武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

菅谷婦人会『しらうめ』第12号(1991年4月)目次

2010-12-26 10:05:32 | 『しらうめ』12号(1991)

●平和へのメッセージ 菅谷婦人会会長・寺山サキ子

●大津雑感 嵐山町教育長・飯島留一

●ふり返れば 菅谷婦人会前会長・中村きみ

●雑感 平沢・小久保泰枝

●婦人会に入会して 菅谷二区 田口祐子

●雪の思い出 菅谷四区 松本茂子

●雨にけむる和紙の里 菅谷八区 澤田美栄子

●研修旅行 菅谷八区 山下栄子

●文化部の報告 部長・逸見

●レク部の報告 部長・権田

●体育部活動報告 部長・根岸

●ご協力ありがとございました

●父の思い出 菅谷八区 青木裕子

●「比企郡市婦人会幹部研修会」に参加して 澤田

●ふれあい 菅谷六区 小澤喜美子

●短歌 佐々木ユ基

●川柳 小澤喜美子

●俳句 澤エツ子

●『しらうめ』12号編集後記 青木


平和へのメッセージ 菅谷婦人会会長・寺山サキ子 1991年

2010-12-25 10:02:00 | 『しらうめ』12号(1991)

 広島に原爆が投下されてから四十五年目の昨年八月、私は広島を訪れました。
 広島は水と緑のきれいな大都市に見事復興しているかのように見えましたが、原爆資料館に展示されている沢山の当時の写真、黒こげの衣服、熱風で形が変わってしまった茶わんや家具などが、訪れる人々に原爆の恐ろしさを必死で伝えているようでした。
 平和公園を中心に街の中にある数々の碑、子を思う母の心が伝わってくる「嵐の中の母子像」異郷の地で遠い故郷に思いをよせながら無念の死をとげた朝鮮半島の人々の碑、見落としてしまいそうにひっそりと建っている無名の碑、手を合わすとこの人達の思いが伝わってくるようです。
 又、今も後遺症に苦しみながら、死と戦いながら、言葉にはいいつくせないほどの様々なものと戦いながら、私達に「平和」の大切さを訴え続けている被爆者の人達。多くの人達が広島の悲惨な出来事を忘れないようにと力を合わせていました。
 私は「平和」という言葉は十分理解しているつもりでしたが、広島の三日間で大きな衝撃を受けました。「平和」という言葉の重さ、深さ、大切さが心の中に大きく染み渡ってきました。いくら流しても流したりない位涙を流しました。
 湾岸戦争が報じられた時、まっ先に広島の人々の心を思いました。悲しそうな顔が浮んできます。思いの届かぬくやしそうな顔が浮んできます。
 戦争が終末した今、報じられているのは無残な戦争の傷跡、家を焼かれ、身寄りを殺され食べる物も満足にない人々の姿と、世界に与える自然破壊の大きさです。今のままでは美しい地球を次の世代に残す事ができないのではないかと心を痛めています。
 海に流れ出た原油、それに汚染された生きものたち、火のついた油井から立ち登るまっ黒な煙、風に乗って世界各地に広がりどれだけ自然に影響を与えるのでしょう。
 今、平和な日本に暮す事ができるのを、とても幸せに思っています。そして世界の国に一日も早く本当の平和が訪れるように願っています。
 「私は平和を愛しています。」被爆者のこの声を皆さんにお届けします。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


研修旅行 菅谷八区 山下栄子 1990年

2010-12-24 09:55:00 | 『しらうめ』12号(1991)

 町民体育祭での疲れもまだとれぬ、十月十二日、妙義神社見学に参加しました。私事ですが、義姉が亡くなった直後でもありましたが、欠席するつもりでしたが、役員の立場上、参加した訳です。
 バスから降りて、妙義神社内一周、おいしい昼食を食べるまでは、のんびりとした気分でした。「紅葉には少し早いわね。」と話しながら、妙義山石門巡りを歩き始めたのですが、カニの横這いの崖登りに直面した時には、「大変な所へ来てしまった」と不安にかられてしまいました。若かりし頃のおてんばな私はどこへ行ってしまったのでしょうか。ふるえが止まりませんでした。「怖い、怖い!」と叫んでいた私を、四区の中島さんが励ましてくれました。今思い出しても、冷や汗がでてきてしまいそうです。中島さんのお陰で、みんなと同じように登りきる事ができました。(ありがとうございました)約三十名の方があの崖を登ってきたのです。帰りのバスの中では、この時の感想がほとんどでした。誰もが予想もしていなかったこのコース、終ってしまえば、笑い話になってしまいますが、みなさん体力に自身を持ったのではないかと思います。写真と共に、良い思い出として残るでしょう。
 山の好きだった亡き姉に、お土産を買ってきました。そして「楽しかったですよ」と霊前に供えました。
 これから生きて行く中で、崖っ淵に立たされる事もあるでしょうが、お互いにくじけず、進んで行きたいものです。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


レク部の報告 部長・権田 1991年

2010-12-23 09:51:00 | 『しらうめ』12号(1991)

   七月二十日 社交ダンス
 公民館会議室にて永井先生ご夫妻にお願い致しまして社交ダンスの基本的なステップを色々とご指導頂きました。今年はご夫妻揃っての参加をお願いしたところ、何組かご参加下さいまして、にぎやかに皆、汗びっしょりになって夜の一時を楽しく過しました。

   十月三日 フォークダンス
 曲目は「ゼメルラック」「一円玉の旅がらす」の二曲でした。中学校の体育館でともろう会の田中さんにご指導頂きました。七郷の婦人会の方も見え、みんなで汗を流しました。

   一月二十五日 新年会の余興
 余興の司会を致しました。カラオケ、クイズ、踊りなど、会員の皆様のご協力により、楽しい一時を過すことができました。

 以上、平成二年度のレク部活動が私のいたらぬ事ばかりで会員の皆様のご期待に添えなかった事を心からお詫び申し上げます。一年間ご協力ありがとうございました。(部長=権田記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


『しらうめ』12号編集後記 青木 1991年

2010-08-14 23:49:00 | 『しらうめ』12号(1991)

 そよ風に舞い散る桜の花びらを手のひらに、ふと人間の哀しさを想いました。湾岸戦争がもたらした様々な傷跡、チェルノブイリ原発事故の後遺症に苦しむ子供達。地球上の生きとし生けるもの「幸せに生きたい」という叫びが聞こえて来ます。
 今年もまた『しらうめ』(十二号)を皆様にお届けできる幸せをかみしめております。
 たくさんの原稿をありがとうございました。(本部=青木記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


俳句 澤エツ子 1991年

2010-08-13 17:03:04 | 『しらうめ』12号(1991)

秋雲の生れては消ゆ穂高かな

くれなゐの実をびっしりとななかまど

ひとひらの紅葉落ちくる露天風

廃屋に群れ咲きおりし石蕗の花

熟れ柿を並べて無人直売所

クラス会果して身を置く暖房車

冬川に映りゆるがぬ赤き橋

寒風にたえず麦の芽吹かれゐる

月細く歳暮の茶事の帰り道

正月の遅れがちなる散歩かな

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


短歌 佐々木ユ基 1991年

2010-08-11 20:58:00 | 『しらうめ』12号(1991)

烏にも数種ありしを歌集に知り
     鳥獣図鑑を息子とひもとく

白鷺の飛ぶが如きに鷺草の
     梅雨晴れの朝微風にゆるる

葉牡丹の芯すいすいと伸び立ちて
     黄花群れ咲き風にそよげり

雑草に負けず咲きたり七輪の
     白百合の香の狭庭をつつむ

花終えてさ緑葉陰に梅の実の
     二三個こぞり丸くふくらむ

争うは身体に悪しと庭に出で
     雑草抜きつつ来し方想う

頼るべき事にはあらず錠かけて
     道を急ぎぬ受けし仕事に

小指ほどに成り花つけぬ這瓜の
     朝な朝なに通う菜園

這瓜の成り花咲くを数え見ぬ
     露ふくみたる菜園の朝

ひすがらを厨に立ちて野菜煮る
     外食多き息子帰り来む

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


ふれあい 菅谷六区 小澤喜美子 1991年

2010-08-10 20:57:00 | 『しらうめ』12号(1991)

 手入れされた庭木を眺めるのは実に気持ちいいもの、疲れた身体を癒してくれるのに充分でひととき私の清涼剤になってくれる。
 歳の暮れにわが家の庭は見違えるほどきれいになりました。高齢者事業団にお願いしてこざっぱりきれいになり私を喜ばせてくれたのです。
 事業団の方にお世話になるのは春に続いて二度目、同じ方が見えて下さったので安堵しました。休日に当った娘にお茶入れを頼み、私は務めを終え暗くなった家に帰ったので、廊下の灯りが照らし出す庭に大満足でした。主人が居た時に黒竹みたいな細い竹(種類は判らず)を植え、最初は観賞用にとてもきれいに思えたのですが、手入が行き届かず荒れた庭に変身してしまった。破竹の勢いとはこんな時の表現にいいのかなと云うように増えてしまったのです。「これを何とかしなければ……」と独り思い、事務局に申込む時に“竹の処分”を依頼してありましたので、さっぱりとした冬枯れの庭は私の気に入り、日頃の人間関係のわずらわしさを忘れさせてくれたのでした。
 日曜日、切り落とした枝木を燃やしながら気付いたのですが、竹の本数はもっと沢山あった筈だと垣根を見渡すと、細い竹ですが垣根の柄になっていて、麻縄ですぐってあるではありませんか。“廃物利用”して下さってあるのです。
 何やら全身から暖かいものがこみあげてきて感動したのです。焚火の暖かさと事業団の方の心の温かさと重なって私の胸をきゅうっと締め付けた。お茶を飲みながらの世間話に『困っているのを見ていられない性分で……』とおっしゃったひと言が解った気がしました。
 「袖振り合うも他生の縁」と言葉がございますが、こんな人達の居るこんな町が私は好きです。ますます高齢者事業団のファンになりました。
 今日は成人の日、NHKの青春メッセージを見た後の感動覚めやらぬ中で一気に書き上げた。(一月十五日記)
   テレビ見て奮起する気の少しあり
   男手が欲しいとおもう庭木伸び    喜美子

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


「比企郡市婦人会幹部研修会」に参加して 澤田 1991年

2010-08-09 20:55:00 | 『しらうめ』12号(1991)

 昨年九月、婦人会館において幹部研修会が行われました。テーマは『環境問題と婦人会活動』で、午前は東洋大学助教授の杉浦公昭先生による講演、午後は分科会でした。
 講演の内容をまとめて伝えさせていただきます。

一、オゾン層が壊れる
 オゾン層は地上から十八キロから三十八キロの所にあり太陽からの強い紫外線が直接地上に届くのを遮ってくれています。地上で使われたフロンガスは上昇してオゾン層に達し、そこで紫外線を浴びた時、分解して塩素を出し、この塩素原子がオゾン層を破壊していきます。そのため強い紫外線は直接地上に達してしまうことになり、その結果皮膚ガンや白内障にかかりやすくなるそうです。私達がよく使うヘアスプレー等にフロンガスが入っているそうです。

二、酸性雨
 杉が上部から枯れてきています。北上してくる汚れた大気と工業地帯から北西方向に流れてくる汚れた大気が雨の中に溶け込むと、「酸性雨」になり自然や人体に影響を及ぼすのだそうです。

三、温暖化
 私達は石油、石炭を燃やしてエネルギーとして利用してきました。こうして発生するのが炭酸ガスですが、そのものは人体へ影響するものではありません。太陽光線の輻射を炭酸ガスは吸収して熱をもってしまいます。それが次第に地球を覆っていくことで温暖化と言われる現象を起こしてしまいます。

四、川の汚染
 入間川でサケが見つかりました。放流して三年目のサケだそうです。体にはヘドロがまとわりついて真っ黒でした。サケが戻ったとはいえ、サケの体の数ヶ所に黒いシミが付着しヘドロで汚れていたことなどから、川の水はまだ汚れています。

 杉浦先生の話を聞き、私達一人一人が毎日の生活を見直さなければいけないのではないかとつくづく考えさせられました。(本部=澤田記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


父の思い出 菅谷八区 青木裕子 1991年

2010-08-08 20:54:00 | 『しらうめ』12号(1991)

「リリリーン、リリリーン」
「はい、あおきです。」
「あっわたしだけど。あのね、おとうさんが入院することになったんだけど。今、石川先生から電話があってね。」と母の声。(ああ、いよいよきたか)覚悟はしていました。このところ左のひざの関節の痛みがひどく、毎日近くの整骨院に通っていたのですが、足のむくみがひどく心配していたところでした。
「ああそう。じゃあこれから行くから、とりあえずパジャマと洗面用具を用意しといてね。」石川医院へ迎えに行くと、父は力なさそうにしょんぼりと(私にはそう見えた)いすに座っていました。七十才、よくここまで生きて……と思うと涙が出ました。
 今から二十九年前、忘れもしない私が高校一年の九月、まだ台風の余波が残っている日、
「ひろ子さん、お父さんが倒れたそうよ。」
 父の会社の学生寮に下宿していた私はこうして呼ばれ、会社の車で家まで送られました。バスが一日一回しか来ないへき地の山村で医療施設も貧しく、適切なリハビリも受けられない等の悪条件が重なって、右半身不随、言語障害を生涯背負い、社会復帰もかないませんでした。四十二才の時でした。
 家の近くのテニスコートで友人とテニスを楽しみ、山神様の弓場で弓を練習し、年に一度の秋の運動会では大活躍、野球の試合ではホームランを打つスポーツマンでした。字が上手で子ぼんのうで自慢の父でした。あれ程健康で元気だった父がこんな姿になるなんて信じられませんでした。直接の原因は過労とのことでした。
 父も私達家族も、現状を認めて受け入れるまで時間がかかりましたが、双方に共通していたのは、“生きていかねばならない”ということでした。それもより良く希望を持って。一番つらいのは父のはずです。四十二才はあまりに若すぎました。しかし日が経つにつれ落ち着きを取り戻し、自分のことは自分でし、だんだん自分に合った生活のペースを見つけていきました。
 月に一度は必ず床屋に行き(最近は毛が薄くなり、二ヶ月に一回でいいのではと言っているのですが)病院へは週一回、雨の日も風の日も欠かさず通い、犬の散歩は○時△分といった具合です。又医者に塩分・糖分は控えるように注意されると、好物の羊かんやカステラも食べません。一日二十四時間のスケジュールをきちんとたて、一年三百六十五日ほとんど狂いなく生活します。ですから気分転換に旅行に誘っても行きたがりません。たまに私の家へ来ても時間が気になって落ち着きません。(それは薬を飲む時間であったり、犬の散歩の時間であったり、猫にごはんをやる時間であったりしますが)でもこの几帳面さ、生活の規則正しさゆえに、ここまで生きてこられたのだと思います。
 四十二才で倒れて今年七十一才、物心ついて人間らしくなってから思えば、その人生の半分が人並みで、半分が障害をもった人生になります。父を見ていると“生きる”ということは何と大変なことなのだろうと思います。
 私にとって父の存在は、四十二才までの父とその後の父とが、その双方が同じ重みをもっているのです。生きることのきびしさ、すばらしさを教えてくれるのです。
 東松山に八十六才になる義母がいますが、八十六年も生きてきた、それだけで大仕事だと感心してしまうのです。そしてどんなわがままでも聞いてやりたいと思ってしまうのです。(一緒に暮らしていないからこんな事言えるのかもしれませんが)父や義母を見ていると、一度しかないやり直しのできない人生を一生懸命にベストを尽して生きねばならないと思うのです。そして障害をもって(最近は右目が見えないらしい)毎日を懸命に生きている父の真摯な姿に、一日も長く生きて私の前を歩いて欲しいと願ってやみません。
     ―嵐山病院にて父を看病しながら― 平成三年二月末記
・追記
 三月十五日、容態が急に悪くなり、十九日ついに帰らぬ人となってしまいました。葬儀には多勢の方に御列席をいただき、本当にありがとうございました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


ご協力ありがとございました 1991年

2010-08-07 20:52:00 | 『しらうめ』12号(1991)

◇嵐山まつり
 売上げ
   赤飯    97500円
   手芸    18700円
   計     116200円
 支出
   赤飯材料費 49228円
   手芸材料費  8671円
   反省会   23551円
   御礼    25,000円
    計    106450円

  116200円-106450円=9750円
  残金9,750円は雑収入として会計に繰り入れました。

◇バザー
  売上げ 96540円  湾岸戦争子ども募金へ50000円
            婦人会活動費    46500円

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


体育部活動報告 部長・根岸 1991年

2010-08-06 14:53:37 | 『しらうめ』12号(1991)

・研修旅行 十月十二日 三十一名参加
 妙義山石門めぐりと妙義神社見学に行きました。曇り空ながら暑からず寒からずの日で役場前を八時四十分に出発しました。道路も混まずに予定より早めに妙義神社へ着きました。塗り変えられたばかりの神社は大木の杉に囲まれて静寂の中に鮮やかに建っていました。社務所で宮司さんのお話を聞き、かなりの由緒ある神社だということがわかりました。昼食後、石門めぐりに向かいました。急な登りが続き汗がでました。かにの横這いや鎖につかまって下りる難所があって心配でしたが、皆無事に帰って来ました。

・ハイキング 三月八日 七名参加
 町営テニスコート駐車場を九時三十分に出発し、遠山を通って下小川より山道に入って下里観音へ行きました。ここで各自持参の昼食をとり、小雨の降る中、伝統工芸館へ向かいました。ここで一時間位見学した後、角栄団地を通りぬけ小川バイパスに出て嵐山へもどって来ました。全行程十五キロでした。途中傘をさしてのハイキングでしたが、早春の景色を楽しみ、おしゃべりに花が咲いた楽しい道のりでした。

 一年間色々とご協力頂きありがとうございました。
          (部長=根岸記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


文化部の報告 部長・逸見 1991年

2010-08-04 23:10:06 | 『しらうめ』12号(1991)

 弥生三月。世界を揺るがせた湾岸戦争も一段落、平和な日本に住めることを、幸せに感じております。
 平成の年号もすっかり耳に慣れ、二年度の文化部の活動は、六月五日、昨年に続き婦人会館の茶室で、澤さん、根岸さんに御手前を教えて頂き盛会に終りました。
 九月六日、昨年迄手編教室でしたが、本年度は刺繍との要望があり、葦の会で刺繍を習っている五井さん、水上さん、西沢さんにお願いし、可愛い『ワレモコウ』を刺し額に入れて壁掛けを作りました。皆とてもきれいに出来上がり、文化祭に出品しました。
 二月は料理教室、何を作ろうか?講師は?と、役員で悩みましたが、嵐山祭の反省会のとき、ごちそうになった中から、西沢さん、須沢さんの『和風北京ダック』『鮭おこわ』『レーズンとクリームチーズのフランスパン』を教えて頂きとても簡単でおいしくて好評でした。
 本年度の講師は、全部会員の皆様にお願いし無事に終わりました。皆様本当にご協力ありがとうございました。次に好評だった料理(講習)の作り方をご紹介いたします。都合で参加出来なかった方、どうぞ挑戦して見て下さい。

《鮭おこわ》
▼材料(五人分)
・ もち米4~5合   調味料
・ 紅鮭 3切れ     ・しょう油
・ 糸みつ葉 1束    ・酒
・ ゴマ 少々
・ 酒 大さじ4

▼作り方
①もち米はきれいにといで一晩水につけておく。
②鮭は深めの皿(蒸し器に入る程度の大きさ)に並べ、酒を裏表によくふりかけて10分ほど蒸す。
③蒸し上がった鮭は熱い内に骨をよく取り除き、身は細かくほぐしておく。
④もち米を蒸し器に入れ、30分程蒸す。
⑤蒸し上がったもち米に③の鮭と調味料を少しずつ混ぜ合わせ、再び5分程蒸す。
⑥火を止め⑤の中に洗った糸みつ葉を2~3㎝に切り手早く混ぜ合わせる。
⑦大皿に⑥を盛りゴマをふりかけて仕上り。

《和風北京ダック》
 皮(15枚分)
  強力粉200g  サラダ油 大さじ1.5強
  砂糖 小さじ1  熱湯170cc
  よくこねて15ヶに分けてうすくのばし焼く(弱火)
 みそ
  赤だし 100g位  サラダ油 大さじ1.5
  みりん 大さじ1  砂糖 大さじ2.5~3
  化学調味料 少々(なくてもよい)
   赤だしみそにサラダ油を入れ、弱火でこがさぬ様にねってから、みりん、砂糖、調味料を入れる。黒ずみ水っぽさがなくなったら出来上り。

▼作り方
①棒ネギ1本は4~5cmの長さに切り千切り(しらがネギ)にする。きれいにするには中の芯をとると良い(水にさらさなくてもよい)
②鶏肉はもも固まりを用意し、厚いところは包丁でうすくそいで広げて皮の方に2~3ヶ所切れ目を入れておく。塩、こしょうして油を引いた(テフロン加工なら油は不用)フライパンで皮の方から入れこがし、出た油は捨てる。そこへ酒(大1~2)を振り入れしょう油(大1~2)をさっとかけ香りをつける。
水気がなくなったら火からおろし食べやすく細長く切りネギと一緒に皿に盛り出す。焼いた皮にみそを塗り、ネギと鶏肉を挟み巻いて頂く。
※ 大事なところは皮を焼く時、焼きすぎるとパリパリしてこわれてしまいます。少し透明になったら裏がえし両面をほんの少し焼くこと。
          (部長=逸見記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


雨にけむる和紙の里 菅谷八区 澤田美栄子 1991年

2010-08-02 13:52:58 | 『しらうめ』12号(1991)

 三月八日、体育部の主催により、ハイキングが行なわれた。コースはテニスコートに集合で遠山から山に登り下里観音、伝統工芸館見学、嵐山に着くコースだった。テニスコートを今にも泣き出しそうな空を見上げながら九時三〇分に出発した。途中田んぼの土手に、かわいらしいつくしが首をちょこんと出していた。もう春なのだと話しながら遠山に向かう。遠山の手前に山桜の木が沢山あり、四月頃はこの道もすばらしくなるのではないかと思いながら歩く。いよいよ山道に入る、気持ちを引き締める。“さあ頑張るぞ”心の中で言う。しばらく行くと道がなくなってしまい心細くなってきた。でも皆と一緒なので平気、話がはずむうちに上の方が明るくなってきた。前方でも「もう少しですよ」と声が聞える。「よかった」と言葉に出てしまう。山の頂上でひと休みし、下里観音に向かう。あたりの景色がすばらしい。小川にもこんな良い所があったとは思わなかった。いよいよ昼食の時間、やっぱりこの時間は楽しい。下を見下ろすと小川町が見える。良い天気だったらすばらしいと思う。そのうち雨が降って来た。でも雨なんかなんのそので、楽しい会話がはずむ。ほんとうに皆と出かけてきてよかったと思う。おなかも満腹になり、いよいよ下里観音を後にして出発、伝統工芸館に着き見学する。工芸館の人が「織物をしてみて下さい」と言ってくれた。皆遠慮していたが、青木さんがやってみることになった。最初はなかなかうまくいかず苦心していたようだったが、だんだん慣れてきたようす、まわりが口を出すので、うまくいかなかったのでしょう。次は山崎さん。やっぱり見ていると簡単だがなかなかうまくいかなかったようだ。でも挑戦するということはいいことですね。さあそろそろ嵐山に向かって出発だ。途中休憩し三時五十分頃嵐山に着く。全行程十五キロ、疲れた気持は全然なかった。充実した一日だった。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月