人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

万葉集より02

2006年03月21日 | 日本史の雑談
日本考古学協会の第1回公開講座というのに行ってきた。冒頭挨拶によると、協会の意図するところは「閉鎖的な研究者の団体というイメージからの脱却および啓蒙活動」なのだそうだ。協会側の思惑にはそれほど興味はないが、この1年は古代史がマイブームであるからして、興味本位で出かけてきた。先週の産経新聞に紹介されていたのがキッカケである。

人骨号を走らせ会場の昭和女子大へ到着。受講は無料で自由参加。開講30分前に入ったら結構空いていたので一番前から数列目という良い席に陣取る。ホールは700名入るそうだが、開講時にはほぼ満員になっていた。ロビーでは歴史系書物が販売されていた。出版社ごとにブースがあり、山川みたいな有名どころもいれば、有斐閣とか学生社とかいう大学教科書ばっか売ってそうなところも。どこも今回のテーマに合わせてか古墳時代関係の書籍が多い。かくいう自分も一冊買ってきてしまった。

今回のテーマとなるのは地元の古墳。野毛大塚古墳という5世紀の帆立貝型古墳を中心に、多摩川流域における古墳の発生状況やら、埴輪の形による毛野との交流や、副葬品の甲冑からみた中央との交流やら、マニアックなテーマについてひたすら語る語る。記念講演をされた大塚初重氏というのは結構有名人らしい。そうそう、大学の教授ってみんなこんな感じだった。きょうはなんだか久々に大学の授業に戻ってきたような感覚だ。当時と違うのは、法律の授業には一切興味が無かったけど、歴史の授業なら興味マンマンで聞いていられるということかな。ただし今日の受講者は、ざっとみたところ平均年齢65歳、9割が男性。おおよそNHKのラジオ深夜便のリスナーと被る感じだ。この話をブログに載せる人間なんてほとんど居ないだろう…。

途中の休憩時に喫煙コーナーで事務方の会話を盗み聞きできた。曰く、いやー何人来てくれるかヒヤヒヤしたがヨカッタヨカッタとか、会場は成城大学とか区民館とか色々迷ってここにした経緯についてとか、次回以降は地方でやるにしても、必ず今回のように地元ネタを入れれば来客は見込めるであろう、みたいな。普段自分がやってる仕事に重なる部分があって、心からお疲れ様でしたと言ってあげたい…。

講演テーマの中でチョロっと取り上げられたのが、多摩川の流路について。今は随分まっすぐと流れている多摩川は、当時は相当蛇行していた。なので当時この古墳を作った人たちの集落というのは実は対岸の川崎市側であったりするかもしれないそうだ。実際に地図を見ていただければお分かりだと思うが、多摩川流域では、川崎市側と東京都川で同一の地名が頻繁に現れる。等々力だの、布田だの、押立だの。多摩川に突き出していた形になるであろう当時の集落の様子に思いを馳せながら、地元では有名な万葉の有名なあの歌を思い出す。

3373
多摩川に さらす手作り さらさらに 何ぞこの子の ここだ愛しき

間違いなく古墳時代からこの近辺にはヒトが住んでいたんだよな、だからこういう歌があるのでしょう~。多摩川のドコかっていうと、やっぱりこういう古墳がある近辺に生活の営みがあったんじゃないの?いま狛江市がこの歌碑をたかだかと掲げているらしいけど、案外世田谷だったり大田区だったり今の川崎市側かもしれないよね。
この歌を思い浮かべる時、多摩川沿いに立って目の前の風景に当てはめるだけではいけない。もっと細くて蛇行しまくってた多摩川を想像しなければ…想像つかないなあ。

万葉集より01

2006年03月15日 | 日本史の雑談
今「万葉集」を読んでます。
万葉集。高校か中学の古典でやりましたよね。約4500首、ますらをぶり、柿本人麻呂、山上憶良、額田王、防人。全部で20巻。等々。
全20巻はマンガみたいにちゃんとそれぞれどこからどこまでテーマごとに第何巻でっていうまとめ方なんです。ぼくが読んでるのはそのうち第14巻です。万葉仮名とよばれる漢字の当て字である原文を読んでももちろん理解不能だから、注釈つきで読んでいます。
この14巻ってのはいわゆる「東歌」ばかりを集めたもの。ぼくのルーツはどうやら斑鳩の里にあるらしいんだけど、数代前からすっかり関東人なわけで、なんとなく心の故郷は広大な関東平野にありってカンジ、そこでこの東歌なんですネ。
もともとぼくは書籍はもっぱら電車の中で読みます。訳もついてるけど、やっぱり詠んで味わってみたい。とはいえ古語で書いてあるし、しかも上代語だからまったく意味が分からない時がある。英語並みに分からない。よって古典の辞書が要る。もちろんぼくは中高時代にそんなもん使った記憶が無いから実家を探しても出てこないだろう。だから買いました、好き好んで古語辞典をさ!
古本でしたが、学習参考書の類は安いもんですね、ブックオフで300えん。なるたけ手垢の着いていない、つまり勉強してなさそうな本を選びだし、とりわけまったく勉強してなかったコの新品同様の辞書を見つけ出して購入。1986年の版だ。前の持ち主は、少なくとも当時小学校4年生だったぼくよりは年上だろう。古典を勉強しなかった彼か彼女かは、今ごろどこで何をなさっていることか…。

それはさておき、別に研究家でも何でもないぼくが東歌を読んでみて、これはと思うものを取り上げてここでちらっと紹介してみようかと思ったわけです。
東国ってのは、この万葉集が編まれた時代には今と違ってクソ田舎でした。都は奈良にあったわけですから。第一巻の巻頭を飾るのが有名な「こもよ みこもち ふくしもち」という雄略天皇の歌。雄略天皇っていったら倭の五王でしょ?ホントにその時代の歌が入ってるのかどうかは別として、万葉集中、「現在」である平城京時代より遡ること数百年のレンジは、やっぱりあったのではないでしょうか。つまり古くは古墳時代の民衆の歌まで書かれているのに違いない、そう思い込んでます。そんな東国の歌は…超あっけらかんとした、大らかな愛の歌がほとんど。
雄略天皇ってのはまさに古墳時代のお方ですが、奈良時代にはヒーロー扱いだったのかな。日本書紀を読んだ限りだと結構乱暴モノとして書かれてた気がしますが…。ちなみになんとな~くの想像ですが、日本一大きいことで有名な百舌古墳群の大仙古墳(仁徳天皇陵)って、ほんとは雄略天皇のお墓なのではないかって気がしてます。

では本題。今日取り上げますのは第3361番。


◆足柄の をてもこのもに さす罠の かなるましづみ 子ろ我れ紐解く


どんな意味なのでしょうか。足柄ってのはまさに地名の足柄山の金太郎のことですね。

「足柄山の、どこもかしこにも張り巡らせてある罠(狩猟用)が鳴り騒ぐのが止んだところで…さあエッチしようネ♪」

こういうことになります。ビビらないでください、東歌ってずばりセックスのことを書いた歌ばっかですから。
注釈本ですとこんなことが書いてありました。「しづみ」までは全部枕詞であって、「彼女のウルサイ家族連中(まるで狩の時のワナのような五月蝿さだ!)が寝静まったところで…」みたいに訳す意見もあるけど、枕詞としてではなく日常的な狩猟での大猟を祝う席かなんかで、リアルな狩の風景をこめる意味で、アオカンする時はあたりが静まり返ってないと…って歌ったんじゃないの?みたいな。

ぼくは中庸が良いです。狩猟って日常だったのかな。そうでしょう栽培穀物以外は多分全部ハンティングしてたんでしょうね。だから日常的だったのでしょう。そういう日常とは離れたところで!色んなしがらみがある普段の生活が、一瞬止まるようなときに!
コッソリ愛し合う男女というのは、何やらワケありのような想像をしてしまうのはぼくだけでしょうか??
モダンかつSPA!的に訳すなら。
「電話も鳴り止んだし、課長も今日は帰ったから、…ここでやっちゃう?」
いい歌ですねえ~すごい歌ですねー、多分そんな意味だとぼくは思います。
なお「子ろ」ってのは、「彼女」みたいな意味。「ろ」が親しみをこめた表現ラスイ。今でも「犬コロ」っていうのはこれでしょうか?「紐解く」ってのは、現在では「踏み込んで調べる」みたいな意味だと思いますが、上代では文字通り着物の紐を外す、要するにセックスの隠語みたいです。いや、正確にはやっぱり「これからエッチするところ」でしょうか。こう、エクスタシーへのカウントダウンという感じで中々なまめかしい表現ですよね。
どうでも良いけど、今も昔もする時は裸だったんですなあ。

次いってみようか。(次回未定)

2006年03月03日 | ただの雑談
ちょっと前に書いた簿記3級の件。あの時は見事に落ちた。
これは言い訳だが、ぼくがあらゆる手を尽くして得たデータによると、この回は合格率が通常の半分以下という、数年に1度出現する「ハズレ回」であったらしい。ムカツク。

で、日曜にまた受けてきた。合格に違いない。もうそう宣言しておく。ハズレ回の次は2回続けてハズレは来ない。よって受ける前から合格が約束されていたようなものだ。とにかくぼくは忘れずに試験を受けてきたから、もう簿記3級に合格したのだ。これでぼくも資格ホルダーだ。これからは履歴書に堂々とかける、日商簿記3級。

日商簿記3級。
何しろ高校生だって取っちゃう資格だ。会場を見渡したが、ほとんどが学生風だ。たまにおじさんが混じっていたりするが、何か深い理由があるんだろう。ぼくなんかそこに居るだけですでに大御所の貫禄。何しろ2回も受けにきたんだから、もう立派なヌシだ。
続いて懲りずに2級を取りに行こうと思う。そのほか「漢字検定」とか「宅建」とか、世の中には色んな資格があるらしいが、今なら何でも取れる気がする。
なんというか、こう「ひとつ困難を克服したぞ」、という、単なる自己満足。自分のためとか将来のためではなくって、単なる「ぼくってすごいぜ…」という達成感だけのための資格取得。

「…あの太陽を…。ついに!ついに克服したぞ!」

美しいのは努力ではない、結果だけだ。参加することに意義なんてない。カンニングしようがなんだろうが、受かればよかろうー!なのだぁぁ!


…なんていう勢いが続いてくれて、勢いで税理士とかスゴーイ資格取っちゃったりしないかなあ、将来のぼく、なんてボッけェェーーーッと夢想しています。
まだ日商簿記3級すら受かったかどうか全ッ然分からないくせにさ。


とにかく資格というのはキライだ。なぜなら、資格ってのは全部正義だからだ。あらゆる資格が、「取得のため勉強すること」から「実際合格すること」、「その資格を持っている人間」まで、全て正義のプロセスだらけ。悪の資格なんてありゃしない。そこが好きじゃない。もう「資格を目指してる」ってだけで、何でも許されちゃうような世の風潮。そして資格を取った瞬間に誉められる。偉いねえ、立派だねえ、頭が良いねえと。

同じくらい努力して、時間をかけて、難関を通らないと手に入れられないもの。かつ、他人にはさげすまれるもの、バカ呼ばわりされるもの、世の中でそしりを受けるモノ、かつそれほど生きていくうえでマイナスになる程度には困らないモノが無いだろうか。ぼくはそれを自分の誇るべき資格にしたいと思った。

それが、たまたま捕まった単なるスピード違反を、大いにこじらせて被告人として裁判に臨むことだ。
昨年のことです。
はっきり言って大変ですよ!だって警察怖いしさあ、検察も怖いしさあ、さすが日頃ヤクザと戦ってるだけあるなあって思うもん。だからみんな途中で諦めて「略式命令」に応じて罰金払って終わっちゃうのさ。まずここで絶対略式には応じないこと。裁判にすんぞオラ!って脅されても屈せずに、法廷で会いましょう!と言い返す気概が必要。だからぼくはそうした。
その行動の原動力となったのが、低脳な警察の無駄な取り締まりへの怒りだ。ヤツラは正義でやってるわけだから絶対逆らえないけど、とにかくぼくのために、最後の最後まで手間と面倒をかけさせてやろうと思ったのだ。別に悪いことじゃあない。だってぼくがスピード違反で捕まったのは不当だって信じてるんですから。キップにサインも当然していない。その場で見苦しい口論を展開し、フテくされて帰ってきた。

さて、検察と会ったあとで、いつ起訴されるのかなあ、裁判所ってドコにあるのかなあとドキドキして待っていたのに、それっきり連絡が無くなってしまったのだ。いわゆる不起訴だか起訴猶予になってしまったのだろうか。すると罰金刑が消滅するので(つまり罰金10万とかのところを、1円も払う必要がなくなってしまう)、嬉しいことは嬉しいが、物足りないのが正直なところである。
これじゃあぼくの中で「1級合格」はダメだ。せいぜい「2級」程度にしかならないよ。
さてもう1個、刑事処分とは別個で行政処分ってのがあって(ぼくの場合30日の免許停止)、こちらは放置したまんまだ。なんかハガキで呼び出しがしつっこく来てたが、一度も開かずに速攻捨ててる。開いてないから中身を見ていないので多分呼び出しなんだろう。
でももしかしたら「ごめんなさい」って書いてあるのかもしれない。だからそろそろ放置しっぱなしも悪いので、相手にしてあげようかなと思っている。こちらにも徹底抗戦して最後の一兵まで戦い抜いて迷惑かけないと気がすまない。いずれにせよ行政処分にもこないだのヒューザーみたく必ず「異議申し立て」ができるはずだから、しっかり申し立てることが大切。
長い戦いであります。この間に資格だったら幾つ取れるだろう。

これを見た人は大抵はぼくがやってることは下らないと思うでしょう。ぼくにとって資格試験というのは、同じくらい下らないんです。世の中の役になんて立ちたくないし、安っぽく自分を高めたいとも思わない。生きることの意味は、もっともっと深遠なところにあるんです。連綿と繋がる生命の連鎖の結果としてポンとここに居る自分の人生、重いといえば重いし軽いといえば軽い。だがぼくに言わせれば軽い。限りなく軽い。だからぼくがどう生きようと、ぼくの生命の価値は何ら変わらない。仮に何か意味や価値があるんだとするなら、モノとして存在してることだけが価値なのだとぼくは思っている。だからマジメに生きられない。

「一所懸命であることは馬鹿である」と言われたらどう思いますか?自らを高め社会で有利となるため資格取得を目指して一所懸命な人。偶然のスピード違反を不利な方へ不利な方へこじらせ何とか被告人席に立とうと一生懸命な人。


と、ここまで言っておいて、ぼくはほかにも資格試験でも受けてみようかと思っている。要するに何が言いたかったかというと、ぼくがキライといった「資格」にトライするのは、正義でも何でもなく単なる気まぐれであって、何らの向上心等がぼくをしてそうせしめるものではない、という壮大な言い訳なのです、ハァハァ…。