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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

永遠なるもの 2004年5月

2008-10-10 10:08:41 | 2004年

 “死がふたりを分つまで” このことばが私の思いの中で顔を抬(もた)げはじめたのは今年になってからでした。
 祝宴のない新年を迎え、ひっそりとした家うちで去年の今頃はと一年前が時を刻みながら去来するうちに冒頭のことばが浮かんできたのはごく自然の成りゆきのような気がします。
 四九年三か月の二人の生活が終ってしまったという虚脱感から脱け出すのは容易ではありませんが、別れを実感として受け容れられることばとして、“死がふたりを分つまで”は夫が最期に私に伝えたかった言葉だったのではないかと思えるのです。
 夫は定年退職後四年にしてパーキンソン病と診断されました。退職を楽しみにして描いた夢のすべてを失わざるを得なかったのはどれほど無念であったか計りしれません。
 日課であったピアノが弾けなくなったのは信じられないことでした。体の不調を訴えるでもなく、意欲の殆どをなくしたような日々がつづきました。退職後は健康診断の機会もなかったのっで、その程度の診察のつもりで、医者ぎらいの夫を無理に連れ出しました。その結果、パーキンソン病と診断されました。
 戸惑いはあったものの不調の原因がはっきりわかったことでそれなりの落ち着きをとり戻すことができました。
 大好きな散歩道で野鳥や草花に出会い、沼や川で魚影を追う楽しみも復活して四季の移ろいを愛でる歳月も数回巡ってきました。
 パーキンソン病は難病のひとつで完治のための治療法はなく、進行を遅らせる対症療法しかないことがわかりました。その薬も幻覚幻聴の副作用があると聞いていたので服薬は避けていました。
 その間に症状は確実に進行していきました。いざとなったら、かねてから決めていた順天堂のM先生を初診で訪れました。
 待合室はパーキンソンの患者が殆どであることは一目瞭然で、付き添う夫や妻は高齢に近く、誰もが難い表情です。待つ間にも振戦【しんせん。筋肉がかたくなり、動作が緩慢になり、指がふるえるなどの症状】がはじまる人もいて、あらためてこの病気の患者の多いことを知ることになりました。
 薬を飲みはじめてからは効果があり、再びおだやかな生活が戻ってきましたが、徐々に増量する薬も限界となる頃には、パーキンソン病の特長である運動障害が現われるようなりました。
 もはや自宅療養の域を越え入院の止むなきに至ったのは一九九九年の夏でした。初めての入院です。
 当日は自宅を出発してから御茶の水の病院までほぼ一時間の行程です。息子の運転で助手席にすわり、ドライブ気分で楽しそうにお喋りしていた夫が急に黙りこくり表情が一変しています。「もうすぐよ、もうすぐよ!」と励ましつづけながら、到着と同時に病室へ直行となりました。頭部を冷やし、水分補給でどうにか回復しました。そんなアクシデントに見舞われて、夫にしてみればいつの間にか入院患者になっていたということでしょう。
 以後入院は八か月にもなりましたが、リハビリの効果も顕著で退院の頃は、車椅子で病棟の廊下を散歩気分で探索する楽しみを覚えていました。
 介助の手があったとはいいながら、夫が初めて自分の脚で立ち上がったのを見た私は、場所も忘れて溢れる涙をどう止めようもありませんでした。それは病気が完治したと思えるほどの嬉しさだったのです。
 翌春に退院し、自宅で暮らすようになってからは、表情も明かるくなって、食事も待ち遠しいほど食欲も出てみるみる元気をとり戻していきました。ヘルパーさんや訪問看護婦さんを依頼しての在宅看護のスタートでした。
 順天堂から三か月後にはリハビリ専門の病院へ転院していましたので、渋滞する国道を二時間かけてただひたすら走るだけの毎日でしたから、それから解放された私にとってもこの退院は楽しい介護生活の始まりとなりました。
 その楽しい介護生活も四年で終ってしまいました。入退院を繰り返しながらの四年間でしたが、いまふり返ってみるとこの時の生活は二人にとってもっとも密度の濃い時間であったと思います。
 あるがままの夫と共に過した介護といわれる生活は、私にとって何にも代えがたい貴重な歳月でした。
 最期の入院となった三か月は、人工呼吸器のついた重篤状態のままでした。命の時を刻む呼吸器の音や、モニターの数字を見つめるだけの重苦しい病室でした。
 人間の五感のうち聴力は最期まで残ると聞いて、病室にCDを持ちこみました。クラシックが流れる病室をナースの皆さんも喜んで、私が病室へ着く頃は音楽がすでに聞こえていることもありました。
 ある時、「モーツアルトのソナタよ」と夫の耳もとで言ってみました。すると彼の唇がモーツアルトとはっきりわかるほどに動いたのです。鎮静剤が弱くなっている時は意識が戻ることもあり、そんな時に「早く帰ってピアノを弾きましょうね」と声をかけると、閉じた瞼がピクピクと動いて、いかにも「うん」と応じてくれたようでした。まだ自宅のベッドにいた頃のことですが、当時難聴に悩んでいた私は、彼の聴力を羨ましいと言うと「神さまから与えられた耳だから…」と当然のように言いましたが、本当にそうであったと信じられるエピソードは幾つもあります。
 夫がもっとも好んだ聖句があります。
 “われらの顧みるところは見ゆるものにあらず見えぬものなればなり。見ゆるものは暫時(しばらく)にして見えぬものは永遠(とこしえ)に至るなり。”- コリント後書四・一六~一八
 彼は音楽に永遠を求め、職業として携わった教育もまた真髄においては永遠であることを望んでいたと思います。
 病気については多くを語りませんでしたが、きびしい現実は彼なりに受けとめていたようです。それは信仰であったり、音楽であったり、永遠なるものの支えが日常的に存在したからではないでしょうか。
 青年期の結核治療で片肺の機能しかなかった夫にとって重篤の三か月はほんとうの闘病となりました。
 積極的治療を試みる担当医は、頃を見はからって呼吸器をはづすことがありました。それはホンの一、二時間であったり、半日であったりしましたが自力呼吸へ挑んだのです。また呼吸停止の危機が二度もありましたが、適切な処置があったからとはいえ、みごとに克服したのです。
 意識がないながらも、まさに病と闘った三か月でした。
 召される日が近づいていると知ってから、私は叶うものならばそうあってほしいと願うことがありました。それは教会の赤司先生に枕頭でお祈りをしていただくことでした。先生もご病気で外出もままならないと伺っていましたので、叶うはずのない願いだったのです。
 赤司先生ご夫妻が病室へ姿をお見せになったのは突然のことでした。信じがたいことでした。私の願いが通じたのです。
 「君は幸せな人生を全うしようとしている。家族に見守られて、君は幸せだ。」と友人としての別れを告げたあと、祈りを捧げて下さいました。私は滂沱(ぼうだ)の涙で心の底から泣きました。
 こよなく愛した花に埋もれ、オルガン奏楽と賛美歌の流れる式場は武谷六郎の葬送にもっともふさわしいものとなりました。
 清楚でおだやかで、優しさに溢れた葬儀だったと後日に届いた感想は、限りない悲しみのさ中にあった私に大きな慰めを与えてくれました。
 幼くして別れた父と、突然に逝ってしまった母とにま見え、睦まじく寄り添い一別以来の尽きない話を語り合う三人の姿が浮かびます。永遠の安らぎを得て晴々とした夫の面影です。
 “いかなる時もお互いに信じ合い、愛し支え合う、死がふたりを分つまで”と誓った結婚の時が一章であり、半世紀の後に画くこの追悼の一文が終章となりました。

 かりに私が介護を全うできたとするならば、大勢の方達が私に力を与えて下さったからです。そして時に萎えそうになる私を最期まで支えつづけて下さった多くの隣人がいたことです。
     日本自由キリスト教会『教会報』2004年5月特別号


武谷六郎略歴

2008-10-10 10:07:35 | 2004年

 大正十四年(1925)、東京品川にて、父武谷巌(いわお)母久(ひさ)のご長男としてご出生。姉お二人、妹お二人のまんなかの五人姉弟でした。ご尊父様は開業医をしておられましたが、故人九歳の時に他界されました。早くに父親を亡くされ、あとご母堂様によって育てられました。
 昭和十二年(1937)には中国大陸では日中の全面戦争が始まり、更に昭和十六年(1941)には太平洋戦争が勃発いたしました。故人の中学生時代のことです。国内の食糧はすでに欠乏しており、戦争の苛烈さに伴って敗戦も濃厚になっていました。この戦局では学校どころではなく、故人も立川か国立あたりの軍需工場に動員されておりました。子供五人を抱えた母お一人のご家庭でのご苦労は大変であったと拝察されます。B29による空襲によって東京も焼野ヶ原と化していくなか、大田区雪ヶ谷のお宅の一角は幸いにも戦火を免れました。
 昭和二十年(1945)八月、敗戦。故人六郎さんも学校に復帰されました。昭和二十五年(1950)三月、青山学院大学英文科をご卒業になりました。その年の四月、東京慈恵会医科大学附属高等学校に英語の先生としてご就職になりました。同校で音楽も教えられました。
 昭和二十八年(1953)一月十日、六郎さんは赤司繁太郎牧師司会のもとに村井敏子さんとご結婚、ご子息克彦さん、昭彦さんお二人に恵まれました。
 慈恵高等学校は当初医科大学に進学する「医進コース」にする計画がありましたが、それが設立できなかったために、開校四年にして廃校の止むなきに至りました。その後昭和三十三年(1958)三月、東京文京区の京華学園高等学校に就職、同校を定年退職まで。慈恵高等学校に始まってこのご退職まで実に三十七年もの長きにわたって、英語の先生として、或は担任としても生徒たちの敬愛を受け、教育に専心されました*。ここ埼玉県の嵐山町杉山に昭和四十七年(1972)十二月二十四日のクリスマス・イーヴに移られてからは十五年、遠距離にある学校まで雨の日も風の日も、雪の日も、冬場は家を出られたときはまだ夜も明けぬ暗いうちから、本当によく通勤されたと思います。退職されてからは悠々自適の生活を楽しんでおられました。在職中も退職されてからも教会の責任役員として教会運営にも参画され、また日曜礼拝にもオルガン奏楽を担当されましたことは感謝の外ありません。六郎さんがつむぎ出すオルガンの美しいハーモニーは、宗教的な荘厳さと神への橋渡しをする奥深さを兼ねそなえていました。
 退職後、思いがけないパーキンソン病に罹病、ご自宅や病院での療養生活を余儀なくされました。去る二〇〇三年三月三〇日夕、急性腎不全を併発され、医師会病院で帰らぬ人となられました。この長い闘病生活は手篤い医療と看護、特に敏子夫人のご介護はただただ頭が下るばかりで、六郎さんの病を抱えながらの七十八年近いご生涯を完うされましたのも、ご本人の忍耐力、篤い信仰心と共に、その至れり盡せりの奥様のお力なしには考えられません。またご姉妹をはじめ、周囲の皆様の支え、篤い祈り、故人のそれらの方方への感謝があったればこそと思います。
 武谷六郎さんの七十七年九ヶ月のご略歴を申し上げましたが、親しい友人の一人として故人との交わりをしみじみと顧みますとき、六郎さんの周りには一つも争いごととてなく、つらい病のなかにもどこまでも穏やかで平和で、イエスのあの山上の垂訓の一節を思い起こさせます。
 「幸いなるかな柔和なる者、その人は地を嗣がん。幸いなるかな平和ならしむる者、その人は神の子ととなえられん。幸いなるかな心の清き者、その人は神を見ん。」
 武谷六郎さんは本当に神を見ておられたのだと思います。
 また、彼が好きであった、皆様と先程ご一緒に歌った「母ぎみにまさる友や世にある」のあの歌詞はそのまま故人の人となりであったと思います。
 「母ぎみにまさる友や世にある/ゑまひも涙もともにわかちて/夕べの祈りにこころをあはす/母ぎみにまさる友や世にある」
 女手一つで育てられた母久様、常に寄りそって支えられた奥様敏子さまへの盡きせぬ思いを心に抱いておられた故人の幸せなご生涯。
 神与え、神とり給う、とは申せ、いかにも惜しい方を私どもは失いました。
 故人、武谷六郎さんに、いま改めて深く深くご厚誼を感謝申し上げたく存じます。(葬儀司式者赤司繁雄)

葬儀において司式者が述べた故人の略歴。司式者は故人の同年代の友人であり、中学在学中は同学年、また後年慈恵会医科大学附属慈恵高等学校の教職では同僚でもありました。日本自由キリスト教会『教会報』2004年5月特別号より。
*勤務校:1950年(昭和25)4月~1954年3月 慈恵医科大学付属慈恵高等学校。
       1954年(昭和29)4月~1963年3月 東京女子学園高等学校。
        1963年(昭和38)4月~1971年9月 京華中学校。
        1971年(昭和46)10月~1986年(昭和61)3月 京華女子高等学校。