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『王の男』~仮面の効用

2006年12月15日 04時57分55秒 | 映画雑感
 超ネタバレしまくりです!!
 お気をつけを!!










 韓国映画で同性愛を描いた時代劇といわれる『王の男』をみました。
 この映画では仮面が多用されます。
 町で民衆を喜ばせる下ネタ満載の大衆演劇の芸人たちを主人公に据えることから、その意図ははっきりしています。彼らは大衆に迎合すべく芸人に徹するために役を演じるにあたって仮面をかぶります。それで、その陳腐な身なりからはほとんど想像を絶するあざやかさで芸をみせていく。おそらくそこには厳しい訓練もあり、近隣の芸人との激しい競争を勝ち抜いてきた人びとなのでしょう。しかし、彼らはそんな苦悩はおくびにも出さず仮面をかぶって滑稽な芸を見せていく。

 そんな芸人の中でもとびっきりの技と美貌を持つ二人の芸人が恋仲に落ちます。『覇王別姫』(チェン・カイコー)と『Mバタフライ』(デヴィッド・クローネンバーグ)以来の女装役者と男の恋物語ですが、この日本では恋は成就しなかった悲恋ゆえ純愛たりえたのですが、『王の男』では恋愛関係と信頼関係が出来上がっていたからこそ成立します。『覇王別姫』では、女形の役者が男であることが分かっているがゆえに、女が悲恋を経験します。『Mバタフライ』では女形を女だと思い込んでしまったがゆえに、男が悲恋を経験します。『王の男』では、恋愛が成就していたがゆえに悲恋が表れるわけですが、実はこうした悲恋に、恋仲にある2人が同性である必然性はありません。2人の仲が成就しており、それがなんらかの外圧によって引き裂かれればよいわけですから、メロドラマとしては極めて定石を踏むことになります。

 彼らは田舎の旅芸人たちから逃げ出し、都会にやってきて、そこで王の噂を嘲笑するような芝居を売って人気を得る。しかし、それが家臣の目に留まり、王宮にとらわれていきます。彼らが王を笑わすことが出来れば、処刑を免れるよう交渉が進む。彼らは芝居を始めるはいいが、「王の面前」という緊張感と「失敗すれば死」という緊迫感からすべてはうまく運ばない。
 そのとき、女形のコンギルが美しい顔を隠しておどけたお面で慄然と立っている。このショットはきわめて美しい。演じるため、自分を隠すためにかぶっていた仮面を、いまや自分の愛をまっとうするためにかぶろうとするからだ。

 無事、事なきを得た芸人たちは、宮廷内に住まい、王に芸を見せるよう命令される。彼らの芝居は、王の臣下たちの汚職や不正な既得権行使を暴いていく。王は、そのパロディをみては、首謀者たちを抹殺していく。
 王は、王の仮面をかぶることに疲れ果て、旅芸人の達者な芸を楽しみ、悪政を推進しようとする。
 これは『ルートヴィッヒ』でヴィスコンティが容赦なく描き上げたテーマだ。
 ヴィスコンティの描くルートヴィッヒ二世は、若くて美しいが才能のない役者たちに法外な支援をしては、彼らを囲い込み夜となく昼となく快楽をむさぼるようになっていき、国を傾ける。度を越して芸事をたしなむというのは、為政者にとっては危険な行為なのであり、奨励されるべきではない。
 彼らに私的な時間も空間もなく、お世継ぎを作る行為すら家臣たちが壁の向こうから聞き耳を立てている。そうした環境の中、一人の王は母親喪失の痛手から立ち直ることができないまま人生を過ごしてきている。その怨念=私怨を晴らす空間は彼には用意されていないのです。彼が怨念を晴らすためには、「王にはふさわしくない行動」をとるほかない。したがって、彼は仮面を脱ぎ捨てることで、怨念を晴らそうとします。これは、ある国の統治権力の行動が予測不能になるということですから、国民側からすると危機的な状況です。
 王政において、王が狂うことは国が狂うことを意味しますから、愛国心のある人間であれば王の暴走を阻止しなければなりません。
 ヴィスコンティであれば、廃頽を美と捕らえて描きますが、こちらは廃頽は悪でしかありません。したがって、世直しのため、愛国の徒たちが王宮に押し寄せてくるわけですね。

 さて、こうしてみてみると、論理的に同性愛でなければ成立しない悲劇はどこにもありません。『覇王別姫』や『Mバタフライ』、はたまた『ルートヴィッヒ』といった同性愛映画の傑作群を参照項に出さざるを得ない作りの割には、肩透かしを食らわされた感じもあります。しかし、一方で同性愛という恋愛が、異性愛の恋愛と同等のものと正当にみなされたのかもしれないな、とも思います。
 
 
 

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