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ゲイの権利団体の運命?

2006年12月11日 05時54分28秒 | ゲイ・コミュニティ
akaboshiさんのブログのほうで、やややり取りがあり、歴史を語れるのはババアの特権とばかりにかいちゃいました。歴史的な背景は相当に大雑把ですし、きちんと資料をあたってないので、間違い等々あるかもしれません。そのときはぜひお知らせください。


>やっぱり「カミングアウト」って本来は必要ないはずなんです。
>同性愛が「当たり前に存在する」とされる世の中においては。
>(かつての日本のように、「異性愛」「同性愛」という概念が別れて
>いなかった時代には
>同性を好きになっても世間にそれを「告白」する必要など、なかった
>わけであって。)

 ここについては、ぼくは賛同いたしかねます。
 同性愛という属性について、「カミングアウトが必要ない社会」は来ないんじゃないかな。江戸時代かなんかになぜカミングアウトや告白が必要なかったかというと、そこに法的、制度的な容認の姿勢がなかったからだろうと思います。
 つまり、これから同性婚法あるいはDP法を目標としていき、それが達成された暁には、社会の中で法的な婚姻関係あるいはそれに準ずる関係を構築し、そこを基盤に生活をするようになるはずです。つまり、現在の隠然と存在している状態よりも、もっとはっきりと社会的にカミングアウトをする選択肢を与えられるようになってくる。もちろんそれを選ばない自由もありますが、基本的には今後はカミングアウトをする前提で話をしていく必要があります。単に周りの人に言うというだけでなく、もっと積極的に社会的名意味で自己のアイデンティティとして、同性愛を引き受けるということです。
 江戸時代に寛容だったという話はよく聞きますが、90年代初頭のゲイブームだって、連綿と続くやおい→腐女子的な表現の系譜にしたって、それを後世の歴史家から見れば、「日本は同性愛に寛容な社会である」というふうにはいえるんじゃないかと思うんですよ。カミングアウトを必要としないということは、法制度としては存在しないことになっている。パブリックな存在ではないからこそ、「カミングアウト」は必要ないのです。

>しかし現実問題、今は世の中が同性愛を勝手にタブー視
>しているもんだから仕方なく、
>わざわざ重圧をはねのけて「カミングアウト」をして存
>在を認知させなければならない時期。
>この時代に生まれてしまった者の宿命でしょうね。

したがって、現在の闘争的なカミングアウトの敷居をさげていって、同性婚が法律としてできてら、それを実際に活用するゲイやレズビアンのカップルが増えて、内圧が上がってくる必要があります。


>ただ、僕らの世代が頑張って認知させ、
>人間本来のあり方として復権させれば
>別に世の中に合わせて「カミングアウト」
>なんてしなくてもいい時代が来るはず。
>同性愛って「変わってる」ことでもなんでもなくって、
>太古の昔から存在し続けている人間本来のあり方なんだから。

昔からいるのも間違いないだろうし、どんな社会にも存在しているんだろうとも思います。しかし、同性愛はつねにマイノリティであることは変わりない。人がデフォルトでは異性愛者だと思われてしまい、その意味でもカミングアウトが必要である状況はおそらくそう変わらないんじゃないかと、僕自身は思っています。ただ返られるとすれば、カミングアウトしたあとのコミュニケーションの円滑さなんじゃないかと思います。同性愛についての正しい知識を一般の人が持っていれば、コミュニケーションをとりやすくはなるでしょう。

>あと、よく思うのがどうして日本のLGBTには現在、
>かつての「アカー」のような政治的な運動も強力に出来る団体が
>継続して存在していないのかということ。

 かつての政治的な団体は、ともかく痛いと声をあげ、弱者として振る舞い、人権を認めさせるということを行っていたわけです。もうそれ以外にやりようがなかった。同性愛者なんてこの世に存在しないと思われていたようなもんですから、ともかく「同性愛者はどこにいる~?」「ここにいる~!」とパレードで絶叫していたくらいで(笑)、ともかくもそれくらいしかやりようがなかった。そして社会の側にとっても、それで十分インパクトがあったわけですね。著名学者たちが後ろ盾を用意してくれた。そういう状況下では、身の回りでカミングアウトをするよりも、対社会的なカミングアウトのほうが楽だったりするわけです。有名な先生方が擁護してくださるわけですから。それよりは親や身近な友達のほうが、すべてを自分で処理しなければならないので面倒だったりしました。
 ともかく、そういう状況の中で、弱者の痛みを訴えることしかなかった。戦略もクソもありません。それしかやりようがない。
 そして、それがある一定の効果を示していく。ゲイ・ブームと呼ばれる時期には、雑誌の特集、ゲイ映画の配給、新聞記事、著作の刊行などが相次ぎます。それで、ともかくも同性愛者が存在することは社会の中で共有された感覚となっていきます。
 ところが、そうやって認められるようになってくると、だんだんそのやり方に影が差します。つまり「俺たちはゲイを差別する気はないよ」という人びとが多くなり、とくに若年層では大学や高校でのカミングアウトも普通のことになります。ちょうど携帯が普及し、携帯からネットにつながることでゲイ同士のコミュニケーションが若年層でも大変簡単に出来るようになってきた背景もあります。もう、自分が同性愛者であるということで、一人思い悩む時期は(個人差はあるけれども)限りなく短くなっていく。
 そういった層に、先行世代が「痛み」を訴えても、リアリティがないわけです。なんだか大して痛くもないのに、痛い痛いという胡散臭い運動に見えてくる。
 それは、実は一時期のアクティビズムが成功した証なのですが、そう思えない人たちは、ますます痛みを訴えようとしていきます。「こんなに痛いのに、どうして君たちは感じないんだ?」そうした動きをとることで、「人権のインフレ」と呼ばれるような批判を引き起こしていく。そういう人たちが飽きられていったわけですね。
 そこから、しばらく「階段の踊り場に入った」といわれるように、たとえばパレードなんかも一時休止してしまうし、大きな動きはでてこなくなってくる。

 それから、現状に至るわけです。パレードは再開して、尾辻議員のカミングアウトをする格好の舞台も用意された。
 尾辻議員の登場で、ゲイにとっても政治的な動きが大切だということを知らしめてくれる人が現れました。これは喜ばしいことです。かつては、ともかく痛いとしか言えなかったまだまだ稚拙な政治だったわけですが、はてさてこれからどうやって本格的に日本に法律を作らせるような政治的な動きになっていくのかならないのか、見ものです。
 まあ、60年代安保であれだけ暴れても、医師の研修制度が旧来のものに戻ったくらいで大して何にも変わらなかったんですから、そう簡単ではありません。しかし、一方では子なし要件など面倒な縛りはあるもののGIDの方の戸籍の性別変更、結婚も認められるようになったという事例もあります。
 現状としては、どこかのブログで「ゲイの問題が人権問題だとはっきりした』とかいってましたけど、そんなのは大昔から分かりきっていること。いままではなんとなく社会の中で受容されたようなされてないような微妙な立ち位置できて、そりゃあ前よりはよほどよくなったわけですからある一定の満足をしてしまった。そこにAkaboshiさんのよういうな「カミングアウト不要論」が絡みます。

 実は、カミングアウト不要論は昔っからあるんですよ。
 家庭を持ちながら、週末はゲイバーで飲んだり、出張時にハッテン場にいったりしながら、二重生活をしていらっしゃる方々は、カミングアウトなんていわれて、それをするほうが正しい生き方だ、これからはゲイライフだということになると自分のアイデンティティが揺らぎますので、カミングアウト不要論になるわけです。ぼくらはすっかりそういう連中を「キモいオッサン」呼ばわりして、邪険に扱ってきましたので、どうもカミングアウト不要論には敏感になるわけです。まあ、実際にゲイバーで「結婚はしないとダメだ」とか「親にカミングアウトするなんて、そんな親不孝なことはするもんじゃない」とか説教をされたりしたって経験もあるわけですね(^^;;。
 つまり、カミングアウト不要論は、カミングアウトしていない自分を擁護しようとする文脈でつかわれる論法です。 

 ぼくは「継続的なカミングアウト必要論」です。だれでも、気軽にカミングアウトして、社会的に受容されて生きていく方向性です。あ、付け足しておくと、もちろん実際にカミングアウトをするかどうかは自己選択ですよ。


>どうして継続できなかったのか。その理由はなんなのか。
>どうして価値のある&意義のある活動が「散発的に」しか行われずに
>現在にまで至ってしまっているのか。すごく関心があります。
>そこが「ボランティアとしての活動」の限界なのかもしれませんが。

というわけで、時流を見極めて、正当な主張をするというのは、案外簡単ではないのですよ。最先端でがんばっていた人たちが、飽きられていくとともにどんどん内部崩壊をしていくのを見ていると、本当に自戒に自戒を重ねないと明日のわが身。
どこかにクールな視点をもっていないとだれでもすぐに落ちてしまうアリ地獄です。70%の支持率で出発しても、ちょっとした舵取りで数ヶ月で50%を割り込むことだってあるわけですよね。

もちろん、金にならないというのは、だいたいにおいて負に働きますが、逆に失うものがない強みにもなります。いくつかの日本の差別問題のように金が絡んじゃうと大変っすよ。金がないとなると、わりと純粋な気持ちで、アクティビズムに取り組めたりもする。

とはいえ、僕自身のことをいうと、お金がなさ過ぎてそれどころではないので、自分の生活基盤を安定させることが最優先課題ですw。まあ、ゲイ・コミュニティにはそれなりに貢献してるんだから、許してちょ。(^^;;

>やはり社会的・政治的に、ある程度の「発言力」を持った組織が
>存在し続けていないと
>力の均衡が取れませんし、負けてしまうと思うんですよね。
>どうすればLGBT主体でそういった
>「政治的な力を持った組織体」のようなものを存在させ、継続できるのか。

>せっかくゲイのネットワークは多業種に渡って幅広いわけだし
>「異性愛しかないと思っている社会に一石を投じたい」という強い理念で
>結び合うことは可能なんだから
>そろそろ、現実問題として「継続するためのシステム」を
>構築しなければならないのではないかと思います。

アメリカでは割と理念で結び合ってるところがあるんですけど、日本は弱いよね。まあ、宗教的な背景がなく、なんとなく周囲に同じような価値観の人間をそろえて、その小さな「世間」で満足してるっていうのが、日本の現状ですよね。
専門職の団体がもうちょっといろいろ出来てもよかろうと思うんだけど、医師を中心としたAGP、学校の先生たちの小さな団体くらいしかないわけです。法律家のグループやら、音楽家のグループやら、いろいろ出来ても良さそうなんだけどね。このあたりはまあ、なるようにしかなりまへん。いまのままでは、尾辻さんがでてきて、先行世代がやってくれたことを復習しました、といって終わりそうです。いろんなところで、いろんな動きがあるといいですね。

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