょっと彼のお墓の様子を見にいってくる。