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『性教育の暴走』を読む 〈その3〉

2007年12月21日 12時51分19秒 | セクシュアリティ雑感
 そんなわけで、いよいよ第三章です。
 ここはいわゆる「ジェンダーフリー」論と、それに対する右からの攻撃が主に書いてある。
 もう、本当にどうにかしてもらいたいんだよね。
 ジェンダーフリー陣営の方々は1人でも例外がいれば傾向自体がないと主張するし、本書の著者のような右翼側の方々は傾向があればそれを絶対化する。どっちも違うんだよな。何でそんな簡単なことが分からないのか前々から不思議なのである。男と女で心理的な傾向はあるだろう。そこには進化的な理由から説明可能な部分もある。 ジェンダーフリーの方々の見解については、本書の著者に都合のいいところが拾い上げられているのかもしれない。ジェンダーフリー論者のなかにもバランス感覚のある人はいるのかもしれない。ただ、思想的に男女差をないものとする方向に進む契機はあるようだ。
 さて、全体的な傾向を問題にするのと、個々の臨床的な問題を扱うのとではもちろん議論のしかたは違う。それが混同されて議論されるために、こうも議論が食い違うのだろう。どちらにしても理科を勉強していただいたほうがよろしい。
 全体的な傾向を知った上で自分の位置を知るのは、教育の場にあっては職業選択などで自分を考えるときに役に立つ。全体的な傾向はこうで、自分はどうも女の子にしては男っぽいし、体力も自身があるという人が体を使う仕事を志すというようなことは大いにあってよいのである。全体の傾向を研究したうえで、それからはずれた子がいた場合にどういう対応が本人の能力を最も発揮させ生き生きと生きていけるようにしてやれるのかというのを考えてあげればよいというだけのことである。ここでも、子ども不在のイデオロギー重視の姿勢を感じざるを得ない。
 
 さて、この章では同性愛に関する記述があるのでそこは次回細かく見てみることにする。

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