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NHKの職員がホモ痴漢

2006年12月18日 04時08分49秒 | セクシュアリティと社会ニュース
読売新聞や、Japan Gay Newsに記事が出ていました。
 痴漢行為はもちろんいけませんし、それを捕まえた大学生も立派と思います。
 この事件について、mixiの日記で記事アップから数時間で250もの日記に意見がアップされました。その内容は大多数は、この事件に対する気持ち悪さや不快感を表明するものです。
 ジェンダーフリーや男女共同参画なんかについてもそうですが、バックラッシュ派が攻勢を強めているなかでの記事で、いまの日本人の多くが感じていることを正直に表現したものだと考えられます。こういうところには、「多様性フォビア」のようなものが感じられます。

 ノンケ男子のみなさんからすれば、自分が性の対象であることを常時意識することはありませんので、それを意識せざるを得ないような事件には拒否感をもってしまうわけです。もちろん、ノンケ男子のみなさんは女性を性の対象としてみていて、中には痴漢行為にいたる人間もいるわけです。ゲイが痴漢行為にいたってしまうのは、同等に悪い行為です。同等に悪いのですが、とくに関心を集めてしまう。


 こうした事件に対して、これまでのアクティビズムの一部はつぎのようにいっていました。

「異性愛者の痴漢犯罪も多数検挙されている中で、同性愛者の痴漢行為だけを特別視するのはおかしい。お前たちノンケ男子が女性をどんな目で見ているかを、見られることを通して確認せよ」

 こうした論点のすり替えは一部のフェミニストの得意技です。こうした言説が効力を持ったのは、「人権」意識が高まっていて、多くの人が同性愛を差別したり偏見を持ったりしてはいけないということを意識している場合に限られます。
 しかし、現状のジェンダーフリー・バッシングを経た「多様性フォビア」のような状態にたいしては、これは効力をもちません。つまり、「自分が男性の性の対象となる」ということに対する気持ち悪さというものを持つのは自然な感情であり、多くの男性が思いがけずそう思ってしまうものであり、それを「素直に」表明することが社会的に責められない状況ができているわけです。アクティビズムはこれまで「何を思おうと勝手だが、何を表現するかというところには人権意識が必要である」というふうなことを言ってきたわけですが、その人権意識のほうの基準が恣意的に上下してしまうわけですね。

 そして、こういうニュースを見るにつけ、「多様性を容認した場合には、こうした輩が続々と輩出され、自分たちの身の安全が保障されなくなってしまう」という主張になってでてくる。

 そこで、私たちの側も、多少、言説をリニューアルし、多様性を容認したからといって、君たちの心配は杞憂ですよということを発信する必要があるのではないかと思います。

 「社会の中には、一定の割合でゲイは存在していて、その中にはある種の欲望をコントロールできない人間も存在している。それは、ノンケのみなさんのなかにある種の欲望をコントロールできない人間がいるのと同じことである。したがって同性愛者を容認したら同性愛者が増えたり、同性愛者の性犯罪が増えることはないと思われる。すでに内在している同性愛者が問題を起こしているのであって、同性愛者が顕在化したからといって同性愛者の数や同性愛者の性犯罪が増えることはないだろう」

 というふうなところじゃないかと、考えてみました。
 みなさんはいかがお考えですか?

 



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