goo blog サービス終了のお知らせ 

武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

教えられたこと 中柴みよし

2010-09-22 23:44:54 | 中柴みよし『ほほずり』(2007)

「他人(ひと)の振り見て 我が振り直せ!!」が いつも母の言い癖(ぐせ)
そして「いつも謙虚であること」
道のまん中に小石があれば
「誰がつまづいても痛いもの 気が付いたらまっ先に片付けよ!」と
私が小学校六年生の時から 酪農から牛乳販売店となった
真夜中に トラックが急いで走り抜けるそんな時間は 犬や猫が犠牲となった
母は 暗い中 袋を持ってよく片付け 山へ葬(ほうむ)ってやっていた
孫達を連れて墓参り いつの間にか いなくなったと思ったら
他人(ひと)の家の墓まで草むしりをしていた
「口の外に出したら 取り返しのつかないことになることもあるんだよ」
「言動は慎重に いつも心して 相手の気持ちを考えながら使いなさいよ!!」
これが母から 教えられたこと

     中柴みよし『ほほずり』 2007年4月

※筆者は1953年(昭和28)、菅谷村(現・嵐山町)菅谷生まれ。


初めての墓参り 中柴みよし

2010-09-21 23:35:25 | 中柴みよし『ほほずり』(2007)

抑えても こらえても 声を出さずにはいられなく
次から次へと涙が 止めどもなく流れてきてしまう
一緒に来た息子は初めてで こんな私の姿に きっと戸惑い驚いていることだろう
「ここに眠っているご先祖様がいるから 今 お前がいるんだよ」
と言いながら また泣けてきてしまった
墓石を見た 母からきいたとおりだった
大正の頃の流感で 母の実の父が
見離された近所の人に食べ物を運びながら 自分でも流感になり
母の兄や姉二人の三人を わずか一週間でみんな死なせてしまった
祖父は大人だったので どうにか助かった
母の 幼い兄(にい)やん姉(ねえ)やんが 一瞬にいなくなってしまったこと
すでに隣村へ養女に出されていたがため 母は助かった
養女とは言え 隣村の本当の両親や兄姉とも 行ったり来たりしていた
生まれてまもなく 親と離ればなれにされ
養父母から愛情をもって育ててもらったとは言え
心の中は複雑で 人に言えないことも多かっただろうに
お人好しのところは おじいちゃん似で
母は しっかり受け継いでいるなぁーと実感した
母の人生や 家族のことや 生い立ちを思うと
私の心に いっぱい入り込んで
泣けて 泣けて 子供のように泣きじゃくった
おじいちゃん おばあちゃん おじさん おばさん達
命のバトンは しっかりと受け継がれているよ
     安らかに お眠り下さい      合掌

     中柴みよし『ほほずり』 2007年4月

※筆者は1953年(昭和28)、菅谷村(現・嵐山町)菅谷生まれ。


うなずく意味 中柴みよし

2010-09-20 18:36:18 | 中柴みよし『ほほずり』(2007)

「母さん わかる? みよしだよ」
「うん」と やっとうなずいてくれた
「母さん 私の顔を見て!」と私
「同じようだね」と 母が一言
まだ わずかに話せた頃 私の目の事が頭から離れないようだ
涙が出てきた私
「母さん みよしの目 両目同じようになったでしょ 苦労をかけちゃったものね」
「手術も 全身麻酔 局部麻酔と十回以上したりして 心配もかけちゃったね」
「でも もうだいじょうぶ 見て 見て みんな母さんのおかげだよ」
少しほほ笑みながら「うん」と うなずいてくれた
「よかった」「よかった」という笑顔に思えた
今日は いつもより何回も 私の話にうなずいてくれた
窓が少し開いていて そこから見える夜景が 今夜は特別きれい
母は 九十歳になった
この病院のある小川町 この町がなければ 母はいない
そして 私もいない
ここは 母が生まれた町
でも 産まれてすぐ 赤ん坊のまま
子供のいない叔母さん夫婦の家に 養女として行った
苦労もいっぱいしたであろう母 六人兄弟でありながら 実は ひとりっ子
この町に 帰って来たんだね
この窓から 母さんを産んでくれた
お母さんやお父さんのお墓のなるお寺が 遠くに見えるよ
きっと 守っていてくれている
母さんの兄(にい)やん 姉(ねえ)やんも……
「私もそろそろ家に帰るね」と言ったら
母は何故か うなずいてはくれなかった

     中柴みよし『ほほずり』 2007年4月

※筆者は1953年(昭和28)、菅谷村(現・嵐山町)菅谷生まれ。


母が壊(こわ)れた 中柴みよし

2010-09-19 00:30:49 | 中柴みよし『ほほずり』(2007)

母が おかしくなってしまった
原因は はっきりしていた
一番 頼りにしていた婦人警官の娘が「肺ガン」とわかり
一年であっという間に逝ってしまったからだ
姉は 三十八歳だった
亡くなった当初は 気が張っていたのか しっかりしていたのに
少しずつ 母は 母でなくなってきた
医者に診てもらったら
「娘の死で神経がどうにかなってしまったのかも知れない」と
やっぱり順番はあるのだと知らされた
すっかり自分から しゃべらなくなった
ボーッとする日々となった母
私が三人目のお産で入院していた時
産まれた知らせを電話したら
「みよし 今 何処にいるんだ?」と
念願の男児誕生を 一緒に喜んでもらえると思ったのに
ただ淋しくて 涙が溢れてきた
姉もお寺で「観音様」になって
さぞかし 心配していることでしょう
愛情を 溢れんばかりに注いできた母
「母が壊(こわ)れた」
これまでも 母は 私達のお手本だったけれど
やっぱり この症状になるのも
私達に 本当の母親としての気持ちを
更に 大きく偉大な母を思わせるのです

     中柴みよし『ほほずり』 2007年4月

※筆者は1953年(昭和28)、菅谷村(現・嵐山町)菅谷生まれ。


村の働き者 中柴みよし

2010-09-18 23:28:00 | 中柴みよし『ほほずり』(2007)

父は 村の男で二番目の働き者
母は 村の女で三番目の働き者と言われていた
畑を父に頼んだ人が 早朝行った時 すでに仕事が半分終わっていた
朝は暗いうちから 夜は暗くなっても がむしゃらに一生懸命働いていた父
ある日のこと 大酒飲みの父が 裏の牛小屋から主屋(おもや)へ戻って来なかった
牛のおなかに頭を寄せ 父は気持ち良さそうに すっかり寝込んでしまっていた
ビクッともしないで 父の枕になってくれていたのだから 利口な牛だ
そんな父は 身重(みおも)の母に無理をさせ 二女を早産し 育てるのが大変
せめて 祖父母が生きてくれたなら ずいぶん助かったのだろうけど……
ただ一つ 婦人の田植え大会で一位を取り 新聞に載(の)って嬉しかった母
村で一番貧乏だったろうけど 心はとっても豊かだったに違いない
本当に 本当に 自慢の母なのだ

     中柴みよし『ほほずり』 2007年4月

※筆者は1953年(昭和28)、菅谷村(現・嵐山町)菅谷生まれ。


どんなにつらかったろう 中柴みよし

2010-09-17 17:38:36 | 中柴みよし『ほほずり』(2007)

つらくあたったのも 一度や二度ではない
何度も……
私が中学生になってわかった 「左目瞼(まぶた)の血管腫」という病
病院を転々と換えた
治そう 治してやりたい一心で走りまわった母の気持ちを
幼い私が知りようはずはない
やっと 姉が警察官になって 飯田橋の警察病院に私は入院した
Y・O先生との出会いだった
母の顔は いつも 「すまない 許しておくれ」と言っていた
今の ベッドの上の母に 私からその言葉こそ返したい
「本当にごめんなさい 母さんをいっぱい苦しめて……」
母さんの気持ちは 私には計り知れない
末っ子で 病院暮らしも多かったためか
わがままな私 甘えん坊の私 可愛がられ過ぎた私
思春期の時 今でもはっきり憶(おぼ)えている うーんと泣きたい時があった
泣けば必ず病(や)んだ左目が腫(は)れて まるでおいわさんのようになった
私は こらえ こらえたが 母を責(せ)めるように爆発した
「どうしてなんだよ!」
「泣きたいのに 思い切り泣くことも できないのかよ!」
だけど 涙は こぼしてはいけない
がまんをしなければ 明日は病院へ行くことになってしまう
それなのに 思い切り泣いて 病院へ行くはめになってしまった
右目だけで 泣けたらいいのにと思った
うーんと泣きたい思春期 母をいっぱい困らせた日々
どうしようも 救いようもない私が そこにいた

     中柴みよし『ほほずり』 2007年4月

※筆者は1953年(昭和28)、菅谷村(現・嵐山町)菅谷生まれ。


詩 私の命 中柴みよし

2010-09-16 23:04:10 | 中柴みよし『ほほずり』(2007)

生後六ヶ月 思いもよらぬ畑の事故
左目に 土がいっぱい入ってしまい
母は急いで 私の左目をおっぱいで洗ってくれた
まもなく赤い肉が目の中に出てきて 噴水のように出血する日が続いた
何度も眼帯をまっ赤に染めた
そんな私を母は 普通より体格の良い私を
小学校三年生位までおぶって 通院させてくれた
五、六歳の時 東京の大きな病院まで行って調べてもらったのは
母の希望だった
そこで診断されたのは 「良性のガン」
この病院では治らず 九州の名医にかかれば治るかも知れないと言われた
母は「どこだって連れて行き 治してやる」と言った
その頃 私の家は六人家族で 食べていくのがやっとというほどの貧乏
夫婦げんかと言えば いつもお金のこと
母がどんなに節約しても 自分の食べる分を減らしても
食べ盛りの子供が四人もいたのだから
育てるのには 数頭の牛と農業だけでは とても苦しかったと思う
お金がなくなり お金の話をきり出す母を怒って
父はちゃぶ台を何度もひっくり返した
その時のようすは 幼い私の目にも焼きついて忘れることはない
酒の大好きな父を 短気な性格の父を 何度も説得してくれ
私の手術は 想像以上に多く行われてきた
今 私がここに こうして字を書くことができるのも
私が明るい光を見つめることができるのも
みんな みんな家族のおかげ
父さんの 丈夫な体で働いた大きな力と
母さんの 私への計り知れぬ愛ゆえにもらった 大切な「私の命」

     中柴みよし『ほほずり』12頁~13頁 2007年4月

※筆者は1953年(昭和28)、菅谷村(現・嵐山町)菅谷生まれ。