“死がふたりを分つまで” このことばが私の思いの中で顔を抬(もた)げはじめたのは今年になってからでした。
祝宴のない新年を迎え、ひっそりとした家うちで去年の今頃はと一年前が時を刻みながら去来するうちに冒頭のことばが浮かんできたのはごく自然の成りゆきのような気がします。
四九年三か月の二人の生活が終ってしまったという虚脱感から脱け出すのは容易ではありませんが、別れを実感として受け容れられることばとして、“死がふたりを分つまで”は夫が最期に私に伝えたかった言葉だったのではないかと思えるのです。
夫は定年退職後四年にしてパーキンソン病と診断されました。退職を楽しみにして描いた夢のすべてを失わざるを得なかったのはどれほど無念であったか計りしれません。
日課であったピアノが弾けなくなったのは信じられないことでした。体の不調を訴えるでもなく、意欲の殆どをなくしたような日々がつづきました。退職後は健康診断の機会もなかったのっで、その程度の診察のつもりで、医者ぎらいの夫を無理に連れ出しました。その結果、パーキンソン病と診断されました。
戸惑いはあったものの不調の原因がはっきりわかったことでそれなりの落ち着きをとり戻すことができました。
大好きな散歩道で野鳥や草花に出会い、沼や川で魚影を追う楽しみも復活して四季の移ろいを愛でる歳月も数回巡ってきました。
パーキンソン病は難病のひとつで完治のための治療法はなく、進行を遅らせる対症療法しかないことがわかりました。その薬も幻覚幻聴の副作用があると聞いていたので服薬は避けていました。
その間に症状は確実に進行していきました。いざとなったら、かねてから決めていた順天堂のM先生を初診で訪れました。
待合室はパーキンソンの患者が殆どであることは一目瞭然で、付き添う夫や妻は高齢に近く、誰もが難い表情です。待つ間にも振戦【しんせん。筋肉がかたくなり、動作が緩慢になり、指がふるえるなどの症状】がはじまる人もいて、あらためてこの病気の患者の多いことを知ることになりました。
薬を飲みはじめてからは効果があり、再びおだやかな生活が戻ってきましたが、徐々に増量する薬も限界となる頃には、パーキンソン病の特長である運動障害が現われるようなりました。
もはや自宅療養の域を越え入院の止むなきに至ったのは一九九九年の夏でした。初めての入院です。
当日は自宅を出発してから御茶の水の病院までほぼ一時間の行程です。息子の運転で助手席にすわり、ドライブ気分で楽しそうにお喋りしていた夫が急に黙りこくり表情が一変しています。「もうすぐよ、もうすぐよ!」と励ましつづけながら、到着と同時に病室へ直行となりました。頭部を冷やし、水分補給でどうにか回復しました。そんなアクシデントに見舞われて、夫にしてみればいつの間にか入院患者になっていたということでしょう。
以後入院は八か月にもなりましたが、リハビリの効果も顕著で退院の頃は、車椅子で病棟の廊下を散歩気分で探索する楽しみを覚えていました。
介助の手があったとはいいながら、夫が初めて自分の脚で立ち上がったのを見た私は、場所も忘れて溢れる涙をどう止めようもありませんでした。それは病気が完治したと思えるほどの嬉しさだったのです。
翌春に退院し、自宅で暮らすようになってからは、表情も明かるくなって、食事も待ち遠しいほど食欲も出てみるみる元気をとり戻していきました。ヘルパーさんや訪問看護婦さんを依頼しての在宅看護のスタートでした。
順天堂から三か月後にはリハビリ専門の病院へ転院していましたので、渋滞する国道を二時間かけてただひたすら走るだけの毎日でしたから、それから解放された私にとってもこの退院は楽しい介護生活の始まりとなりました。
その楽しい介護生活も四年で終ってしまいました。入退院を繰り返しながらの四年間でしたが、いまふり返ってみるとこの時の生活は二人にとってもっとも密度の濃い時間であったと思います。
あるがままの夫と共に過した介護といわれる生活は、私にとって何にも代えがたい貴重な歳月でした。
最期の入院となった三か月は、人工呼吸器のついた重篤状態のままでした。命の時を刻む呼吸器の音や、モニターの数字を見つめるだけの重苦しい病室でした。
人間の五感のうち聴力は最期まで残ると聞いて、病室にCDを持ちこみました。クラシックが流れる病室をナースの皆さんも喜んで、私が病室へ着く頃は音楽がすでに聞こえていることもありました。
ある時、「モーツアルトのソナタよ」と夫の耳もとで言ってみました。すると彼の唇がモーツアルトとはっきりわかるほどに動いたのです。鎮静剤が弱くなっている時は意識が戻ることもあり、そんな時に「早く帰ってピアノを弾きましょうね」と声をかけると、閉じた瞼がピクピクと動いて、いかにも「うん」と応じてくれたようでした。まだ自宅のベッドにいた頃のことですが、当時難聴に悩んでいた私は、彼の聴力を羨ましいと言うと「神さまから与えられた耳だから…」と当然のように言いましたが、本当にそうであったと信じられるエピソードは幾つもあります。
夫がもっとも好んだ聖句があります。
“われらの顧みるところは見ゆるものにあらず見えぬものなればなり。見ゆるものは暫時(しばらく)にして見えぬものは永遠(とこしえ)に至るなり。”- コリント後書四・一六~一八
彼は音楽に永遠を求め、職業として携わった教育もまた真髄においては永遠であることを望んでいたと思います。
病気については多くを語りませんでしたが、きびしい現実は彼なりに受けとめていたようです。それは信仰であったり、音楽であったり、永遠なるものの支えが日常的に存在したからではないでしょうか。
青年期の結核治療で片肺の機能しかなかった夫にとって重篤の三か月はほんとうの闘病となりました。
積極的治療を試みる担当医は、頃を見はからって呼吸器をはづすことがありました。それはホンの一、二時間であったり、半日であったりしましたが自力呼吸へ挑んだのです。また呼吸停止の危機が二度もありましたが、適切な処置があったからとはいえ、みごとに克服したのです。
意識がないながらも、まさに病と闘った三か月でした。
召される日が近づいていると知ってから、私は叶うものならばそうあってほしいと願うことがありました。それは教会の赤司先生に枕頭でお祈りをしていただくことでした。先生もご病気で外出もままならないと伺っていましたので、叶うはずのない願いだったのです。
赤司先生ご夫妻が病室へ姿をお見せになったのは突然のことでした。信じがたいことでした。私の願いが通じたのです。
「君は幸せな人生を全うしようとしている。家族に見守られて、君は幸せだ。」と友人としての別れを告げたあと、祈りを捧げて下さいました。私は滂沱(ぼうだ)の涙で心の底から泣きました。
こよなく愛した花に埋もれ、オルガン奏楽と賛美歌の流れる式場は武谷六郎の葬送にもっともふさわしいものとなりました。
清楚でおだやかで、優しさに溢れた葬儀だったと後日に届いた感想は、限りない悲しみのさ中にあった私に大きな慰めを与えてくれました。
幼くして別れた父と、突然に逝ってしまった母とにま見え、睦まじく寄り添い一別以来の尽きない話を語り合う三人の姿が浮かびます。永遠の安らぎを得て晴々とした夫の面影です。
“いかなる時もお互いに信じ合い、愛し支え合う、死がふたりを分つまで”と誓った結婚の時が一章であり、半世紀の後に画くこの追悼の一文が終章となりました。
かりに私が介護を全うできたとするならば、大勢の方達が私に力を与えて下さったからです。そして時に萎えそうになる私を最期まで支えつづけて下さった多くの隣人がいたことです。
日本自由キリスト教会『教会報』2004年5月特別号