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『性教育の暴走』を読む 〈その4〉

2007年12月23日 15時33分02秒 | セクシュアリティ雑感
 そんなわけで、同性愛についてのこの方の意見を見てみましょう。
 まず、敵陣(=ジェンダーフリー陣営)の見解として、性教育協会(性教協)の機関誌『SEXUALITY Vol.29』から引用しています。
 鹿児島市の公立小学校の先生である二川政文教諭が書いた文章です。そのなかで「同性の友だちとのふれあいが楽しく、もっともっと成長していくとそのふれあいの対象が異性にかわっていきます。でも中には同性の人とずっとふれあいたいと思う人もいます」ということを言ったら同性愛者のAさん(この人が小学生の生徒なのか、見学でもしていた同僚教師なのか書いていないので分かりません)、「も」が気に入らないと言い出したというわけです。「マジョリティ」を規範として(=ノーマル)として捉えて、「マイノリティである同性愛者」が特別だというニュアンスが伝えられて対等には聞こえないということです(まあ、こういう決まり文句を習得しているということは、小学生ではないような気がします……小学生くらいだとまだ自分のセクシュアリティもはっきりしないことがほとんどでしょうし)。
 それで二川先生は、「異性とふれあいたいと思う人もいれば、同性とふれあいたいと思う人もいる」という形で両方とも「も」にしちゃえばいいのだという解決策を思いつくわけです。
 しかし、著者はそれが気に入らない。どうも同性愛者にたいして、過剰に配慮をしているということだそうです。

 それから伊野真一さんの『ジェンダーがわかる。』なんかを槍玉にあげます。伊野さんが「これらの人々(=LGBT(玉野注))は、日常の中で生き難さを抱えています」というのに目くじらを立てて、「それ(=同性愛者の生き難さ)を抱えているのか想像の域を出ないが、それは自らが選択したのだから受容すべきではないのだろうか。同性愛を選択すれば、同性愛に対する社会的に醸成されてきた判断や評価も受容せざるを得ない。それは宿命である」という。
 ぼくらはちゃんと受容した上で、戦うべきところは戦って、変えるべきところは変えていきましょう、っていうだけです。社会一般の価値観や道徳観を変えてはいけないというわけではありません。
 ここで、こちらも安易に「自己選択の要素はありません」と言い切ってしまうのも危険ですよね。もし自己選択で同性愛を選んだ人がいたとしても、平等さが保障されるほうがいいからです。科学研究の中で、遺伝子レベルの原因があるとかいうデータもぼちぼち出てきている部分もありますが、まだまだちゃんと証明された仮説はないし、ましてやすべての同性愛者がだれも自己選択の要素がないということもいえません。
 著者は、ここで、「同性愛はこれまで当たり前のように守られてきた伝統的な家族のありようを壊し、子孫は生まれないので自動的に民族を滅亡へと追いやる性関係だということだ」と述べます。
 さらにこうしたやりかたはカンボジアで大虐殺を行ったポル・ポトが子どもを利用したことになぞらえて、共産主義者のやりかただ、と烙印を押してくださっています。先生が教育するんだから、子どもに教えるに決まっているわけでして、それなら「同性愛は伝統的な家族を破壊する」ということを教えたとしても、共産主義的でしかありえない。どんな教育をしても<共産主義>になります。

 次に日高さんの研究が槍玉に上がる。
 日高さんは研究のデータから、コンドームの装着率と孤独感に相関があるようだという分析を通して、教育の問題にも言及し「教育者は、日常の授業における何気ない言動の中に異性愛以外の性的志向を否定するようなメッセージが含まれていないか振り返ってみること」を奨励しているわけですが、それが気に入らない。
 「あくまでも同性愛者ではない側が、きわめて慎重に神経を使って一言一言を発しなければならない、というのだ」といって、これは道理にはずれるのだそうですよ。
 さらに、杉並区立和田中学校の「よのなか科」で、藤原和博先生が女装の三橋順子さんを招いて行った授業も気に入らない。これも「公序良俗による伝統的な価値観や行動規範を根底から覆している」実践なのだそうです。

 こういう自称右翼のみなさんに共通するのは、伝統というのがなんなのか(たとえば家族については戦後徐々に定着してきた核家族みたいなものを想定しているようだ)しらないまま吹き上がっちゃうってことである。
 吹き上がっちゃってるので、自分が何を言っているのか反省してみる視点はまったくありません。
 この方は自分の子どもが同性愛者であると分かったならば、「お前はそれを選択したのだから、社会的な判断も受容しなければなりません。うちではそんな子はいらないので今日限りで勘当です」といって、子どもが孤独だろうがなんだろうが、公序良俗に反した代償だというのでしょう。

 しかも、本書の終わりのほうで家族関係が良好な子どもは安易な性行動にはしらないというデータを示しています。もしそれが本当だとするならば、日高さんの分析と同様な結果です。ならば、それをどうして同性愛者には適用してはいけないのでしょう。同性愛者と言うだけで、「生殖に預からない性関係であるから切り落としても結構」だと、突然、邪険に扱ってもいいとおっしゃるわけです。
 きわめて狭い了見からものを言っているように思えてなりません。


 さて、こういう著者がたとえば『中国の植物学者の娘たち』なんかを見たら、自分の娘であっても「同性愛の罪を犯して、私の命を奪った」と言って死んでいく老植物学者の肩を持つのでしょう。逆の視点を学ぶ上では、映画も、本も大変勉強になります。


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