人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

がらくた

2007年07月31日 | 70年代ロック雑談
寂しげで美しいメロディラインを持つ、隠れた名曲。
残念ながら「ジャンク」っていうタイトルが想起させる印象が、何だか今ひとつなんですよね。
だってガラクタですもんね。
だけど「ジャンク」以外ありえない。
実は詞も良いんです。

※ ※

「JUNK」 by Paul McCartney

Motor Cars, Handle Bars
Bicycles for Two
Broken Hearted Jubilee
Parachutes, Army Boots
Sleeping Bags for Two
Sentimental Jamboree

Buy Buy
Says the Sign in the Shop Window
Why Why
Says the Junk in the Yard

Candlesticks, Building Bricks
Something Old and New
Memories for You and Me

Buy Buy
Says the Sign in the Shop Window
Why Why
Says the Junk in the Yard


※ ※


「がらくた」

くるま ハンドル 自転車 二人で揃えた物たちよ
一人で祝う10周年

パラシュート 軍靴 寝袋 こんなのも二人で集めた
今日はセンチメンタル部隊の打ち上げ 

「さよなら。私たちお別れしましょう」
「どうして。ぼくにはさよならの理由が分からない」

ろうそく台 おもちゃの積み木
何だか古くて新しい
君とぼくとの想い出よ

お買い得だよと、ショーウインドーのPOPが囁く。
なんで棄てたのかと、資材置場のガラクタが呻く。

法事ツーリング

2007年07月24日 | ただの雑談
祖母の一周忌が過ぎて、ようやく納骨になった。
フツー49日が済んだら納骨なのだろうが、「冷たい墓の下じゃババァが可哀想でよォ…」と祖父が遺骨を手放すことを渋ったのでこうなった。

その肝心の祖父は欠席なのだが、これはいつものことだ。
祖母は一昨年の晩秋に突然倒れ、人事不省に陥ったまま半年間を植物状態で過ごし、それから他界した。
この間、祖父が祖母を見舞ったのは、たった一度きりだった。それも親戚に連れられて嫌々と。
その後の葬儀やら通夜やら荼毘やらといったイベントには、一切顔を出していない。
そこまで夫婦仲が険悪だったわけではない。むしろ逆だ。現実を直視できなかったのだ。
今回は加えて自身の体調のこともあって長旅に耐え得ず、いつも通り、代わって親戚一同で執り行うこと運びとなったのだ。

納骨にあたっては祖父母の故郷にある寺院を訪ねることになった。場所は奥武蔵の某所である。
ぼくにとっては母方のルーツの地ということになるのだが、今ひとつこちら母方のルーツへは関心が薄かった。というのも、祖父も祖母も、やたらと多い兄弟の中の何番目かであって、親戚が多数居るのは間違いないのだが、未だに彼らがしっかりと祖霊を祀っていると聞いているからだ。よって、ぼくにとって父方の「仏壇を背負う」べき立場と比べると、ルーツ的にはちょっと疎外感がある。また自分の性癖等を考えるに、「父方の血を強く受けている」という思いが強いこともある。
かくしてぼくがこの地を訪れたのは今までの人生で一度きりだ。しかも幼少の時であったので全然覚えていない。
だが今回改めてこの地を「ほぼ人生初」で直接訪れることになるので、否応なく興味は高まっていった。どんな理由であれ、間違いなくぼくの祖先たちが過ごした場所だ。血の半分はここにあるのだ。屁理屈並べず祖霊参りを兼ねて出かけることにした。

朝起きると霧のような雨模様だった。しかしこれから晴れるのは実況アメダスからしても明らかであったので、カッパを着込んで当初の予定通りVTR人骨号に跨ってでかけた。場所も場所なので、ツーリングと銘打つのにも非常に良さそうであった。実際にスグに雨も止み、鼻歌ならぬ絶叫交じりのゴキゲンライディングだ。高速を降りた頃には声が枯れていた(完全に)。

しかしぼくとしたことが単純ミスをやらかしてしまった。ルート選定および所要時間ともに読み誤り、途中で時間が全く足りなくなってしまったのだ。のん気に走る予定だった秩父路を、焦りながらガンガン走らざるを得なかった。こんな山の中で時間に追われるのも初めての体験だし、ワインディングを違う意味で飛ばすのも奇妙な気分であった。
ぼくは短気だし、雨が降ってきて怒ったり時間に間に合わなくて焦ったりすると我を忘れる性格である。普段努めている「かもしれない」運転が「だろう」運転に化ける。渋滞路のスリ抜けも、焦ってる時はとんでもない迷惑二輪だ。この時は山のブラインドコーナーも「だろう」運転で根性のみで突っ込んでいた。いつもみたいに「タイヤ」とか「ブレーキ」とかは頭に無い。とにかく急ぐのみ。
不思議と祖母の声が聞こえた。やけにリアルに、生前の口調のまんまであたまに浮かんだ。
「そーんな、おばあちゃんのお葬式なんか別に見たってどうってことないしいっくら遅刻したって良いんだからさ、それよりあんた転んでケガしちゃっちゃ大変なんだから、もうゆっくり来りゃ良いんだから。」
定刻を過ぎてしまってからは、素直に諦めてのん気に走った。ピンポイントで寺院の場所が分からないので、素直に近所の商店のおばちゃんに聞いてみた。場所を教えてもらいがてら事情を説明すると「あら、うちも○○(祖母旧姓)なのよ、きっと遠い親戚ね」という話だった。偶然といえば偶然だけど、近辺は確かに特定の苗字が多い。
祖母の家柄は実は士族の名家である。しかし「叛乱者」を輩出していてる家系でもある…。
ちなみに今回出かけるのは祖母ではなく、祖父の方のお寺である。祖母は祖父の家へ嫁入りしたわけで、こちらの人間として葬られるのだ。

30分遅れで着いた時にはもう納骨が済んでいた。「おばあちゃんゴメン!」と仏前で挨拶だけ済まし、着替える間もなく精進落としの会場へ向かう。真新しい立派な墓石が据えられていた。祖父が祖母のため、またゆくゆくは自分のためにと、今回こさえたものだ。だけど本人は一度も現物を見ていていない。
ぼくにとっては全く見覚えのない周囲の景色を眺める。山あいのムラという趣である。ぼくのご先祖が確実に毎日見ていたであろう景色だ。何だか感慨深い。
宴席が始まる。おなじみの和尚始め、親戚として母親とその姉妹、および今回欠席している祖父の兄の子(祖父の甥であり、母の従兄弟)たちが同席していた。こちらから聞いたわけでもないのに、ご先祖さまたちに関する興味深い話を色々と聞くことができた。そのうちに今来ていない祖父本人についての話になった。

「君のお爺さんはね、お固い真面目人間の多い兄弟の中でも異端児で、何でも白黒ハッキリ言うクチの悪いひとで、喧嘩早いし怒ると怖いしと、とにかく兄弟と違って変わった人だったんだよ。久しぶりに会えると思ったのに残念だなあ」

確かに祖父は変わり者だ。ぼくら孫の代も揃って「お爺ちゃん怖いよな」とか話してたっけ。ぼくは怖いなんて思ったことはなかったが、どうしてなんだろう。
その後話題は、この祖父の血を一番受けてるのは誰だろうという話になった。ぼくは従兄弟の一人を指差したが、みんなはぼくを指差していた。ちょっと待った、やめてくれよ。
でもそう言われると、なんか祖父の気持ちを考えてしまう。今頃一人でメソメソしてるんだろうな。将来の自分の姿を思わず想像する。なんか可哀想だ。一方でここに集まる多くの親族の普段の暮らしとか、それから数代も前の祖霊の墓、会ったこともない面々のことを想像で頭に浮かべる。
自分に近い血縁の人たちも、ぼくの知らないところで何だかわからない人生を送っている。別にぼくがどんな人間であっても、そいつは大したことじゃない気がしてきた。

帰りがけに、祖父の生まれた集落と近辺をバイクでぐるりと走ってきた。こんな狭い町で暮らしていたのか…。それから、祖母の実家の場所を求めて、一人で彷徨ってきた(母やおばに聞いても分からないというのだ。方向音痴のせい)。バイクで5分ほどの場所に、なんとなく記憶に残っているような場所があったので、これをカメラに収める。それらしき墓所もあったので、誰の墓か分からないけど手を合わせてきた。




自然な付け心地とスムーズなインサート感

2007年07月23日 | メンテナンス実演(VTR250)

インドア最高


土日の天気は、結局おおよそは持った。ゴネた甲斐があったというものだが、泣きじゃくってワガママを通した後のような一抹の空しさが残っている。いずれにせよ「梅雨明けまでは原則毎日雨」くらいに考えておかないと週末が来るたびにキレてしまいそうだ。

ということで土曜日。先週から手をつけている修理の続きを行った(AZワゴンの塗装はほったらかしだがそんなもんはいつでも構わない)。天気は良かったけど、幸か不幸か妻が居なかったので、前日に下した「室内作業断行」という決定を遂行することにした。
以前サンバーに車両を積み込むときに使ったアルミブリッジを用いて庭から居間へ車両を導入する。

庭でやるととにかく近所のチビが妨害してくるが、室内にはこいつらが絶対に来ない。唯一、わがチビが、室内にオートバイが入ってくるという珍しいシチュエーションに興奮して「アー、オットバイ!ブゥーンブンブン、キタネェー?」等わめきながら足元に絡み付いてくる。今のところコイツは聞き分けが良いので「オートバイね、バッチイから触っちゃダぁーメ」と教え、コンクリートミキサー車のミニカーを与えて誤魔化す。「オァーッ、コーンクンットミキサーシャダー、ズゴイネ!」その調子であっちで遊んでてね。
人目を気にせずバイクいじりに没頭できるというのは非常に素晴らしいことだ。外はクソ暑いところ室内はエアコンも効いてるし、良いことづくめであった。音楽聴きながらのん気に作業する。

トップブリッジを交換する理由は、数年前の転倒が原因だと思うが、フォークがまっすぐ刺さらないためだ。
修正専門ショップに見せたところ「フォークとトップブリッジは曲がってない」と言われた。ステアリングステム(三つ股)はそのまま修正してもらったが、それでもフォークがスルリとスムーズに入らない。結局その後ステムを新品に交換した。それでも変化なし。
ただし入らないのは(右か左か忘れたけど)片方だけであった。フォーク2本を交互に挿してみたが、入らないのはどのフォークを用いてもいつも同じ方だった。よってインナーチューブが曲がっていないことは間違い無さそうだし、ステムは新品交換済み。つまりあとは「トップブリッジだけ曲がっている」状態しかないと推定されたのだ。

しかしどこで聞いても
「トップブリッジ?そこはまず曲がりませんよ!」
と言われてきた。修正してくれたショップも「トップブリッジは曲がらないし、仮に曲がっても直せない」と無視状態だった。なので今回はカケというかテストである。

室内で分解にかかり、まずは現状のままで今一度フォークを抜き指ししてみる。
上述の通り「片方だけ」スルリと入らない状態のはずだったが、今回は左右ともスムーズに入らなくなっていた。
なぜ転倒してないのに悪化したのか?!
一瞬焦ったが、冷静に考えたら昨年の出来事を思い出した。要約するとブラケットのネジを閉め忘れたままフォークをストロークさせてしまい、フォークが突き出したまま気付かず走行していたというハプニングだ。詳しくはよく覚えていないが、アンダーを締め忘れ、トップだけ締めた状態で走行していた可能性がある。それでトップブリッジがたわんだのだろう。
トップブリッジは確かに曲がりにくいと思う。しかし上から覗いてC文字型となっているクランプの部分は、意外にあっけなく曲がりそうに見えないか?ぼくは曲がると思う。また、昨今の同クラスのバイクと比べても、VTRのトップブリッジの造りはやや華奢に見える。バリオスやホーネットなんかは厚さからして倍くらいあった気がする(確か)。曲がり易ければ逆に修正もカンタンだろうが、とりあえず1万円ぽっきりで手に入るなら新品部品に換えてから考えてみたかった。

新しいステムへのキーシリンダー取り付けに際しては先に挙げたワンウェイボルトという名の特殊ボルトは棄て、別の特殊ボルトを用いた。これは専用ソケットがあれば着脱自在なので、ソケットとセットでそろえた。
さて新品のステムを慎重にセットしフォークを挿す。
緊張の瞬間である。どうだッ?

結果は成功。今まで経験したことがないくらいスムーズに左右のフォークがするりとおさまった。おかげさまで上手くいったよ、ありがとう。

またクランプのボルトも併せて新品に交換したのだが、このボルトも今まではスルスルと回らず、グリッ、グリッとクリック感のある回り方であったのだが、今回はスルスルと締め込むことができた。

よってここに宣言しよう。VTR250のトップブリッジは意外に曲がる。ハンドルが曲がるくらいコケたら疑った方が良いかも分からない。

しかしこれでもフォークが曲がっていなかったのは不思議でアル。φ41mmのインナーチューブはこのクラスでは標準より太い方であるからして、それだけ頑丈なのだろうか。それに対してステム側はショボ目のがおごられているということなのだろうか。あるいはあえて曲がりやすい部品を用いてショックを吸収し、フレームへのダメージを抑えるような仕様なのだろうか。詳しくは分からないので追求しない。

さてこの曲がっていたトップブリッジなのであるが、C型のクランプがちょっぴりズレて曲がっている程度なのか、全体が歪んでるのかは分からない。写真で新品と曲がったモノを並べてみたので、気になる御仁がいらっしゃったらこの写真から何かを感じ取ってもらいたい。場合によっては怨霊クラスの霊体が写っているかもしれないので、霊障に気を付けて。というのも、作業中の怨霊のせいと思われる出来事があったからだ。


曲がった方


新品


上機嫌でコーヒー飲んで組み付けの作業していたところ、突然

「ギィィニャぁーッ!!」

という叫び声が轟いた。目を離した隙にチビが階段から転落したのだ(目を離しっぱなしだったとも言う)!幸い転落段数は少なかったようでコブを作った程度で済んだが、ヤツは怨霊を見た恐怖のあまりか、暫く「オギャァ、オギャァ」泣きつづけた。よく見ると手にパトカーのオモチャを握っていた。おそらくこのパトカーで階段で遊んでいたのだろう。つまり原因は怨霊でなく警察であったのだ。「そんな不吉なもので遊ぶから怪我するんだよ!」と指導し、なんとか機嫌をとった。つくづく警察というのは迷惑な存在だ。

話は戻るが、仮にトップブリッジがこの程度歪んでいても実用に何の支障もない。治した理由は、単に気持ちの問題である。このまま使いつづけてると余計なところまで曲がっちまうんじゃないか?という、目にゴミが入った程度の心配だ。しかし曲がってから1万5千キロも走って何も起きなかったので、経験上はぜんぜん問題はないと言いたい。

全て組み戻している最中。スピードメーターケーブルをシャフト側でネジ止めしていたら「パチン」と鳴って、ケーブルの先端の樹脂製部品が割れてしまった。ケーブルごと交換するしかないみたいだ。壊してはいじり、いじっては壊しの繰り返しだよ。

sッソ大オオp『@、『pファも「pmffffffffffff

2007年07月19日 | ただの雑談
「何?!何があったの?!大丈夫?!」

妻が風呂から飛び出してきた。

なんということではない。
ただ単に、あれだけ大丈夫と言われていた週末の天気予報が一転して雨になったと半井さんが言うので、反射的にありったけの音声で、チョッピリ絶叫しただけである。

詳細を書いてまた怒りを思い出すとPCを壊しそうなので割愛するが、とにかく週末の修理の予定と法事ツーリングの予定が吹っ飛んだ。
法事はともかくだけど、天気予報を見てからしっかり2週間にまたがる作業工程を組み、現在中途半端にバラしてあるバイクをどうしろというのだ。
雨では庭で修理が出来ないし、うちには屋根つきガレージなんてない。

今日とか明日なら、土砂降りだろうが台風だろうが地震だろうが何が起きても文句は言うまい。どうせ仕事だからだ。
なのに何故、デリケートな土日に限っていちいち水を差そうとするのか、天気の考えることはサッパリ理解不能だ。嫌がらせの雨としか言いようがない。

だけど「ウンコ警察の交通取締」やら「天気」ごときにぼくの予定を完全に覆すような勝手な真似は絶対にさせない。必ず一矢報いてやる。天気にザマアミロと言ってやる。茶釜を抱いて爆死したという松永某がぼくに降りてきた(この人いつもぼくに降りてくる)。

屋根を使う。以前同じことをしようとしたら妻が猛然と反対したので引き下がったが、今回は絶対やる。


室内(居間)にバイクを入れて、修理



おっと、いきなり痛い日記再来になってしまったかナ…?まあこの程度でクヨクヨしないことだ。

特殊ボルト

2007年07月18日 | メンテナンス実演(VTR250)

こんなヤツ


転倒以来はや数年。微妙に歪みっぱなしのトップブリッジを交換することにした。
今までも何度か交換を考えていたが断念してきた。その理由は特殊ボルトの存在である。トップブリッジにはメインキーシリンダーが固定されているが、その取り付けボルトには、写真の特殊ボルトが使用されており、取り外しが面倒くさそうだったからだ。
パーツリストによればその名称は「ワンウェイボルト」といい、わがVTRでは03型から採用されている(1型2型は普通にトルクスらしい)。
名前からしていかにも外せなそうであり、鬱陶しい存在だ。

たしかにメインキーはイグニッションとハンドルロックを司る盗難防止の要である。
でもオーナーの自分が整備したい時でさえ外せないのでは、杓子定規すぎる気がしてならない。

さてこの特殊ボルトは一見普通のヘキサゴンぽいネジ頭をしている。写真ではナメたねじ山っぽく見えるだろうが、まさに「ナメたネジ状態」が仕様なのだ。
「ま何とかなるだろ」と軽く考え、外し方を調べたのだが、ググッても情報が乏しい。「ショップにて破壊を依頼」という情報もあったし、「防犯上の理由からホームページでは公開しません」みたいな高尚なサイトもあられた。はは~っ。
ボルトを破壊して抜き取るエキストラクターを購入することも考えてみたが、どうもかったるい。
ふとタイヤに続いてバイク屋に相談してみる気になった。
トップブリッジを持参した、お伺いを立てると。

「ボルト壊しても良ければ外せます」

ということであったので、ここは素直にお願いすることにした。
ところが実際には非破壊で取り外しに成功していただいた。時間にしてわずか3分程度。それを持ち帰ったのが冒頭の写真である。緩み防止のためネジ山に切れ込みが入っていることも分かる。

「ありがとうございます!でもどうやったら外れたんですか?」

外し方を教えてもらったが、ここにやり方を紹介するとロクなことが無さそうなので書くまい…。
(知りたい方はメールでも下さい)

とにかく二度とこのボルトは使うまい。以降は1型2型と同様のトルクスを使って締めておきたいと考えている。

ちょっとくらいヘン

2007年07月16日 | ただの雑談

なんだと


「みろ!ワムウ様の顔を!汗だくで土気色だ…まなざしも…どこを見ているのか…うつろだぞ…両腕もダラリとしたまま筋肉に力がないッ!」


我ながら最近痛い日記が多い。

「ぼくって痛いバカです。単なる幼稚なDQNです。いわゆる生きた恥です」

と叫んでいるに等しく、当然だけど何の自慢にもならない。

いま少し読み返してみたが、やはり酒が切れてからこの傾向が顕著のようである…
(え?「元から」だって?)。
日頃のストレスを酒でほどよく中和できればそれで良かったのだろうが、アルコール依存症と宣告されてしまっては是非も無しだ。
酒を断って5ヶ月か…。5ヶ月も飲まなかったのは高校生以来だ。
とにかく半年近くメソメソしたので、そろそろ殯も終わりにしたい。

はっきり言って悩み事の一つや二つ誰にだってある。ぼくはちっとも特殊な事情じゃない。
普通だよ、普通!
(「それはどうかな」だって?)

何度も言うけどプラス思考だけは我ながら自信を持って良いみたいだ。ぼくは悲観しない。この程度で八方塞なほど人生は困難ばかりではあるまい。
多分何とかなる~そう思う理由は、「今まで何とかならなかったことはなかった」という、根拠に欠ける経験則だ。

スポーツ選手は心のスイッチを切り替えるため、それぞれの儀式を行う。「深呼吸をする」「ユニフォームや道具をかえる」などである。ショックが強いほど特別な儀式が必要になるが……ワムウのスイッチはッ!

少し頭の中を切り替える。当面はもっと、こう建設的な顔付きをしていきたい。スクラップ&スクラップはヤケッパチな誰かがやってくれるし。

あまり自意識過剰にならないように。
クラスでも目立たない普通の子を目標に。
冒頭の写真くらいならヘンでも気にしないことだ。

…と今更ながら自分に言い聞かせる。
今日はもう面倒くさいから、とりあえずスイッチは明日以降で現在は未定の方向だ。

故郷のこころ

2007年07月14日 | ただの雑談
かつてのように、さりげない日常のことは、最近あまり考えなくなった。自分の中でそれより大きい問題が多いせいであろう。だけどそんな日々では腐る一方なので、たまにはさりげないことを考えてみた。

※ ※ 

ぼくは田舎が好きだ。だから田舎に住みたい。今は都下に居宅を構えているが、いずれはここを売払って静かに余生を送りたい。いずれというのはまだまだ先の話ではあるが、例えばぼくは就職活動当時も「Iターン」を本気で考えていた。長年の夢なのである。

東京が嫌いだ。首都圏が嫌いだ。何が嫌いかと言うと、人が多いのが嫌いだ。それから騒音が嫌いだ。
昔「信長の野望天翔記」というゲームで、武将に話し掛けると「わしは静かなのが好きでのう…」と迷惑そうに答えられることがあったが、まさに自分の心境そのままだと思った。今でも口癖のように「ぼくは静かなのが好きだから」と言っているが、出典はこのゲームであってジョジョではない。
そんなぼくを帝都の地縛霊たらしめるのは、1つはこの地に父母の縁があること(含む妻実家)、もう1つはこの地に職を得てしまったことによる。かと言って新幹線で通勤するような酔狂な真似もしたくないし、子供があると祖父母が至近に暮らしていることが便利な時も多いので、なまじ東京から出て行くような決意をすることもない。案外親の介護等が生じて「いずれ」の期が熟してさえも東京から離れられないというケースも考えられる。
こういったしがらみを除けば、流行やファッションやショッピングに何ら興味の無い人間としては、物欲が全てネットで満たされるような昨今において、東京に生活の本拠を構えるメリットはゼロと断言できる。

「そんなことはあるまい、おまえにはヲタクの聖地こと秋葉原があるだろう?!」

という声が聞こえそうであるが、それは誤解である。
ぼくが何事にもそこそこのめり込むマルチヲタクではあることは周知の事実なのだが、残念なことに秋葉原に通じる趣味だけは一つもないのだ。どうしてメイドやら萌えやらアニメとかに興味が無かったのだろう。ぼくに「東京に住んでて良かった」と思わせるたった一つの可能性も、ここに潰えた。

「だから、田舎に住みたいのだ」と言うのも、やや三段論法的であることは認めるざるを得まい。「ないものねだり」「隣の芝生」等々という言葉のとおり、田舎に住んでいるヒトには田舎なりの苦労も絶えないことだと思う。それにそもそも田舎といっても色々あるだろう。何をもって「田舎」とするのか。

しかし今日は楽しい妄想をしたいので、都合の良いこと以外考えないことにしよう。
自分がイメージしている「田舎」というのは、こんな感じだ。

1.人が居ない
とは言え過疎なら過疎なほど良いというのではなく、静かなのは自分の周りだけで必要十分だ。具体的に言えば、「自宅の周囲に全く隣家がない状況」がほしい。ブラックジャック先生のクリニックがイメージに近い。

2.平野か盆地がよい
山…田舎といえば谷あいに川と道路が走り、これに沿うような集落が多いが、展望が利かないし日暮れが早いのはイマイチだ。避暑地も冬は寒いだけだ。
海…風も強いし塩害は敵だから海もだめ。ちなみに水泳も釣りも趣味ではないし、唯一興味があることといえば漂着物探しくらいだ。ブラックジャック先生のクリニックはこの点がダメだな。

3.買い物に困らない
むしろ過疎では困る。ドゥカティもといドデカイ平屋建てスーパーのような複合商業施設が近辺にあるのが便利で良い。ああいうスーパーってワクワクするよね。
ジャスコみたいなビル型よりはやっぱり「平屋」が良い。平屋が好きなのにも理由があって、すなわちエスカレーターみたいな「1箇所に人が集中する場所」を通るのが嫌いだからだ。

4.積雪地帯ではない
冬バイクに乗れないのでは困る。

以前から具体的地域として考えていたのが栃木や茨城といった北関東の小都市の近郊である。

今は団塊世代向けに田舎暮らしをプロデュースする商売が人気のようだ。移民の歌が売り出し中というところか。かつて政府主導の移民政策は色々失敗したって聞くけど、民間による移民ビジネスがどうなるのか注視していたい。「団塊村」のような存在が一般的に周知されるようになって、やがて淘汰され洗練された頃に、累々たる屍を乗り越え、鼻歌交じりにぼくは満を持して乗り込みたいと思う。団塊世代の皆さん、身を呈してぼくのために先例を築いてきてください。東京発田舎行きの暮らしのノウハウを社会と経済に蓄積してから、人生をまっとうしてください。

※ ※ 

さてそこにはどんな暮らしがあるべきか。ある一日を妄想してみた。

馬と羊を飼うつもりはないけど、夜はぐっすり眠る。朝は6時40分丁度にNHK第一放送で目が覚める(6時30分~40分はラジオ体操が鬱陶しいのでパス)。窓を開ける。とりあえずこの日は晴れ。ナニが素晴らしいかって、窓の外に誰も居ない。よって人の目を気にせず窓を開け放てる。近所のガキがいないから極めて静かだ。鳥の声(カラスも可)と、うちからやや離れた県道を通る車の音くらいはしても良い。朝の湿った空気は緑の匂いでいっぱいだ。その全てが自分のもの。こんな嬉しいことってないだろう。

朝飯は誰も用意してくれなくて良い、何より貧乏食パンをかじるのだけが幸せだから。
庭弄りの趣味は全く無いので、自宅の周囲は全てコンクリで塗り固めてある。どうせ敷地の外が緑だらけだからそれで十分。雑草も生えないし蚊も来ないし雨が降っても足許がぬかるまないから一石三鳥だ。
日課は散歩でなく朝から軽くバイクだ。何しろクルマが少ない。おまけに信号もほとんどない。よってイライラの要素が皆無だ。現在のぼくは自称スリ抜けの鬼であるが、そんな特技はとっくに忘れてしまった。コヤシの臭いがプンプンするような田舎道を15分くらい走ったところに丘があって、そこから自宅を含む周囲の景色を眺める。空気が澄んでると向こうの山脈までよく見えたりする。
そのまま遠出するもヨシ。家に戻るもヨシ。本を読んだり、拾ってきたバイクをレストアしたり、チャリンコで遠出したり、スーパーに買いもにいったり、オーブンでパンを焼いたり…。

1日普通に過ごすと家族以外に誰にも会わない。何をやってもぼくを邪魔する「他人」は居ない。人恋しいくらい、人がいない。おかげで「他人が嫌いだ」と思う必要すらない。たまには誰かに邪魔されたいと思えるほど、邪魔が無い。

なんて幸せなんだろう!

いつかはかなえたい夢だな…。

(今はほとんどが逆の環境である。気が狂いそうだ)

no no no title

2007年07月11日 | ただの雑談
先日中高時代の話を思い出して記事にした。
(何故か「コメント書き込み禁止」で投稿していてしまったのだが、単純ミスであり、何の他意もないので、戻しておいた。)

その中で教師の言葉を思い出した。

「この大いなる壁を無事に乗り越えられるかどうかで、諸君のその後の人生は決まる~」

これは一つの発言を正確に諳んじたものではない。
同様の趣旨のことを、複数の教師が話していたものを、ぼくが当時理解していた通りにまとめたものだ。


そしたら、こんな偶然ってあるかい?
ぼくらの担任だったそんな先生の一人が、翌日に死んじまったのさ。

おそらくまだ50歳前だったのではないかな。病死である。
ボロボロになった15年前の連絡網に基づいて、断続的に訃報と追悼の集いの知らせが走っているところだ。


良いかい、ぼくは空を仰ぐよ。
人の命に重いも軽いもない。
かつて全ての人間がそうしたように、天に捧ぐ花と言葉をぼくも用意する。
だけど今夜は雨空なんだ。嘘じゃあない。
大粒の雨がぼくの出番をかき消す。雨に紛れて仕事をちょろまかす。
品質は誰にも分からないし、そもそも問題じゃない。
雨と雲の向こうの星空に向けて、ぼくの頭の中は、彼女をどうやって口説くかだけで一杯だ。

いけにえ

2007年07月07日 | 70年代ロック雑談



最近ジューダス・プリーストに夢中だ。といってもメタルゴッドな80年代ではなく、70年代のHRのニオイがまだプンプンするあたりのアルバムを聴いている。具体的には「Sad wings of destiny」から「Stained Class」あたりにかなり夢中である。
またCDに付属してる伊藤政則氏の「自虐的」とさえ言えるライナーがまた秀逸。

特にお気に入りが「Sad~」の冒頭を飾る「Victim of changes」。
ロブのスクリーミングが最高である。
最近ヘルメットの中でもっぱら歌いまくりである。

♪ドライヴィン・ミ・インセェェェェェェェェェンィェォ!

気持ち良すぎるッ…!
カラオケに入ってないのかなあコレ…。

で、また対訳にチャレンジしてみたくなったので書いてみた。原文はこの辺から探すと見つかるはずだが割愛。
訳合ってるのかどうか知らないけど、原曲知ってる方が楽しめるように訳してみました。


※ ※ ※ ※ ※ 

「いけにえ」

アル中の熟女に夢中、ぼくは気が狂うぜ
濡れ濡れなのに君はやる気無し。でもぼくはもうビンビンッ
(あー気が狂うぜ)
彼女はマトモになりたくて、やり直したくて、もがいてる
実はダンナが女を作って出ていった
でも代わりの相手を探す気も無いみたい
飲んだくれて憂さ晴らしするだけ

頭冷やして話を聞けよ。結局何も変わってないじゃんか。
君はどんどん老けてくし、皆は君を放っておくだけだよ。
もう一度人生やりなおそうよ。新しい人生をさぁぁぁ!
何しろダンナを寝取られたんだ。
今じゃ誰も相手なんて…でしょう?
飲んだくれて憂さ晴らしするだけ




君は!
男をッ!
もてッ
遊んでさぁ…

ぼくはぁ
知りたいッ!!
なんで?!
どうして?!

勃てッ!
射てッ!
マジで!
逝くぜ…

ごちそうさまッ!
もうごちそうさま、お腹一杯っす!
神さま、チンポがッ…
…抜けないぃッ!





彼女は、かつては最高だった。
ステキだったさ。
かつてはどえらい美人だった。
そしてぼくの恋人だった。

だけど彼女のカラダに変化が訪れた。
そして二度とぼくとは会おうとしなかった。
変化が彼女の肉体を奪った。
彼女はもうぼくと会わなかった。

変化
変化ってつまりアレだよ。
更年期になっちゃったんだよ。
彼女は更年期にカラダを奪われたんだよ。

オウッ!

ノウッ!

なんてこったぁぁ…

no no title

2007年07月05日 | 自己紹介
ぼくの30年チョイの人生をボーと振りかえってみると、1箇所大きなターニングポイントがありました。それは結婚でも就職でもない、「大学受験」です。

その前の中学高校時代は、ぼくの中では6年間が一括りです。自分は中高一貫の私立進学校に通っていたためです。なんでそんな学校に通っていたのかというと、ありきたりですが一流大学の入試をクリアするためです。ではなんで受験をしたかったのかというと、それは覚えていません。気付いたらそうなっていたのです。この中高時代の6年というものは、すなわち大学受験に向けて備えるための6年間であったと言っても過言ではありません。
ぼくが実際に受験に臨んだのは1995年2月のこと。丁度例の大震災の翌月にあたります。当時のぼくは現役の高校3年生、つまり「1995年3月高等過程卒業見込み」でありました。
中高時代の6年の間は、この来るべき1995年2月のことを、1日たりとも欠かさず、毎日毎日意識していました。わが宿命である「大学受験」という壁に、おぼろげな恐怖さえを感じながら過ごしていました。

「この大いなる壁を無事に乗り越えられるかどうかで、諸君のその後の人生は決まる。すなわち入試とは割礼みたいなものである。浪人するのも構わないが、仮に1年間浪人した場合、1年で諸君の両親が蒙る経済的損失と、その後の諸君自身の生涯を通算した所得の損失はどれほどになるのかを知っているか?」

学校では、賛美歌をBGMにそんなことばかりを教えられていました。何よりまず学業成績が重んじられましたし、また家庭にあってもぼくは両親なかんづく母親の期待をひしひしと感じていました。中高時代のぼくは、何かの機会に自分の写真を見るたびに「ここに写っているぼくはまだまだ半人前だ。晴れて大学生になるまでは…」とよく思っていたものです。

毎年2月。校舎の階段の2階踊り場付近に、無数の貼り紙が掲示されます。
文面は、

「○○××君 ○○大学××学部 」

とだけ。つまり現役高校3年生(都合「6年生」と呼んでいた)もしくは前年度以前の卒業生が、いざ大学入試に臨み、勝ち取ってきた戦績がそこに掲示されているのです。1名の生徒が複数の学部や学校に合格した場合は、合格報告が入るたびに随時貼り足されていたので、「のべ合格人数」相当の膨大な貼り紙でした。出征した諸先輩たちが如何に勇敢に戦い敵陣を破ってきたのかを、1年生(中1)から5年生(高2)までの全生徒が、興味深く食い入るように眺めていたものです。
ここに名前が載ることこそ、この中高に在席している究極の目標なのです。そういう環境だったんです。それ以外のチョイスは知りませんでした。

結論から言うと、その壁をぼくは見事にクリアしてみせました。実力以上と思われたハードルをクリアできたのです。高校3年生の1年間で10kg痩せました。人間って頭を使うと痩せるんですね。学校の担任もぼくの善戦を喜んでくれたし、両親の喜びも並々ならぬものであったでしょう。

なお高校時代には親友と呼べる人間がいたのですが、一緒に1995年2月を迎えることなく、彼は世を去りました。この出来事もぼくの人格形成に深く影響しています。

「自分はもう一生分の勉強をした。こんなつまらない勉強は金輪際したくない。大学に入学できたら、絶対勉強を辞める!」

高校時代からそう決めていましたし、実際そうしました。何のために大学に行ったのか分かりませんね。
とにかく受験をクリアし、ぼくは今までの目標を一旦達成しました。だけど新しい目標を立てることはしませんでした。
もう目標は要らないんだ、成り行き任せで構わないんだ。それが新しい人生の晴れやかな門出でした。だけど裏を返せば、ぼくの人生はある意味ここで一度終わったのです。

中高は男子校でしたから6年間女の子を知らなかったし、10代の青春らしい記憶はぼくには一つも思い出せません。だからその後は精一杯「爽やか」に生きたかった。遅まきながら青春デビューを果たしたかった。入学1年目で、努力した甲斐もあってたくさん友達を得ることが出来たし、彼女も出来ました。高校時代の自分には全く想像も付かないくらいの変化です。彼女は短大生でした。「ねえタンダイってナニ?室町幕府とか?」って聞いてキョトンとされたのをよく覚えています。
仲間。恋人。ロックバンド。酒とタバコの煙と。当初大学生活はこういうものに熱中して過ごすかのように見えました。

しかし残念ながら、一つ一つ、順番に辞めていきました。
その時から始まったのが「何かが違ってる」感覚です。何がどう違うのかというと正確な説明は難しいんだけど、言い換えるなら「こんな低レベルなコトやってる場合なのだろうか?」という、カッコ悪さに似た感覚です。

受験勉強時代は妄信的にお受験一直線だったから、目標を目指して何も迷わずに頑張っていました。かつ、世の中にはコンクリートな完全なモノがゴロゴロ存在していると思っていました。例えば「ソニーのウォークマンなら絶対壊れない」、みたいな。そういうパーフェクトな大人社会に近付くための割礼こそが受験の目的だ、そういう理解をしていたと思います。
だけど大学時代にウンと視界と世界が広がってしまいました。以前はもっと立派で高尚だと思っていたものが、意外にも俗っぽかったというか、安っぽかったことに、軽く失望しました。世の中は自分が想像していたより全然適当でいい加減に出来ていたのです。ソニー製MDデッキあっても、アナログのラインアウト出力がLとRで微妙に音量が違うのにメーカーに問い合わせたら「誤差の範囲内です」と言って直してもらえませんでしたから。世の中に完璧なものは中々ないということを、初めて知りました。

だけどぼくはイメージ通り完璧なものを欲しがりました。そんな自分に、例えばサークル活動は熱中するに足らなかったのです。もっと真剣に音楽をやりたかった。例えばゼミで「模擬裁判」をするのも下らなかったのです。名前は大仰だけどしょせんは裁判ゴッコでしたから。そのうち「ゼミ」だの「サークル」だのいう学生にしか通用しない固有名詞そのものが嫌いになってしまいました。とにかく色々やたらと「アンチ」になってしまったのです。人間関係も、せっかく最初はうまくやっていたのに、もはや全然ダメダメでした。「付き合い」が面倒になりどんどん孤立していきました。しまいに大学生であること自体がイヤになってしまい、卒業式にも行かなかったっけ。とにかく「専念するには下らなすぎるもの」が多すぎました。

とりあえずぼくは、ありがちながら「クリエイター」としての活動だけはキッチリやってモノにしたいと考えて、ひたすら自宅で音楽を作っては録音していました。しかし、そのうち作曲にも行き詰まることが多くなりました。何事も完璧でないなら、やらない方が良かったのです。HR/HMファンがよく使うような「捨て曲」を敢えて作ることは、ぼくには出来ませんでした。

今頭をひねってこの事象を一言でまとめたところ、
「現代社会はもっと整然と秩序だっているのかと思っていたら、幼稚園みたいだった」
というところでしょうか。
このことに気付いて~あるいは無意識でも構わないから~、幼稚園に自分を合わせられるのがオトナなのでしょう。

ぼくはこの後向きの感覚を、社会人になった今も、未だに引きずりつづけているみたいです。能力的に克服もできず、性格的に妥協もできないのです。

世間は実はそもそもかなりいい加減なんです。たとえ今やってる仕事がどこか下らなくても、きっとある人たちにとってはとっても価値あるものなのでしょう。それで良いではないか?でもぼくは心の底では「やっぱコレって下らないじゃん」と思ってしまっている。なんで、こんな「なんとかゴッコ」みたいなことを、良いオトナがやらなきゃならないんだ?何かが違う。いつまでたっても何か違う。

そんなこと全て理解した上で「四の五の言うな、考えなくて良いのだよ、世間ではこの程度の下らないパフォーマンスが十分評価されるのだ。だからハーレクインを演じつづけろ」という確信犯ばかりが世の中ならば、ぼくもまだ付いていけたと思います。

だけどその「下らないこと」に大マジメに取り組んで、あまりのヤリガイに感極まっちゃって泣いちゃってる人の姿を見ると、引きつった笑顔で引きまくってしまいます。
「はは…はは。」
こうはなりたくない。なりたくないけど、そんな人たちは充実していて幸せそうでもあります。「愚かである」とは言い切れません。ぼくの主張は、所詮どこにも所属できない負け犬の遠吠えです。彼らから見ればぼくこそザ・フールです。

かくしてぼくはナニをやっても熱中できない人間になってしまいました。「お受験」の時みたいな妄信的なルールが無いからでしょうか。目の前にあるものが何もリアルじゃありません。終戦直後の日本人が抱いたような思想的混沌のままです。かれこれもう10年も経ってます。本来ならもうとっく「もはや戦後ではない」はずなのですが、いまだに自らを「正しい社会」と関連付けられないのです。馴染まないんです。

だけどこの社会で生きて行かなくてはいけない。下らないと思っているの全てを改めて、これは素晴らしいことなのだと思わないといけない。大変です。本当に克服できるのかどうかも分かりません。
でもどうやら克服しないといけないみたいです。ひとまずは何が何でも社会にぶら下がらないといけません。年齢的にも環境的にも、そのことを期待されているのです。

目標を廃止したはずの人生に、再び新しい目標が立ってしまいました。2004年のことでしょう。丁度このクソみたいなウェブログを書き始めた時期です。
でも今度のはかなり手強いです。勉強と違って明確な進捗がつかめないし、ぼくがもっとも苦手としている人前での立ち振る舞いや他人との接触・交渉といった人間性の根幹に関わる部分の改革を迫られているからです。ほとんど宗教的な信仰心をもって貫いてきた自分の思想について、改宗を迫られているようなものです。
そして挫折しました。それほど飲むほうでもなかったのに、気が付いたら酒浸りでした。わずか3年でアルコール依存症になりました。

「何かが違ってる」感覚は、今もぼくを捕らえて放しません。
どこで何を間違えたのか。

「この大いなる壁を無事に乗り越えられるかどうかで、諸君のその後の人生は決まる。すなわち入試とは割礼みたいなものである」

中高時代の教師の言葉が再び頭をよぎります。BGMはいつも賛美歌(ちょっとゴシックでしょう?)。
ぼくは大学受験をクリアしました。その時ぼくの人生は決まったのでしょうか。それとも、本当はまだクリアしていないのではないでしょうか。つい先日まで社会保険労務士での資格でも取ろうかと考えていましたが、やめました。よくよく考えたら欲しくないからです。資格や学歴は勉強すれば誰でも手に入れられます。大事なのは「興味が無いことを勉強することの意味」です。今はその意味は無いと考えています。それなら二輪の整備士でも取ります。
今一度かつての親友に問い掛けたい気分です。ぼくは、きみの親友の名に恥じないような人生を送ってきただろうか、と。墓所参りも数年ご無沙汰してしまっているから、ソウダ久しぶりに会いに行こうかな。

ラジアル古墳

2007年07月01日 | ツーリングのレポート

BT92


予定通りタイヤを交換してきた。久々のブリヂストンで、人生初のラジアルとなる「BT92」である。いつも頼んでいる専門ショップで工賃混みで29000円弱。ナップスより安くあがり、かつ作業も丁寧。万々歳である。

ショップというもの自体に偉く長いことゴブサタしていたので、交換がてらにちょっと聞いてみた。

「フロントホイール曲がってませんか?」
「まずほとんど曲がってません。結構ハデにぶつけたんですか?」
「転倒でアスファルトに擦ったみたいです。リムが削れたのでタッチアップしただけで放置なんですが…」
「そうですね、削れた程度で済んだと見て良いでしょう」
「フロント周りは素人整備でしょっちゅうバラしてるんですが、何かトルクとか油脂類を間違ってませんか?」
「あ、そうだったんですか。全くOKです。殊勝な心がけですね」

今までの自家整備に誤りがなかった様子なので、安心できた。

交換作業終了後、別の店員がこう教えてくれた。
「お客さんが今まで履いてたタイヤ、実はカナリ評判悪いんですよ。今回の交換でビックリするほど良くなると思いますよ!」

いかにもこのショップではIRCを扱っていないのだ。なので前回RX-01はナップスで履かせてもらった。
「これからはIRCも扱ってくださいヨ」と頼もうと思っていたのだが、おかげで言いそびれてしまった。

ということで、さっそくその足でBT92の皮を剥きに軽くツーリングに出かけることにした!目指したのは先週行きそびれた太田天神山古墳ッ!毛野君の墓と言われている。
交換直後のタイヤは俗に「雨天走行のつもりで走るべし」というほど滑りやすい。ひとまずイキナリ高速道路にのっかったが、却ってナラシには丁度良いのではないかと思った(どうだろう?)。中央道を下り、先週開通した八王子ジャンクションを経由して鶴ヶ島を過ぎ東松山まで走った。通行料金は2000円であった。なんか結構高くね?高速を降りたらトレッド面のペイントは一発で無くなっていた。

武蔵丘陵森林公園を抜け、熊谷東松山道路へ。ぼくの使っている地図では有料道路と書かれていたが、実際走ったら無料になっていた。荒川を渡ると熊谷市。国道407というのをひたすら北上する。独身だった頃、誰かとデートか何かで入った覚えのあるファミレスが今でもあって懐かしかった。利根川を渡ると太田市。初めてのまちだけどここは大都会だね。富士重工の工場が目立つ。市街中心地である太田駅からほど近い県道沿いに今回のターゲットはある。


いりぐち。駐車場とかは無い。


去年行田のさきたま古墳群を訪問したが、中でも鉄剣出土で有名な稲荷山古墳が400年代末期の雄略天皇の時代であるのに対して、こちら太田天神山はもうちょっと古い。しかし規模ははるかにさきたまのソレを上回る。実は東日本最大の墳丘長を誇るのだ。だがいかんせん一般的な知名度が全然及ばない。実際訪問してみるとカンバンと塔が一本あってここが史跡だと書いているのみ。まあこれぐらい寂しい方が史跡ってカンジがするから構わないさ。実際訪問してみると、平野にポツっと「山」が現れる感じだ。こいつが1500年もまえの人口建造物であると考えるとスゴイことだ。


道路から後円部頂上付近を見上げる。段丘になってる


同じく去年、日本考古学協会第1回公開講座とかいうのを見てきたことは以前も触れたが、この日大塚初重氏の講演の中で同古墳が採り上げられており、曰く「墳丘の途中に盗掘によって石棺の蓋が引きずり出されていて露出している」という話があったことから、この古墳を見てみたい気がずっとしていたのだ。石棺のフタから察して畿内大王墓クラスと同様のレベルのものが関東にある、みたいな話だったと記憶している(講演の様子はたしか協会のサイトに録画公開されてますので、興味ある方はどうぞ)。


地図


写真に示したような足取りでウロウロしたのだが、カンバン曰く「後円部の南麓に露出」しているとされる「石棺のフタ」はどこにも見当たらなかった。後円部南斜面に一箇所崩落した部分があったのでここを念入りに見て歩いたが何も見当たらない。
よくよく考えると、麓ってのはホントに麓であって、そこまで引きずり下ろされていたのかもしれない。結局見つからなかったけど、ま良っか。


分かりにくいけど後円部斜面の崩落箇所。石棺はここから撤去したのかな?


今回感動したのが「葺石」があったことだ。歩道というか獣道というか、人が歩けるようになっている場所は土がよく露出していて、そこに丸い川原石がコロコロと転がっているのが見て取れた。叢と化している部分も、ちょっと掘れば大量に出てくるに相違あるまい。思わず石に手を触れる。川原からここまで運んできたのか…。やれやれ。
とにかく、あー土葬ってうらやましいよなあ。


葺石


という程度で、何かにわか雨が降りそうだったから探索は適当に切り上げ、VTRでもと来た道を引き返した。帰りは圏央道を使わず関越本線で練馬まで行ってみたが、料金は1150円。圏央道は遠回りなこともあるけど割高なのかな…。「高い」と言って式典をボイコットした八王子市長、がんばってネ。

さて、ツーリングラジアルタイヤBT92のインプレについてなのだが、あくまでRX01との比較で、かつナラシで軽くツーリングに使った程度、という前提で述べると…。

すごく良いです。

ラジアルの剛性のおかげなのかコンパウンドのおかげなのか分からないけど、ほとんど「タイヤが地面に張り付いてる」という感覚。RX01はバンク時は結構気を使って荷重操作をしたけど、このタイヤは何も考えずにドッシリ座ったままフルバンクできる勢いだ。高速のランプで試しにうんと寝かせてみたが、張り付いてる感は全然変わらず維持される。転倒する気がしないと言ってもいいくらいだ。「多い日も安心の生理用品」の使い心地を理解した気がした。

実はぼくはハイグリップバイアスのBT39とTT901は未体験である。要するにRX01とBT45とGT501しか知らない。知らないで言うけど、ラジアルタイヤかなりイイ!もしぼくみたいにツーリングバイアスとか純正タイヤで頑張っているVTRオーナーがいたらば、是非教えてあげたい。前後ともラジアルに合うサイズがあるのだから、こいつは履かなきゃもったいない。またダンロップGPR100というタイヤもBT92と同系統だ。これも気になる。

とにかく今度はワインディング。出かけるのが楽しみである。