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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

菅谷婦人会『しらうめ』第11号(1990年4月)目次

2010-12-27 19:29:00 | 『しらうめ』11号(1990)

●思いつくままに 中村きみ

●“木曾義仲ゆかりの会”のこと 嵐山町長・関根昭二

●信頼 嵐山町教育長・飯島留一

●一人ひとりの生きがいを求めて 社会教育課長・小沢勝

●比企郡市婦人会幹部研修会に参加して 西澤洋子

●婦人と同和問題 小久保泰枝

●鎌倉を見学して 菅谷八区・澤田美栄子

●人生、縦糸と横糸 平沢・奥平正子

●秋の研修旅行 体育部 澤エツ子

●文化部活動報告 文化部 鴻野与史恵

●レクリエーション部の報告 レク部 根岸ひろ子

●埼玉の歌人三ヶ島葭子について 佐々木ユ基

●自然が大好き 菅谷九区・村瀬信子

●自然を守ろう 嶋田文代

●坐忘 菅谷四区・松本茂子

●第二の子育て 細井秀代

●川柳 小澤喜美子

●『しらうめ』第11号編集後記


レクリエーション部の報告 レク部 根岸ひろ子 1990年

2010-12-27 19:25:52 | 『しらうめ』11号(1990)

 『しらうめ』の原稿をお願いしますと言われた時から何を書こうかと色々考えた末、何もうかばず結局、部活動の報告となりました。婦人会に入会して九年をむかえ、年月の早さにビックリしている今日この頃です。昨年につづいて今年と二年間レク部を担当させていただきました。私なりに充実したレク部活動をしてきたつもりでいます。今年度のレク部活動を明記させていただきます。昨年度に続いて
一、フォークダンス
二、ボーリング大会
三、社交ダンス
四、新舞踊教室
五、新年会の余興
六、婦人団体指導者研修会
七、町民体育祭        フォークダンスの講師を引きうけました
八、高齢者学級
 この様に一つ一つの行事が無事やってこれたのも、皆様の御協力があっての事だと心から感謝する次第です。また自分一人では何も出来ない私ですが、副部長さん達の協力が何よりもかけがえのない力添えであったことを心から感謝しております。どうもありがとうございました。今後の婦人会がますます発展されることを心からお祈りしております。これからも催し事にできる限り参加して心豊かに、また友達の輪が広がる事を楽しみにしていきたいと思っております。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


『しらうめ』第11号編集後記 1990年

2010-07-26 21:02:58 | 『しらうめ』11号(1990)

 平成の時代も二年目に入り、その呼び方にようやく慣れた今日この頃です。
 大変遅くなりましたが、『しらうめ』十一号をお届けします。
 今、世界情勢はめまぐるしく変化しています。ドイツでは東西の統一が実現し、ベルリンの壁が取り除かれるという画期的な出来事が起りました。新しい時代の幕開けは“生みの苦しみ”のように思えます。私達の周りにも老後のこと、環境汚染など色々な問題がたくさんあります。皆で学習し合い、人間関係の縦と横のつながりを密にして、どうしたら心豊かに生きられるか、考えていきたいと思います。
 お忙しい中、原稿をお寄せ下さいました皆様ありがとうございました。(青木記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


川柳 小澤喜美子 1990年

2010-07-25 11:48:30 | 『しらうめ』11号(1990)

娘のお古着るとお世辞に又で会う

落ち込みを電話のベルに救われる

風邪の床つくづく独りだと悟り

下宿屋でないのと娘等に活を入れ

粗大ゴミ出すのに母子家庭疲れ

ある意味の亡夫が恋しいおぼろ月

肩の凝り寡婦の意地だけかも知れず

父の日の母に優しい母子家庭

紅を引くこれから墓参するひとに

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


第二の子育て 細井秀代 1990年

2010-07-24 11:44:00 | 『しらうめ』11号(1990)

 還暦をすぎ、のんびり余生をと思っていたところ、やむをえない事情で、主婦業と子育てに専念しなければならなくなった。
 さて、第二の子育てともなると、いろいろと苦労が多い。幼い時には素直に云うことを聞いていたが小学生にもなると、なかなか一筋縄ではいかない。悪知恵のせいか反抗することも多くなってきている。若い頃は、力でねじ伏せるということも出来たが、今では、それも不可能になった。
 さりとて理屈には、屁理屈で対抗してきて、なかなか手強い、悪戦苦闘の毎日である。しかし乍ら、体調をくずした時の孫の気づかいがあり、充実した毎日かとも思う。この先も第二の子育てが終了する迄、老いるわけにはいかず、孫とのコミュニケーションをとり乍ら健康に留意し、余生を有意義に頑張って行き度い。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


坐忘 菅谷四区・松本茂子 1990年

2010-07-23 07:00:04 | 『しらうめ』11号(1990)

 薄紫のアジサイが咲き乱れる庭に初夏を感じさせるようなさわやかな風が吹き過ぎて行きました。
 人間も六十才を過ぎると、ぼけがそっとしのびよって来るのでしょうか。ともすれば物忘れの激しい自分にいや気がさして来たりします。昔の人の言葉に歳をとれば自然に忘れっぽくなることが若い人のためによいとか言ったのを思い出しました。今朝ラジオで或る大会社の社長さんとニュースキャスターの方とが対談しているのを聞いたのですが、その社長さんは、居間に『坐忘』(ざぼう)と書いて置くのだそうです。そして忘れてよいものは忘れる事だと申して居りました。私達が日常、見たり聞いたりして失望したり、悲しんだり、はては人を憎んだりすることが多々あります。自分に決してプラスにならないものは忘れてしまいなさいと言う事です。忘れてよいものを忘れられず思い悩み、こだわりつづけている事に気がつきました。
 まだまだ修業の足りない自分に恥じ、深く反省しました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


自然を守ろう 嶋田文代 1990年

2010-07-22 07:02:21 | 『しらうめ』11号(1990)

 近頃、自然破壊が深刻な問題になっています。フロンガスによりオゾン層が破壊されたり、地球上の緑が、酸性雨や伐採によりどんどん減ってきています。美しい自然を守るために、私たち一人一人ができることはどんなことでしょうか。まず資源を無駄にしないよう努力することだと思います。割りばしを使わないとか牛乳パックのリサイクルをするとか、そういった身近なことから始めれば最初は小さな力でもいずれは大きな力となって一本でも多くの木が守れるのではないかと思います。
 川も今では生活排水のためにずい分汚染されています。私が幼い頃遊んだ川には、シジミや魚がたくさんいましたが、今ではほとんど生き物が見当たりません。土手いっぱいに春を告げた土筆やネコヤナギの木も、すっかり無くなってしまい、代わりに冷たいブロックが積み重なっているばかりです。
 経済効率のために、どんどん自然が破壊されていくのは残念でたまりません。“ふるさと”の歌にある山や川はいつまえも現実に残しておきたいものです。自分の子供たちへ豊かな自然を残してあげることが親としての義務だと思いますが、今ではそれも困難な時代になっています。
 食品添加物や農薬による食品汚染、合成洗剤による水の汚染、排気ガスによる空気汚染、放射能や原発の問題等、数えたらきりがない程、今は危険がいっぱいです。どうしたらその危険から身を守れるか、それを少しずつ学んでいこうと思っています。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


自然が大好き 菅谷九区・村瀬信子 1990年

2010-07-21 06:59:00 | 『しらうめ』11号(1990)

 嵐山町は自然に恵まれた住みよい町です。
 二十年前、夫の転勤と共に見知らぬ土地へ思い切って移って来たのも、自然に魅せられたからでした。長い間には、それも見違えるように変わり、かずかずの文化施設と引き替えに、雑木林はどんどん少なくなりました。
 しかし昨年は、ふるさと創生の一億円を、オオムラサキの里づくりや、大平山の整備など、自然を守るために使われるようになって少し安心しました。
 オオムラサキとの出会いは、町民文化大学のビデオを見て感動し、近くにすばらしい活動センターが出来たのがきっかけで、「育てる会」へも入会しました。昆虫のことは不勉強で、未だにちっともわからないまま、昔のように鳥や昆虫が自由にとびかう自然を育てる、と云うことに賛同しました。七、八月には立派な成虫になった美しい姿で、我が家にも遊びに来ます。すぐ近くに雑木林がこんもり繁っているからです。
 都幾川辺りに植えられた桜は、十年もたつと立派な名所になるでしょう。ホタルの里や、バッタの原っぱなど、昔は何でもなかった風景が、お金をかけ、人出を使って作られてゆく世の中です。でもそれに気づいたからよかった、と思います。失ったものを元へもどすのは大変です。
 今までの日本は目ざましい発展を遂げるために、自然の優しさを忘れていたのかも知れません。ゴミ戦争が叫ばれ、環境が破壊されてやっとたどりついたのが、自然の有難さなのでしょうか。これ以上重症にならないうちに、自然を守るために、みんなが本気になる時が来たのだと思います。
 私は“自然”という言葉も大好きです。生き方にも自然体で、と思うようになったのは、歳のせいかも知れません。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


埼玉の歌人三ヶ島葭子について 佐々木ユ基 1990年

2010-07-20 06:55:00 | 『しらうめ』11号(1990)

  物ねだり肩につかまる幼児の
      手をおさえつつ文かこ果す
 女として、母として、そして歌人として後世に名を残した努力の生涯であった葭子(よしこ)にはこの一首に出会った時から心惹かれて居りました。その後、葭子生誕百年の記念行事を機会に彼女にもう少し近づくことができました。葭子は生涯病魔と人間の性の渦の中で溺れることもなく、清く、美しく、つつましく、そしておおらかに「仏さまみたい」と評される生活をして四十二年の生涯を終えました。

(一)心に残る歌と県内にある葭子の歌碑の歌
  まず何をおぼえそむらむ負はれては
      かまどに燃ゆる火なぞ覗く子

  おとぎばなししつつたまたま共にねる
      吾子の手足の固くふとれり

  さかりゐる一人の吾子を思いつつ
      眼つぶりて飯かきこみぬ

  一本のからかさを人に貸してやり
      不自由しつつ心なごめり

  あきらめねばならぬすべなきうれいなり
      枕しなほしよくぞねむらむ

  しみじみと障子うす暗き家の外
      音たてて雨の降りいでにけり(所沢市内神明神社)

  春の雨けぶるけや木のこずえより
      をりをりつゆのかがやきておつ(三ヶ島 氷川神社)

(二)三ヶ島葭子と嵐山
 葭子の十八歳の日記 錦野(明治三十六年三月~五月)の中に現在の東松山市から東秩父村へ行く途中、嵐山町菅谷に立ち寄ったことが記されてあります。
 当時は松山=小川間を馬車が往復して居り菅谷の小島屋旅館が馬車の中継所でした。
 小島屋さんではその頃、県内に初めて浦和第一高等女学校ができたので二人の姉妹が一緒にそこに学んで居りました。その姉妹が浦和の寮から帰宅したところ、葭子は埼玉女子師範(現在の埼大)に在学して居り春休みを利用して、幼い頃父母と住んでいた東秩父へ、小川町青山の友人の案内で行く途中のことです。馬車の中継時間のひとときを、小島屋さんの二階にまで上げて頂いて家族の歓待を受けたということが記されてあります。
 これを読んで嵐山の人々は昔から親切で人間関係を大切にする人が多かったのだナーと思いました。僅か数行の文章から、当時の町の歴史の新しい発見をすることができました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


文化部活動報告 文化部 鴻野与史恵 1990年

2010-07-19 22:40:41 | 『しらうめ』11号(1990)

 五月十九日、婦人会館のお茶室で、今年度初めての行事としてお茶の会を開きました。会員の根岸千穂子さん、澤エツ子さんにお茶の戴き方を教えていただきながら、参加者三十一名は日頃の忙しさから離れて“静”の一時を過ごすことができました。

 八月三日 手芸教室
 うちわに和紙をつかったちぎり絵(アサガオ、キキョウ、ナス、キュウリ)を門倉先生に教えていただき、涼しげなすてきなうちわができ上がりました。夏休み中のため参加者がちょっぴり少なかったのが残念でした。

 九月二十八日 手編教室

 九月二十八日、十月五日、十二日、二十六日と四回にわたり、中村先生に教えていただきました。今回は婦人物セーター、カーディガンに紳士物も加え自分にフィットした素敵な型を選んで編んでみました。手編みの楽しさを味わいながら、秋の文化展に向けて、短期間で頑張ってよい作品を編み上げ出品しました。

 三月一日 料理教室
 文化部の最後の仕事として、婦人会館の調理室で近江先生にヘルシーな料理をご指導いただきました。
 メニューはいかめし、豆腐ステーキと小松菜の塩昆布あえ、かき玉汁とかぼちゃのおまんじゅうです。健康にもよく、簡単にできる料理ばかりなので、家庭で食卓をにぎわせてみてはいかがですか。

 以上が今年度文化部の活動でしたが、一年間無事に終わることができました。
 皆様、御協力をありがとうございました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


秋の研修旅行 体育部 澤エツ子 1990年

2010-07-18 09:13:19 | 『しらうめ』11号(1990)

 天覧山、竹寺と新しき村へ行きました。バスを降りて、約40分山路を歩いて、神仏分離以前の様式を今に残している、竹寺へ到着。車文化の時代に生活して歩く事の少なくなった会員一同、久しぶりの山歩きに少々疲れを感じました。山一面のもみじの素晴らしさに、しばし疲れを忘れて、鐘楼堂、竹のトンネル等とおもいおもいに散策をし、遅い秋をたのしみました。
 その後控の間で一服のお茶をいただき、いくつかのグループといっしょに広間で食事となりました。住職大野亮雄さんのユーモアあふれる法話の中に、人生訓や仏の話、又万葉植物の事等を勉強して季節感ある精進料理を野の花や和歌などのアクセサリー付きでいただきました。山歩きのせいか、またアクセサリーにだまされたのか一段とおいしくいただきました。
 帰路、毛呂山町の新しき村美術館に立ち寄り、実篤の温かく、人間味あふれる絵や書にふれまして、心の食事も充分においしくいただきました。
 朝方心配だった天気でしたが、とても良い日に恵まれ、また一面のもみじに迎えられて、たのしい一日をすごすことができました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


人生、縦糸と横糸 平沢・奥平正子 1990年

2010-07-17 09:10:00 | 『しらうめ』11号(1990)

 一日があっという間に終わり、一年三百六十五日も“光陰矢の如く”過ぎ去ってしまいました。それは、年間の内容が充実していた証拠とも言えますが、平沢の会員の皆様には、なみなみならぬ御協力を頂き、その団結力を、役員会へ運ぶパイプ役として一年をおくりました。
 年間通して様々な催しが多々ありましたが、その行事に携わる本部役員の方々のきめ細やかな心遣いが、裏方としてどれ程の苦労をなさっているのか痛切に感じました。本部役員の方々は苦労と思っていない様子でしたが、皆様には頭の下がる事ばかりでした。
 又、役員のどなたに限らず自分のできる腕前を出し惜しみすることなく、何かしらの料理を持参され、その都度ごちそうになり、年間通すと講習会でもできそうな気分でした。それから、一つの行事が決定して実行するまで、現地へ行って下見をして、当日スムーズに行く様に努力されている懸命さもけっして見のがせない一コマでした。
 この様に年間通して御指導頂き、参考になる事ばかりで、自然と縦のつながりが生じていたのです。
 そして顔は知っていても挨拶をする間柄でもなかった方々とも抵抗なく話し合えるという事は、もうそこへ横のつながりでスムーズに物事が運んでいたのです。又、私の周囲にはすばらしい先輩達と、そして優秀な人材の仲間達がいて“人生一人では生きていけない”“いつも誰かにお世話になっている”という証が本当に身にしみて感じ、自分のおかれている立場が、いかに幸福の場所であるかという事も再認識いたしました。
 一人で悩んでいる事も、三人よれば解決できることをモットーに会員一人一人が力を合わせて、婦人会の発展と向上に参加して頂ければと願っております。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


鎌倉を見学して 菅谷八区・澤田美栄子 1990年

2010-07-16 09:08:00 | 『しらうめ』11号(1990)

 鎌倉の旅、武蔵嵐山を八時頃の電車に乗ることにきまった。その日の朝、目をさますと天気が悪いので、がっかりする。“でもアジサイ寺は雨が少し降っていた方がいいのではないの”と娘にいわれ、それもそうだと思いながら支度をする。皆と電車で出かけるのも、久しぶりの事で、胸がわくわくする。電車の時間も皆遅れずに来る。楽しそうに話がはずみ、池袋には、すぐに着いてしまったように思う。北鎌倉に着き、明月院による。境内に数千株のアジサイが咲いている。紫の濃淡の花が参道にこぼれるように咲く光景はみごとである。この明月院とアジサイのかかわりは戦後のこと、荒れた境内に当時の住職が植えたのが始まりで紫陽花寺という名も最近のものであるという事です。
『境内にアジサイの花いちめんに紫色に咲く美しき』
 アジサイの花ばかりではなく、その他たくさんの花も咲いているという事である。明月院を出て、お店を見ながら鎌倉駅へ。とてもよい一日だった。今年もアジサイの季節がやって来る。皆様も一度行ってみてはいかがですか?何度行っても良い所です。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


婦人と同和問題 小久保泰枝 1990年

2010-07-15 09:06:00 | 『しらうめ』11号(1990)

 郡市地域婦人会のリーダー研修会が二月二十日、婦人会館で行われ、「婦人と同和問題」と題して講演がありました。講師は県教育局比企教育事務所の島村正義先生でした。その資料の中から詩をとりあげてみました。

     ふるさと     丸岡忠雄
  「ふるさとをかくす」ことを
  父はけもののような鋭さで覚えた
  ふるさとをあばかれ
  ふたたびかえらぬ友がいた
  ふるさとを告白し
  許婚者に去られた友がいた
  わが子よ お前には胸張って
  ふるさとを名のらせたい
  瞳をあげ 何のためらいもなく
  「これが私のふるさとです」と名のらせたい

 講演のなかで、それぞれの項目に分けての説明があり、その幾つかを取り上げてみます。

・同和問題とは
 差別は政治によってつくられ、それが社会の中に定着させられてしまったこと、差別意識や偏見が、封建時代に培われた家柄や男尊女卑、世間体などの古い考え方、見方が今もなお、生活の中に残ってしまっている。
 この偏見が迷信、因習、事実を確認せず、人から人へと伝えてしまう。そして作り上げてしまっていること。口を正しくふさぐことで、少しでも偏見を無くさなくてはならない。地域との付き合いから自己改革を。私達自身の心を変えなければ解決策はない。心を開いた近所付き合いが大切であり、食わず嫌いが多いことがわかる。多くの人との付き合いを広めることが大事である。

・差別解消は婦人の手で
 出世と死について(腹を痛めた子供たち)
 ある母親が子供が生れた時に子供を殺したかった。生まれた時から苦しみが始まった。毎日の生活の中で、常に地区を意識しながら生きてきた。寝ている時だけが自分を忘れた時だったという悲しい話まで出ました。

・教育と若者たち
 昭和四十四年(1969)にこの法律【同和対策事業特別措置法】が出来、同和教育が始まった。縁談を気にしていた母親達であったが、その子供達がこの教育を受けながら成長し、結婚適齢期を迎えた。一番障害になっている結婚に、だんだん古い殻を打ち破り、約六〇%の人達が幸せになっているのも、教育の成果と知ることが出来ました。

・地域のリーダーとして
 リーダーとは何なのか。知識を得ること。矛盾を感じること。不適当のものを発見すること。そして行動することである。
 正しいことをすることには勇気が必要である。不合理なことがあったら勇気を出して言うことが家庭円満への道。この問題を解決することが全ての地域婦人会の活動の上での発展につながるということでした。人間が相互に支えあい、さまざまな障害や差別に苦しむ人達に対する温かい思いやりをもつことが、豊かな社会を築く上で欠くことの出来ない条件とのこと。この研修会に参加して、この問題がどのようにして教えられていったか。それは父母や身内からが全体の約1/3を占めている事実を知り、正しい知識を得て誤った考えをなくし、口を正しくふさぐということを学びました。「寝た子を起こすな」的な考え方を改めなければならないと思ったことでした。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


比企郡市婦人会幹部研修会に参加して 西澤洋子 1990年

2010-07-14 22:44:43 | 『しらうめ』11号(1990)

 昨年九月婦人会館にて幹部研修会がありました。午前中、法政大学教授、花原二郎先生による講演、昼食後、分科会として三つに分かれ各テーマに添っての発表と討論、休憩後各分科会の報告という事でした。先ず花原先生の講演ですが、正直言って教授という事であまり話上手ではないかも?さぞ眠くなる事だろうと覚悟して居りましたが何とそれどころではなく大変楽しく聞き入る事が出来ました。その時は頭の中に色々詰め込まれ満足感で一杯でした。話の中で先ず忘れられない事は、人間の記憶力は一日経つと二十五%、一週間経つと七十五%忘れるそうです。八ヶ月経った今、こんな文も書ける筈もないのですが、思いつくまま簡単に報告いたします。
 演題は『婦人会組織の活性化』今を生きる女性の考え方は多様で有り婦人会活動にも大きく影響しています。これからは会員の意識の変化に対応した組織作りが当面の課題となって来ました。更に高齢化社会に向けての福祉問題、環境問題等を生涯学習の一環としてとらえた幹部研修会として婦人会の活性化を計ることです。そして活性化には三つの事が有るそうです。
一、「知は力」……まず新聞をきちんと読む。そしてメモをとり(字を書くことが大切)社会的な事に興味を持ち、若い人達と友達になる。そしてその若い人達に「知」を伝達する。
二、「数は力」……一人ではわからない事も数多くの人と話し合うと力がついて来る。友達は宝である!
三、「継続は力」……総論をとりあげる。住民が悩んでいる問題は何でも取り組み深くつっ込んでみる。そしてプラスの面、マイナスの面を検討し、他の婦人会に提供する。そして毎回一歩前進する事。
 この三つの事柄の中に消費税、食事学、市川房江さんの生き方等々、沢山盛り込み、最後にまとめとして「まわりの人に役に立つ生きた勉強を」という事で話をしめくくりました。
 分科会は、一、会員の要求に対応した組織づくり、二、高齢化社会に向けての福祉の諸問題(老人にとって地域、家庭、医療、年金とは?)三、くらしと環境問題(環境破壊、情報のネットワーク化、平和の問題)という事で討議しました。分科会については各々のテーマを皆様個人、あるいはグループででも考えて頂く事にして報告を終ります。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月