白梅第一号を皆様のお手許にお届けいたします。
内容が会の事業のみになりましたが、もっと幅広い、菅谷の今昔、移り住んだ方のふるさとの思い出、主婦の生活の智恵等もお寄せ下さい。
又編集についての御意見等、よりよい“白梅”が発行出来ますよう御協力いたゞきたいと思います。
離りては相寄り漁りの作業する
小舟の群れに海は明けゆく
漁了えし舟にまつわり餌をあさる
海鳥に舟着場はしばし賑わう
洞窟の闇とどろかし熱泉は
檜の樋走る湯けむり立てて
政事(まつりごと)に疲れし心身いかばかり
慰めしならん神の走り湯
波寄松に錦ヶ浦の失ないし
自然の姿杳(くら)く想えり
雨に濡れひときわ明るしどうだんの
小枝に芽吹きの気配漂う
出会う人みんな知人と思うらし
道ゆく嫗の深く腰折る
破壊と復興織りなせし昭和の幕引かる
この朝(あした)
降る雨の静けさ
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
『しらうめ』の原稿をお願いしますと言われた時から何を書こうかと色々考えた末、何もうかばず結局、部活動の報告となりました。婦人会に入会して九年をむかえ、年月の早さにビックリしている今日この頃です。昨年につづいて今年と二年間レク部を担当させていただきました。私なりに充実したレク部活動をしてきたつもりでいます。今年度のレク部活動を明記させていただきます。昨年度に続いて
一、フォークダンス
二、ボーリング大会
三、社交ダンス
四、新舞踊教室
五、新年会の余興
六、婦人団体指導者研修会
七、町民体育祭 フォークダンスの講師を引きうけました
八、高齢者学級
この様に一つ一つの行事が無事やってこれたのも、皆様の御協力があっての事だと心から感謝する次第です。また自分一人では何も出来ない私ですが、副部長さん達の協力が何よりもかけがえのない力添えであったことを心から感謝しております。どうもありがとうございました。今後の婦人会がますます発展されることを心からお祈りしております。これからも催し事にできる限り参加して心豊かに、また友達の輪が広がる事を楽しみにしていきたいと思っております。
菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月
広島に原爆が投下されてから四十五年目の昨年八月、私は広島を訪れました。
広島は水と緑のきれいな大都市に見事復興しているかのように見えましたが、原爆資料館に展示されている沢山の当時の写真、黒こげの衣服、熱風で形が変わってしまった茶わんや家具などが、訪れる人々に原爆の恐ろしさを必死で伝えているようでした。
平和公園を中心に街の中にある数々の碑、子を思う母の心が伝わってくる「嵐の中の母子像」異郷の地で遠い故郷に思いをよせながら無念の死をとげた朝鮮半島の人々の碑、見落としてしまいそうにひっそりと建っている無名の碑、手を合わすとこの人達の思いが伝わってくるようです。
又、今も後遺症に苦しみながら、死と戦いながら、言葉にはいいつくせないほどの様々なものと戦いながら、私達に「平和」の大切さを訴え続けている被爆者の人達。多くの人達が広島の悲惨な出来事を忘れないようにと力を合わせていました。
私は「平和」という言葉は十分理解しているつもりでしたが、広島の三日間で大きな衝撃を受けました。「平和」という言葉の重さ、深さ、大切さが心の中に大きく染み渡ってきました。いくら流しても流したりない位涙を流しました。
湾岸戦争が報じられた時、まっ先に広島の人々の心を思いました。悲しそうな顔が浮んできます。思いの届かぬくやしそうな顔が浮んできます。
戦争が終末した今、報じられているのは無残な戦争の傷跡、家を焼かれ、身寄りを殺され食べる物も満足にない人々の姿と、世界に与える自然破壊の大きさです。今のままでは美しい地球を次の世代に残す事ができないのではないかと心を痛めています。
海に流れ出た原油、それに汚染された生きものたち、火のついた油井から立ち登るまっ黒な煙、風に乗って世界各地に広がりどれだけ自然に影響を与えるのでしょう。
今、平和な日本に暮す事ができるのを、とても幸せに思っています。そして世界の国に一日も早く本当の平和が訪れるように願っています。
「私は平和を愛しています。」被爆者のこの声を皆さんにお届けします。
菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月