日本考古学協会の第1回公開講座というのに行ってきた。冒頭挨拶によると、協会の意図するところは「閉鎖的な研究者の団体というイメージからの脱却および啓蒙活動」なのだそうだ。協会側の思惑にはそれほど興味はないが、この1年は古代史がマイブームであるからして、興味本位で出かけてきた。先週の産経新聞に紹介されていたのがキッカケである。
人骨号を走らせ会場の昭和女子大へ到着。受講は無料で自由参加。開講30分前に入ったら結構空いていたので一番前から数列目という良い席に陣取る。ホールは700名入るそうだが、開講時にはほぼ満員になっていた。ロビーでは歴史系書物が販売されていた。出版社ごとにブースがあり、山川みたいな有名どころもいれば、有斐閣とか学生社とかいう大学教科書ばっか売ってそうなところも。どこも今回のテーマに合わせてか古墳時代関係の書籍が多い。かくいう自分も一冊買ってきてしまった。
今回のテーマとなるのは地元の古墳。野毛大塚古墳という5世紀の帆立貝型古墳を中心に、多摩川流域における古墳の発生状況やら、埴輪の形による毛野との交流や、副葬品の甲冑からみた中央との交流やら、マニアックなテーマについてひたすら語る語る。記念講演をされた大塚初重氏というのは結構有名人らしい。そうそう、大学の教授ってみんなこんな感じだった。きょうはなんだか久々に大学の授業に戻ってきたような感覚だ。当時と違うのは、法律の授業には一切興味が無かったけど、歴史の授業なら興味マンマンで聞いていられるということかな。ただし今日の受講者は、ざっとみたところ平均年齢65歳、9割が男性。おおよそNHKのラジオ深夜便のリスナーと被る感じだ。この話をブログに載せる人間なんてほとんど居ないだろう…。
途中の休憩時に喫煙コーナーで事務方の会話を盗み聞きできた。曰く、いやー何人来てくれるかヒヤヒヤしたがヨカッタヨカッタとか、会場は成城大学とか区民館とか色々迷ってここにした経緯についてとか、次回以降は地方でやるにしても、必ず今回のように地元ネタを入れれば来客は見込めるであろう、みたいな。普段自分がやってる仕事に重なる部分があって、心からお疲れ様でしたと言ってあげたい…。
講演テーマの中でチョロっと取り上げられたのが、多摩川の流路について。今は随分まっすぐと流れている多摩川は、当時は相当蛇行していた。なので当時この古墳を作った人たちの集落というのは実は対岸の川崎市側であったりするかもしれないそうだ。実際に地図を見ていただければお分かりだと思うが、多摩川流域では、川崎市側と東京都川で同一の地名が頻繁に現れる。等々力だの、布田だの、押立だの。多摩川に突き出していた形になるであろう当時の集落の様子に思いを馳せながら、地元では有名な万葉の有名なあの歌を思い出す。
3373
多摩川に さらす手作り さらさらに 何ぞこの子の ここだ愛しき
間違いなく古墳時代からこの近辺にはヒトが住んでいたんだよな、だからこういう歌があるのでしょう~。多摩川のドコかっていうと、やっぱりこういう古墳がある近辺に生活の営みがあったんじゃないの?いま狛江市がこの歌碑をたかだかと掲げているらしいけど、案外世田谷だったり大田区だったり今の川崎市側かもしれないよね。
この歌を思い浮かべる時、多摩川沿いに立って目の前の風景に当てはめるだけではいけない。もっと細くて蛇行しまくってた多摩川を想像しなければ…想像つかないなあ。
人骨号を走らせ会場の昭和女子大へ到着。受講は無料で自由参加。開講30分前に入ったら結構空いていたので一番前から数列目という良い席に陣取る。ホールは700名入るそうだが、開講時にはほぼ満員になっていた。ロビーでは歴史系書物が販売されていた。出版社ごとにブースがあり、山川みたいな有名どころもいれば、有斐閣とか学生社とかいう大学教科書ばっか売ってそうなところも。どこも今回のテーマに合わせてか古墳時代関係の書籍が多い。かくいう自分も一冊買ってきてしまった。
今回のテーマとなるのは地元の古墳。野毛大塚古墳という5世紀の帆立貝型古墳を中心に、多摩川流域における古墳の発生状況やら、埴輪の形による毛野との交流や、副葬品の甲冑からみた中央との交流やら、マニアックなテーマについてひたすら語る語る。記念講演をされた大塚初重氏というのは結構有名人らしい。そうそう、大学の教授ってみんなこんな感じだった。きょうはなんだか久々に大学の授業に戻ってきたような感覚だ。当時と違うのは、法律の授業には一切興味が無かったけど、歴史の授業なら興味マンマンで聞いていられるということかな。ただし今日の受講者は、ざっとみたところ平均年齢65歳、9割が男性。おおよそNHKのラジオ深夜便のリスナーと被る感じだ。この話をブログに載せる人間なんてほとんど居ないだろう…。
途中の休憩時に喫煙コーナーで事務方の会話を盗み聞きできた。曰く、いやー何人来てくれるかヒヤヒヤしたがヨカッタヨカッタとか、会場は成城大学とか区民館とか色々迷ってここにした経緯についてとか、次回以降は地方でやるにしても、必ず今回のように地元ネタを入れれば来客は見込めるであろう、みたいな。普段自分がやってる仕事に重なる部分があって、心からお疲れ様でしたと言ってあげたい…。
講演テーマの中でチョロっと取り上げられたのが、多摩川の流路について。今は随分まっすぐと流れている多摩川は、当時は相当蛇行していた。なので当時この古墳を作った人たちの集落というのは実は対岸の川崎市側であったりするかもしれないそうだ。実際に地図を見ていただければお分かりだと思うが、多摩川流域では、川崎市側と東京都川で同一の地名が頻繁に現れる。等々力だの、布田だの、押立だの。多摩川に突き出していた形になるであろう当時の集落の様子に思いを馳せながら、地元では有名な万葉の有名なあの歌を思い出す。
3373
多摩川に さらす手作り さらさらに 何ぞこの子の ここだ愛しき
間違いなく古墳時代からこの近辺にはヒトが住んでいたんだよな、だからこういう歌があるのでしょう~。多摩川のドコかっていうと、やっぱりこういう古墳がある近辺に生活の営みがあったんじゃないの?いま狛江市がこの歌碑をたかだかと掲げているらしいけど、案外世田谷だったり大田区だったり今の川崎市側かもしれないよね。
この歌を思い浮かべる時、多摩川沿いに立って目の前の風景に当てはめるだけではいけない。もっと細くて蛇行しまくってた多摩川を想像しなければ…想像つかないなあ。