武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

双生児の発育の一例 古里支部・安藤あさ 1965年

2009-10-31 21:32:03 | 1965年

 私は菅谷村の北端古里(ふるさと)に住んでいる一班員ですが近所のある家の双生児の発育の一例をとりあげてみました。
 この家を初めて訪問したのは3月25日のことでした。その時の妊婦の状況は妊娠8ヶ月でした。少し風邪気味で足はむくみ、手がしびれ、顔色も悪く、水ばかり飲みたく、どことなく気分が悪そうでした。分娩の準備も完全にはできておりませんでしたが、それから5日後の30日の夜、むくみがひどくなり、熱が出て歯をくいしばり、非常に苦しがり、見ているのもこわいくらいだそうでした。
 早速、藤野助産婦さんに来ていただき、この様子では子癇(しかん)*という病気らしいので直ぐ菅谷の水野先生に往診を依頼しました。先生もすぐ来て下さり、入院しないと親子共生命にかかわるとのことで、その夜のうちに入院しました。予定日より40日も早く、4月2日無事に2人の男の赤ちゃんが生まれました。定めし苦しかった事でしょう。私がもっと母子愛育班員として任務を果たしていたなら、こんな子癇という病気にかからずにすんだのではないかと、只申訳なく思っております。
 生れた時の赤ちゃんは、体重1.9kgと1.8kgの双生児でありました。母乳はお母さんの体力をつけるため、ごく少ししか赤ちゃんにはあげず、ミルクで育てました。初めはミルク7~8回、母乳1回あげたそうです。2ヶ月程たったら母乳は殆んど出ず、ミルクを1日7~8回やり、6ヶ月後には、ミルク5~6回の外にトマトジュースを1回やり、かゆ子供ちゃわんに半分くらいというふうに離乳食を与え始め、8ヶ月には体重8.8kgで男の子の標準以上の発育ぶりになりました。年若で初めてのお母さんになられ、2人の赤ちゃんが同じ割合に、実に上手に育てられました。子守を専門としている人ではありますが、なかなか大変のことだと思います。私は何時もこの母子をみるたびに、ただただ感心するばかりです。これからもますます努力して、この2人のまるまる太った赤ちゃんを、より健康に御立派に育てあげて下さいとお願いせずにはいられません。1人の赤ちゃんでさえもなかなか大変ですのに2人を1度に育てあげるなど本当に、本当に御苦労様とお察しいたします。私達も、もっと母子の健康を守るために研究し、努力してゆきたいと考えております。

   菅谷地区・七郷地区『昭和40年度母子愛育班合同体験発表会』資料

*子癇(しかん):妊娠中毒症の一種。妊産婦が突然、全身の痙攣、失神などの発作を繰り返す状態。発作に先立つむくみ(浮腫(ふしゅ))、タンパク尿、高血圧の徴候を子癇前症という。


経過報告について 大蔵支部・柏俣貞子 1965年

2009-10-30 16:08:00 | 1965年

 大蔵支部は会ができてまだ1年たらず、皆様に体験発表として申し上げることもまとまらない状態でありますので、支部活動として発足してから今日までの経過をのべさせていただきます。
 大蔵は約90戸ほどのですが、数年前婦人会が解散してしまってからは、それに代るものは何もなく、外に勤める婦人も多くなり、めんどうだから作らないといった状態が続いておりました。しかしそんな中にも小さなにもかかわらず、新しく来られたお嫁さんとは口を聞いたことがない。だから婦人会に代って何か若いお嫁さんの会でもあったらと感じている人はあっても口火をきる人はありませんでした。そんな時、戸口助産婦さん、篠崎保健婦さんから「どうも大蔵は乳児検診の結果を見ても、赤ちゃんの発育も思わしくない。一般に関心が低い。愛育班を作っては」ということで、早速数人の人に話をしてみると皆、賛成してくれましたので、それでは若いお母さんを中心にということで、最初に集まったのが3月19日に22人でした。私達は愛育会の内容についてはミルクを貰える位で何も知りませんでした。
 篠崎、福田両保健婦さんに来ていただき、愛育会の大切なこと、今までどんな事業をして来たかなど説明してもらいました。そして役員を決め、大蔵支部として自主的に活動を始めたのが4月に入ってからです。以下簡単に現在までの行事を紹介します。

 (1) 4月14日 39年(1964)度愛育班総会の報告、母子愛育会会則の説明、大蔵支部事業計画についての話し合いを行う。
  (イ)子供のしつけについて (ロ)料理講習 (ハ)家族計画 この三つを今年の課題に決めました。この時、生花、その他趣味的なこともやりたいという意見もあり、愛育会の目的である、母子保健衛生問題を中心にして、他に私達身近なことについての話し合いの場にしたいという希望が多く出ました。

 (2) 5月8日 戸口助産婦さんを中心に座談会
 2月に行なう予備知識として家族計画は、いかに大切か、母体の健康、出生児の生育環境等考慮しなければならないこと、その他交通事故、最近性病の多いことなど種々な問題で、午前9時より正午まで、あっというまに過ぎてしまいました。

 (3) 7月21日 乳児のしつけについて戸口助産婦さん、篠崎保健婦さんにおいでいただき、保健婦さんより、しつけの原則(食事、排泄、睡眠、着物、清潔)について分りやすく説明してもらい、育児について困ったこと、どうしたらうまくいくかを話し合いました。
  (イ)兄弟げんかをして困る、(ロ)下に赤ちゃんができ上の子がいじめる。(ハ)子供の小遣いについて、(ニ)赤ちゃんの夜泣き、(ホ)冬の厚着、(ヘ)ごはんを食べない。その他いろいろ誰もが感じていることを話題に、それぞれの経験談と助産婦さん、保健婦さんの専門的な御意見によって大変有意義に会合を終りました。

 (4) 8月26日 7月の行なわれた保健所長さんの「ガン講話」について、当日大蔵より出席が少なかったので1人でも多くの人に知ってもらうため報告いたしました。又ある人からマヨネーズの作り方を聞かれましたので、その作り方と夏野菜を使った料理をいくつかプリントしてあげました。

 (5) 12月10日 幼児向料理の方法と役員会議の報告のあと、体験発表の問題について話し合う。

 主な支部活動は以上ですが、今では会員も1人2人とふえ、28人になりました。会合の参加者は常に15人~20人くらいでしたが、1回30円会費での茶菓をつまみながら、いつもなごやかな楽しい会でした。区の方々の協力によって区費より愛育会へ事業費をいただきましたので、来年はあんなふうに、こんなこともと、他の地区活動を参考にしながら、会合のたびごとに意見を出し合っています。又、離乳についての質問や幼児の身体検査を、支部で行ないたいとか、皆んなの積極的な意見が集って来た事は本当によかったと思います。
 戸口助産婦さん、篠崎、福田保健婦さん、その他多くの方に御協力いただきましたが、今後一層の御指導をお願いいたします。

   菅谷地区・七郷地区『昭和40年度母子愛育班合同体験発表会』資料


育児は家族の愛情で 千手堂支部・高橋早苗

2009-10-29 09:30:44 | 1965年

 赤ちゃんを持った人なら誰でも行き渡っている母子手帳の「育児の心得」というページに、愛情と正しい知識とを持って育てることが大切です。母親も父親も祖父母も家族の人たちがみんな気を揃えて育てよう。正しい知識を得るためには以後云々と育児の心得についてくわしく、親切にしるされております。
 乳幼児期には人格の基礎が形成され、身体の正常な発達の方向が決定されると云はれますが、そのよい個人を育て上げる基礎は、やはり家庭にあると云えるのではないでしょうか。私の家でも愛育班の皆さんに3人の子供が御厄介になりました。農家ですので農繁期等には、ともすると育児は軽視されがちな現状の中で心身共に丈夫な子供を育て上げるのは家族皆んなの協力と理解がなくては育つものではありません。農家では労力の点などから育児が自然、母親の手でできなくなる場合があります。育児に関心を持ち、暖かい愛情がみんなになかったら、やはり成長も劣ることでしょう。特に、むづかしい離乳期などは一層痛感させられます。離乳食の与え方で偏食等が生れてくるとか、小さい体の割合には多量の栄養が必要であることもみのがせないと思います。それから授乳期には良い乳を与えることだと思います。それには母親の栄養がある程度は影響すると云はれますが、その母親は勿論、家族みんなが理解して質の良い乳を与えるように心掛けるべきだと思います。農村では動物性の食品が少ないため、私の家では蛋白質やカルシュームの多い山羊乳を授乳期にはたくさん飲むように心掛けています。丈夫な子供にするには、すでに体内で赤ちゃんの体質などが決まってしまうと云われていますが、妊娠中の栄養と、農村では労働の理解など、昔から比べれば良くなっているとはいうものの、まだいろいろの点で圧迫がある現状のようです。産後の母体の保護や授乳期の母の栄養、離乳期の食事など、1つとして家族の愛情と協力がなくては、健全な育児は不可能です。家族関係が調和されていないと明るさがなく、子供の心に思いがけない深い禍根を残すことにより、発作や、けいれんを起こしやすい子供になると云われますが、まわりの人達は子供に与える影響を考えて互いにゆずり合い、望ましい環境を作るように努めたいと思います。
 育児法も年々進歩し、改善されて来ている様ですが、経験のある人達の教えを土台に正しい知識のもとで前進すべきだと思います。
 私の家でも幼稚園に行っている長女を頭に3人の子供が、完全というには程遠いかも知れませんが、何んとか健康に育っております。
 5ヶ月になった赤ん坊は、そろそろ離乳をはじめました。どの子も病気らしい病気もせず、先づは育ててよかったと云える事かも知れません。ひとえに保健婦さんをはじめ役員さん方のお骨折りと、家族の協力と理解によるものと思い、丈夫な子供になってほしいと育児に励んでいる次第です。

   菅谷地区・七郷地区『昭和40年度母子愛育班合同体験発表会』資料


育児の記録 志賀支部・佐藤伸子 1965年

2009-10-28 00:49:02 | 1965年

 12月14日がきて私の子供は満1年になります。この1年間を振りかえってみますといろいろなことがありました。
 昨年12月14日はじめて1児の母となり、まづ1番心配になったのは丈夫な元気な子供に育てあげることができるかどうかと云うことでした。1週間がすぎ家にかえって私と子供の生活が始まりました。最初はミルクをのますと3回に1度はむせて、その度にあわてて背中を軽くたたいてやるという事で大変でした。一時はミルクを飲ませる事も恐ろしくなったことがあります。2ヶ月目からミカン汁を少しづつあげ始め、3ヶ月の終り頃より離乳食を与え始めました。
 4ヶ月目には1人で俯伏せになり、頭をあげて訳の分らぬことを言っていました。6ヶ月目には這うことができ、8ヶ月目にはつかまって歩き、10ヶ月の終り頃には1人立ち、11ヶ月目には歩きだしました。12月4日の誕生日には、お餅とケーキで御祝いをしてあげました。1年間を振り返り、これという病気もせず丈夫に育ってくれたことは親として嬉しく思っています。
 尚私の子供は10月の赤ちゃんコンクールに参加させて頂いた事も大きな喜びでありました。又、保健婦の篠崎さんの暖かい御指導をいただいたことは何より力となりましたことを付け加えまして終りといたします。

   菅谷地区・七郷地区『昭和40年度母子愛育班合同体験発表会』資料


乳児発育の一例 川島支部・篠崎雉子 1965年

2009-10-27 23:14:39 | 1965年

 一口に体験発表といわれましても、私は愛育班に入りませんかとすすめられ内容もわからないままに一役員となり、今日にいたりました。母として乳児の発育状態をお話しいたします。早産で生まれ未熟児でした。

  昭和38年7月12日生まれ 女子
出生時~1ヶ月
 体重2.5kg、身長48cm、胸囲31cm、頭囲31cm、臍帯の脱落6日目。黄疸は普通生後3日間というもの。体が冷たくなったり、熱がでたりしたので電気アンカ、ゆたんぽ、水枕と云った具合。お乳をのむ体力がなく脱脂綿に砂糖湯をしめし吸わせたわけです。
 7日目体重2.45kgと減少、母乳分泌は悪く人工栄養で育て、どうやら赤ちゃんらしい顔色になったのが3週間ぐらいで、25日目には体重2.9kg、まあまあ発育良好とお医者さんに云われ、ほっと一息。
1ヶ月
 ミルクを飲む以外はほとんど眠っています。
2ヶ月
 体重3.9kg。やはりほとんど眠っています。しかし音のする方を見ているけはい。
3ヶ月
 離乳食を始めました。果汁小さじ1パイから一日の様子を見ながら一日、一日と量を増してやりました。果汁は好物のようです。まだ目は良く見えず、はっきり笑いません。
4ヶ月
 体重5.4kg。生れた時の2倍ちょっとになり、お味噌汁、パンがゆ、半熟卵等与えました。はっきり物が見えるようになり笑いはじめました。
5ヶ月
 首がすわり、物をつかむ気持になり、抱くと少しはねる程度でやはり一歩おくれているようです。
6ヶ月
 ねがえりもできず、おすわりもまだできません。ねて頭を動かしたり、手足をばたばたしている。
7ヶ月~8ヶ月
 おすわりができた。すわっているだけで動こうとしない。
9ヶ月
 下の前歯がはえはじめる。
10ヶ月
 体重9.85kg。やわらかいものは何でも食べ、好ききらいはない。
1年1ヶ月
 体重10.95kg。前歯上下二本づつはえそろう。今までこれといった病気はなく風邪をひいた程度。
 離乳食は完了。言葉はマンマ、ママ、パパぐらいが皆に通じる。一人立ちが出来た。
1年2ヶ月
 一歩、二歩あるきはじめた。菅谷村の優良児として東松山保健所管内赤ちゃんコンクールに出場。昭和39年度の審査会に入賞。これもひとえに保健婦さん、皆さんのあたたかい御指導のおかげを持ち、今日にいたりました。

   菅谷地区・七郷地区『昭和40年度母子愛育班合同体験発表会』資料


集団検診の成果(寄生虫) 平沢支部・村田みち子 1965年

2009-10-26 11:58:00 | 1965年

 常に健康でありたいと言う事は人誰しも願うことである。最近、成人病ということばはよく耳にされ、そしてその研究も対策もなされているが、こと寄生虫のことについては一般人は余りにも無関心である。私も愛育班で保健婦さんにそのことを聞かされ、おそろしさを知り、驚きと共に何とかしなければと考えたのだった。
 ある集会の席上で、こんな話を耳にした。
 「家の主人は、どうもこの頃胃腸の調子が悪く、息切れもはげしく、顔色が良くない。肺病じゃないかしら」と。これを聞いて、ふと私は以前の保健婦さんの話を思い出した。寄生虫のことを……。こんな頃だった。折しも39年(1964)11月のこと、集団検便が計画されたのは。平沢地区へ検便の容器が配布されたのだった。地区民あげて検便に参加。その結果を待つこと数日、役場、保健所の努力によって結果が発表された。それを見て、先づ鉤虫(こうちゅう)【十二指腸虫】保有者が意外に多いのに驚いた。平沢に保有者が多いことは何を物語るか。これはひとえに農村であることだからであろうか。いや違う。農村であるだけに限ったことではない。村民の個々一人一人がつとめて関心を高め、早期発見と対策を考えれば、必らずや病は何とか未然に防ぐことができるのではないかと痛感した。当時の一例であるが鉤虫保有者家族の過去をたぐって見た。鉤虫の非常に多く寄生していた一老人Aさん。Aさんは農事にだずさわっていたが、毎日がとてもだるく仕事が手につかない。すぐ疲れてしまう。あげくの果て生つばが出る、動悸がすると訴えていた。11月のある日、Aさんのもとに検便の容器が配布された。しかし年寄りゆえ鉤虫など夢にも思っていず、検便に応じようとしない。幸にその家のお嫁さんが理解ある会員の一人、「おじいさんもぜひ、検便をしていただきましょう」と再三すすめたが、「おれは酒を飲む。酒を飲む人はそんなもの飼っておかん」となかなか強腰し、聞き入れようとしないばかりか、しまいには手を振り上げんばかりの様相だ。
 第1回目は仕方なく若夫婦だけ検便に参加した。二人共鉤虫の保有者であった。Aさんも家中の人に鉤虫が寄生していることを、この結果から、うすうすながら感じとったらしい。折しも公会堂で保有者の駆虫薬の服用で若夫婦が1日入院。薬を服用している間、保健所長さんから鉤虫は1軒で1人でも保有者がいると必ず、又ふえてしまう。家中こぞって一気に退治してしまわないと鉤虫を皆無にする事はできないのだという事を学んだ。ますます意を強くした嫁の会員さんはその日から又、頑強なこのAさんを説得しはじめたのだ。「おじいさん、今度こそぜひ検便して下さい。現に私達には十二指腸虫がいるではありませんか。私が保健所をたづねて検便していただきますから。おじいさんが生つばが出たり、疲れやすいのも十二指腸虫がいるためかも知れませんよ。一度検便をやって見ましょう」と根気よく言って聞かせ、お願いをした。幸いその頃二度目の検便通知があった。しぶしぶとAさんも便を出した。嫁さんの努力がAさんにも理解できたのだ。その結果はどうでしょう。鉤虫保有の源はAさんだったのだ。異状という程の保有数だ。今まで頑張り通したAさんも完全に折れてしまった。二度目の駆虫薬服用は公民館で行われた。進んで出席したとか。当時やせっこけていた老人のAさんも今ではすっかり元気をとりもどし、「医者にかかる金でサンマでも買って食え」と云って胸をはって見せ、赤い顔をほころばせ、足どりも軽く農事にいそしんでいる。かくして家庭の幸福がもたらされたのだ。以上、会員の苦心談。

 さて前おきが長くなりましたが本論にはいります。

  表1 検便の成績
39年(1964)度
該当数364、受検者数222、鉤虫卵保有者59、保有割合27パーセント
40年(1965)度
該当数330、受検者数163、鉤虫卵保有者11、保有割合6.7パーセント
 該当者の61パーセントのみ検便できなかった事は誠に残念であった。集団駆除が如何に効果的であるか39年(1964)に行った時の27パーセントが40年(1965)には6.7パーセントになったことだけで明白である。

  表2 駆虫薬服用の効果
鉤虫保有率
 服用前27パーセント 服用後4.8パーセント
 陽性者全員が駆虫を行ない検便をするということができなかったが、表にしてみて薬の効果を痛感した。服用しても尚、39年度、40年度と連続して保有者となった人は、わずか3人である。又保有者中一家で2~3人が80パーセント、1人だけという家は20パーセントであるということも分りました。

 次に質問紙により、駆除実施前后の健康状態についてまとめてみました。(陽性者のみ)
  表3 あなたは駆除を行う前にはどんな病気をしましたか。
心臓病3 腎臓病0 胃腸病3 肝臓病1 神経痛7 貧血症5 その他2

  表4 自分の体にどんな異常感がありましたか。
頭痛1 どうき6 むくみ0 顔色悪い16 いきぎれ3 つかれやすい18 その他8

  表5 駆除を行った後、体の調子は良くなりましたか。
良くなった29 良くならない4 分らない

  表6 よくなった人はどんなところが良くなりましたか。
・何となく元気がでて疲れも回復が早い。
・顔色が良くなった。
・食欲が出た。

 以上で病は早期発見し、対策をこうずれば未然に防ぐことができるのだと痛感させられた。愛育会の活躍、会員の協力と努力、また個人個人の衛生に対する関心の高まりが、このような良い結果を生じたのだと思う。実にこの間における集団検診、集団駆除と寸分に表わせない程のお骨折りをいただいた衛生係の人や保健所長さん、保健婦さんの御尽力に心からお礼を申上げます。
 今後とも、このような検診には区民あげて参加し、早期発見につとめ、私達の村、菅谷から病魔を追放し、明るい農村を築こうではありませんか。また、かくなることを祈りながら、つたない私の発表にかえます。

   菅谷地区・七郷地区『昭和40年度母子愛育班合同体験発表会』資料


移動図書館の利用価値について 菅谷支部・中島初枝 1965年

2009-10-22 17:26:23 | 1965年

 人は誰しも常に、今日よりは明日、明日よりは明後日と進歩したい、向上したいと考えることは当然のことと思いますが、私達婦人にとって又子の母親にとっては中々思っていても実行することは容易なことではありません。そこで考えついた事が本を読もうという事でした。これなら子供の世話をしながら、又子供を寝かせつけながらでも、何とかできそうですが、さて、その本をどのように手に入れたものか迷ってしまいました処、移動図書館の本を利用してはと会長さんにすすめられ、以来ずっと毎月利用させていただいております。
 本の内容も愛育会員としてお借りしますので、おのずと保健、衛生、育児、しつけ、食品関係ということになりました。夏の暑い最中、木陰で子供を乳母車にのせ、昼寝をさせながら、又冬は日向ぼっこをしながら本を読む、どこかの国の婦人はこうして常に本に親しんでいる事を新聞の婦人欄で読んだことがありましたが、そこまではゆかなくとも、何とか暇を作っては読書をしようと努力いたしました。
 さて、移動図書館を利用するようになった動機をいろいろのべましたが、そこで本を読んだ感想を最近のものから一つ例をあげてみます。
 品川不二郞・孝子夫妻の書かれた「しつけ相談」という本について皆さん(特に班長さん)にまとめていただいたのを紹介いたしましょう。
 この本は1才~2才の子供に対するしつけに関して具体的に質問形式により分り易く解答してあります。
 (1)細かく良くしつけの様子が年令的に書かれてあり、初めて母親になられる人、又それを体験された人にも一度は目を通しておきたい本と思われます。
 (2)子供と見比べながら育ててゆく上には大切な本であることを感じました。
 (3)子供を叱る時の態度として、親が感情的にならないという事が大切である。
 (4)子供の身になって考えてやることが大切。
 (5)しつけをするには親が良い見本を示してやること。
 (6)ごはんなど食べない時は無理にしいることなくさっさとかたづける様に。今までは小言を言いましたが、本を見ると子供は空腹なら必らず食べると云う事を信じる様に書いてありましたから、そのようにしました。又食器を変えたり、好きなものをのせたりしました。
 (7)事故を防ぐ為にはどういうことが危険で、どのようなことが安全であるか、親は経験済みであると思いますが、子供にどのように話せば分るか困っておりましたが、高い所、例えば窓から物が落ちればこわれると云うように教えれば、初めて危険が子供にわかる様でとてもためになりました。
 中々本を買ってまで読めませんので貸していただいた本をひまを作って少しづつ読みましたが、子供のためになることがいろいろと書いてあるので大変良かったですが、少くとも育児の上には「プラス」になった事は間違いないと思います。
 皆さんに読書の感想についてまとめることをお願いしました所、いやがられましたが、こうして一つでもまとめてみると云う事は自分にとって、一つ前進した事ではないでしょうか。大変良かったと思います。何時までも生活に結びついた読書を忘れる事のないよう願っております。

   菅谷地区・七郷地区『昭和40年度母子愛育班合同体験発表会』資料


味噌汁と指圧 越畑支部・新井ハツエ 1974年

2009-10-21 17:04:19 | 1974年

   味噌汁と指圧
        越畑支部・新井ハツエ
  手作りの味噌味よろしく夫も子も
       朝の味噌汁代へて吸いゆく
 ストーブの炊火にぬくもりながら、台所で私は今朝も味噌汁を作ります。汁の実は大根、ねぎ、白菜に油揚を使い、味噌は二番米を利用して作った自家製味噌です。主人も子供達も朝の味噌汁がないと眼が覚めないというほどの愛好家です。味噌汁といいましても私のところでは、実をたっぷり入れたおみおつけです。
 四季それぞれの野菜に、わかめ、麩、油揚、豆腐など三色以上の品物を使います。緑の野菜の少いこの頃では桑園の野草も立派な汁の実となります。なずな、よめ菜等は、一寸油いためして使えば美味です。
 勤務上の交際で、前日酒を過した主人も朝の味噌汁だけは必ず食べて行きます。朝の食事は余り摂らない娘も味噌汁だけは吸っております。
 汁の実をたっぷり使ったこの味噌汁を私は子供達の離乳食の第一番に使いました。どんな野菜でも味噌汁に入れてしまうと、子供は喜んで食べてくれました。5人の子供達は食べものに好き嫌いがなく、病気らしい病気もせず、健康で成長してくれました。これも皆味噌汁のおかげと今更ながら感謝しております。
 この家に来てから早25年、姑から受けついだ味噌作りを今でもやっております。そして材料もふすまから、麦、米と代ってきました。仕込み方は同様です。自家の味噌作りは何時までも続けて行きたいものと考えております。
 年のせいかこの2、3年、根をつめて編物、縫物等をやりますと、肩こりや、目の疲れを覚えます。ある晩主人が勤務先の図書館で借りてきたといい、差出されたのが浪越徳治郎さんの指圧の本でした。その晩ね床に入ってから、図をみながら「指圧の心は母心」といいながら指に力をこめて、頭から首すじ、肩、背と同じ場所を3回ほど繰返し指圧してくれました。体がのびのびと頭もすっきりして大変らくになりました。指圧をおぼえてから2年、時々交替してはつづけております。
 この頃では、それぞれのつぼを覚え、楽しみながら指圧ができるようになりました。小学生の末子も、今では私のつぼをおぼえ、上手に指圧してくれるようになりました。指圧に使う指は拇指で時には4本の指も一緒に使うこともできます。
 「孝行をしたい頃には親はなし」とか、4人の父母もこの世にはなく、身近に老人のおらない私の家庭です。肩こりだった此方の父に毎晩たたいてあげるしか術を知らなかったあの頃、指圧を知っていたなら、どんなに良かった事だろうと今、改めて悔まれます。
 今は若く、何の故障もない人でも、やがては年をとり、老人とならねばなりません。そして色々な疲れもでてくるでしょう。そんな時指圧を知っていて利用できればと思います。
 愛する御主人やお子様に、又お年寄にと、一家の健康のために、心をこめた主婦の味噌汁と、何の道具もいらず両手指でできる指圧を皆さんにおすすめいたします。
 発表するにはお恥ずかしく、拙い私の体験をつづりました。

   嵐山町母子愛育会『昭和48年度合同研修会資料』


菅谷婦人会が生活改善実行規約を決定 1951年3月

2009-10-18 08:57:35 | 1951年

   生活改善の具体策
       婦人会で決定
 菅谷村婦人会は発足以来生活改善の問題について種々具体策を研究してきたがこの程ほゞ成案を得たので三月二十四日午後一時より菅谷小学校に於て支部長会議を開き生活改善実行規約を決定した。この規約は更に四月七日開かれた常任委員会で採択され直ちに村当局及び各種団体に呼びかけ実行に着手することになつた。尚婦人会では最近「婦人会に何を望むか」の世論調査を行つたが、この結果を検討することによつて婦人会は更に積極的な活動を開始するものと思はれる。
 生活改善実行規約は大要次の如きものである。

  時間励行に関する事項
一、主催者は必ず定刻前に出席すること。
二、遅刻又は欠席する場合はその旨を主会者に届出ること。
三、主会者は出席者半数以上を認めた時は指定時刻に開会すること。
四、議事進行中は余談にわたらないこと。
五、酒気を帯び会議に出席しないこと。

  婚礼に関する事項
一、式服は実用に適するものを用ゐ新調の場合は模様付は用ゐないこと。
二、結納金は黒紋服につり合ふ程度の帯代とすること。
三、調度品は箪笥一棹、鏡台一台、針箱一箱、寝具一組を限度とすること。
四、披露宴の料理はその場で飲食し得る程度とし引物は全廃すること。
五、宴会時間は二時間位とし遅くも午後十時頃迄とする。
六、婚礼を観覧する習慣は絶対に廃止するよう各実行委員は婦人会、青年団等の協力を得て監督指導すること。
七、婚礼費は生活改善規約に基き出来得る限り節約し規約に違反した場合はその一部を村基本財産へ寄附すること。

  出産節句等に関する事項
一、初産衣の祝は長男長女のみとし模様付を廃し実用的なものとする。但しなるべく金銭を以てすること。
二、紐解祝も初産祝に準じて行ふ。
三、節句にひな人形、こいのぼりを贈るには長男長女に限り、なるべく金銭を以てする。
四、弓破魔、羽子板の祝も節句の祝に準じて行ふこと。
五、前各項に於て収受し又は節約した金銭は子女の教育資金として貯蓄すること。

  葬祭に関する事項
一、葬儀は敬虔簡素を旨とし造花生花を作る場合は何れか一対程度とする。
二、一般会葬者に対する食事茶菓の接待は全廃すること。
三、香典は近親者に限ること。但し各種団体からの弔意はこの限りではない。一般会葬者は香典は贈らないこと。
四、忌明は葬儀当日簡素に行うこと。
五、子供への供養は一切行はないこと。

   『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


生活改善座談会が開かれる 1951年3月

2009-10-17 08:51:00 | 1951年

   生活改善座談会
     婚礼をいかに簡素化するか
 古来冠婚葬祭の儀式を尊重しこれを厳粛盛大ならしめることはわが国伝統の美風ではある。
 従つて我々は今直ちに之を破壊し去ることを好む者ではない。然しこれらのものも時代の進展に伴ひ当然改変せらるべきものであり且現行の慣習の中にはすでにその生命を失つて形式化し又はその風習が我々の家庭経済の負担に余るが如きもの等あるに鑑み我々報道委員会は茲に主として現在の婚礼に就いて検討を加へて見たいと考へた。仍つて特に結婚適齢期の方、適齢期の子女をお持ちの方、最近婚礼を行はれた方、生活改善に関係の深い婦人会、社会教育委員会の方々にお集りを願ひ三月九日午後一時より役場会議室に於て婚礼の簡素化について話し合つていただいた。
 出席者(発言順) 岩附松子、高崎達蔵、杉田政一、関根操、水野ふさ子、簾藤栄子、西沢近一、金子重雄、小林まさ
 報道委員会側 小林博治(司会者)、関根茂章、関根昭二

  因襲を打破せよ
司会者 さうすると婚礼の支度が五万、式の支度が二万、その他が三千で全部で七万三千円かゝるわけですね。さうすると二十五年度の村全体の所得額五千八百二十万円でそれを申告したのが六百二十人で平均八万四千円(一年間の所得が)これによつてみると一年間の所得に対する婚礼の費用が多額であるといふ感じを持つわけです。勿論婚礼の人は普段から用意してあるでせうが兎に角多数の費用です。問題はどういふわけでさういふ支度をしなければならないかといふことでこの点について話し合つていただきたい。
いろいろ理由はあるでせうが…一生に一度のことであるから多少無理をしてもとか或は親であるから借金をしてもとか或は先方へ行つてあまり苦しまないやうに支度をしてやりたいとか…若い人の立場から岩附さんに聞いてみるかな。
岩附 財政が許せば別問題ですが、そんなに費用を使つてもらはなくてもよいと思ふ。そんなに費用があるなら結婚後の費用にしてもらいたい。費用も今おつしやつた半分ぐらゐでいいんぢやないかと思ひますね。
村長 それでいいかね。僕も男と女の適齢期のがゐるのだが我々は考へ方がちと違ふのだ。今の話では大体十万かかる。それでは一生たつてもやれない。親としては一生一度のことであるし人生の第一歩を踏み出すのであるからできるだけのことをしてやりたいとは思つてゐる。それができないのが現状である。本人はいいと云つても世間はそれを許さない。だから本人の自覚では駄目だ。一番の根本問題は金を持つてゐる人がぢやんぢやんやるから持つてゐない人もやらなければならないやうになる。結婚の簡素化は金のある人が範を示すことである。
司会者 村長さんから簡素化の話がでたがもう少し若い人の話を聞きたい。
杉田 私としては豪勢な祝をしたい気持はありますが祝をしてから生活に困窮するのではさうしてもらいたくない。
司会者 なるべく立派にやりたいといふ気持の根拠は何ですか。
杉田 昔からの風習で家の人も肩身がせまいやうな感じを受けるわけですね。
岩附 “一生に一度のお祝”確かにその通りです。然し一生に一度だから派手にしなければならない筈はないと思ひます。華やかな式を挙げれば華やかな人生が続くわけではないでせう。結婚はお金でもなく形式でもなく精神と内容であり自分のためなのですから…。

  親の頭の切替が先決
関根 岩附さんの御意見に賛成です。因襲の根づよさからいろいろの難関があるでせうが。お若い方が時代を認識して生活の改善に協力して戴きたい。若い人は我慢しても親が承知しないのですが年寄達も若い方の努力によつて頭の切替ができるのではないでせうか。
村長 私も嫁の世話をしたんですが…向うもはだかで結構ですからといふのだが親達はしきりに世間並のものを作つてゐる。それでも親達ははだかで行くのだと云つてゐるんです。本人が幾ら理解しても親達が承知しないんだから困る。
水野 持つて行つたものを飾るだけならよろしいんですが中のものまで出して次の日は一日近所の人に見せてゐるんですからね。
関根 私の時もさうです。支度の少い原因でなんだかんだ始まるのは年よりで、年よりの頭を切り替へなければならないですね。
簾藤 家は本人本意でやりたいと思ひます。娘も支度は何もいらないと云つてゐますので…とつてもそんな支度はできません。
村長 それが東洋人の欠点でさういふことを云つてゐながらきつとやるんですから。
水野 村としての生活改善の規約ができてをれば了解できるわけです。私どもの時は支那事変でちやんときまつてゐましてその通りやつたんですが。
西沢 私の娘はかういふ結婚はしたくなかつたと後で申しました。約束するときは着のみきのまゝでよろしいからといふことでしたが先は職人で箱を支度して持つてきた。家は何も入れてやるものがないだ、空気か水を入れてやることしかできないんだがと申したんですが、それでも祝儀、不祝儀に着る着物がなくては仕方がないのでどうにか幾つか入れてやりました。千手堂の字としては近所の人が集つて箪笥の中を開けてみるのださうですがこれにはよわりました。もらう家で我慢していただけばかゝりをかけなくてすむと思ふ。然しもらふ方では財産が殖えるのだからこれを規則できめるのはむづかしいのではないでせうか。
司会者 結婚の当事者は気にしなくても親が古い因襲にとらわれて分不相応な支度をすることになる。これを改善して行くには組織の力が必要である。

  結婚式を公営に
金子 それに対して一つの希望がある。見栄の面で、もらう方の人にしてもくれる方の人にしてもその点女の方がなり易いと思ふ。結婚式も個ゝ別の家でやるのでは制限できないから神社とか公会堂を利用して式場にあてれば一定されると思ふ。その場合婦人会の人達が組合組織を使つて式一切は組合にまかせる。道具の場合も組合なら組合にまかせたら簡素化するのではないか。
司会者 比企の連合社会教育委員会で建てた案がありますが道具に点数をつけて百点以内で用意するやうになつてゐる。箪笥二十五点、夜具フトン二十点、下駄箱三点、ベビーダンス三十点、ミシン十点などで方法としては面白いと思ふ。
西沢 新しい規則をきめてもらつてもそれを破るのは誰かといふことである。
村長 それは時代の推移で、できる人できる時代はいいと思ふ。昔は普通のお嫁さんで箪笥を一つ持つてくれば上々である。最近は牛車一台が普通になつた。それだけ一般の力があるのだらう。かういふことがいつまで続くか。経済状態が行きづまればできなくなつてしまふ。力のあるうちは自覚以外にはないと思ふ。生活の改善は異口同音に云つてゐる。
小林 さういふことは誰でも云つてゐますね、婦人会ができたのにまだやらないんですかと聞きにきます。
村長 村によつてまちまちだから形式的に終つてしまふことが多いのではないかと思ふ。これに反対する人といふのは恐らくないだらう。
金子 式場を一定することはいいと思ふが。
司会者 それは飛躍しすぎる。周囲の環境が町と違つてゐるから。
小林 式場より嫁さんの持つて行くかゝりが大変です。

   支度には普段着を多く
村長 支度の中で役にたつ品物はどういふものですか。
水野 皆役に立つことは立ちますが…私なども一番地味なものをめつけて着てゐるんですが…皆派手で…十年も二十年も先のことを考へて地味なのもこしらへてやらなくては。
司会者 嫁さんに行けば主人に作つてもらふことは殆どない。
水野 無賃(たゞ)奉公で十年も二十年も…。
村長 戦争中モンペを十枚も十五枚も持つて行つた話もある。
水野 実際問題としては普段着を沢山持つて行かなければならないのですが、見栄もあつていいものを持つて行かなくてはならないんです。
村長 女の人も悪いんですよ。買ふより着ろといふのにいい物をしまつてをくから。
水野 あんまりいいものを一時に用意しないで普段着の方を沢山作つた方がいいですね。
金子 お嫁さんをやる時に貯金なんかをするのはいいことだと思ふが…。
村長 それは結構だが貯金といふのはさう簡単にはできない。月に五十円や百円貯金したところで問題にならない。それよりか、子供が生れたら桐でも何でも植えた方がいい。僕は非常に感謝してゐることがある。家の父が植えた桐が二本ある。孫が嫁に行くときタンスにするんだと云つて植えてくれたのである。
司会者 嫁に行つても嫁入り先ですぐ支度をしてもらふわけには行かない。普段使つてゐたものがあるのだからそれを持つて行けばいいので十年も先のことまで用意する必要はないわけだ。

   嫁はしいたげられている
村長 根本問題としてお嫁さんをもらふ心構へが根本的に間違つてゐる。家は手間がないから嫁さんをもらふなど牛や馬の代りだと思つてゐる。これは間違ひだと思ふ。嫁さんは働かさせればいいと思つてゐる。それで嫁さんが次の代になると、私の嫁時代はかうだつたからと云つて働かせる。朝から晩まで黙々働けばいい嫁さんだといふ。
水野 年よりの方の教育をやり直していたゞきたい。
村長 もの日に家へ帰る時には喜んで家へ帰つて行く。毎日しいたげられた生活がのんびりできるからだと思ふ。
西沢 それはたしかですね。
司会者 精神的に窮屈なんですね。
杉田 私は前に豪勢にやつてもらいたいと言つたんですが、昔からの風習を打破して最小限度にやりたいと心の底には思つてゐるんです。村としても生活改善の道を一日も早く開いてもらいたい。婦人会が組織されたのですが女子青年団あたりにも呼びかけてやつてもらふといいのではないかと思ふ。
関根 年よりの頭を切替へていたゞけばいいんです。
村長 個人によつて違ふので年よりと一概に云ふことはできない。お互いがさういふことにならないやうにするんです。自分の過去を押つけようとしてはいけない。
西沢 根本的におやぢ教育をしてもらいたい。
水野 支度しなくてもいいから行きますもらひますといふ風にならないんでせうか。
関根 婦人会が中心になつて生活改善の問題と真剣にぶつかつて行つたらだんだんよくなつて行くのではないかと思います。他の町村でもかうした問題がおきてゐることゝ思いますから、互ひに手をつなぎ協力すればうまく実行されることゝ思ひます。
司会者 ではこのへんで…。

   『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


家族の健康は食事から 古里支部・安藤たつ子 1974年

2009-10-16 11:14:00 | 1974年

   家族の健康は食事から
          古里支部・安藤たつ子
 まず家庭の食事は家族全員が何時も健康で元気で過せるように栄養の面でも十分みたされ、楽しくいただけるものが望ましいのではないかと思います。
 そのために私達主婦がいつも献立を立てる前に、次のようなことを心にとめておいたらいかがでしょうか。
 その1つとして、年令別、労働別に考え1日に必要なカロリーをみたすこと。
 その2、個人個人の好みを尊重して、家族全員の喜ぶ料理を組み入れること。
 その3、季節のものを十分活用してなるべく安く経済的なものにする。このように1日のうちにどんな食品をとったらよいかということを考えることが非常に大切のように思えます。
 私達の体は酸性とか、アルカリ性に片寄ってはいけません。中性が良い訳です。ですから酸性食品とかアルカリ性食品をバランス良くとるようつとめなければなりません。
 胃が丈夫でなくては何を食べても吸収せず、健康は維持できません。そのために私の家庭では、キャベツのジュースを作って飲んでいます。
 キャベツは煮物にしたり、そのまま刻んで食べても効果があります。ただ胃の弱い人の場合、量はたくさん食べられないし、硬いものは困りますから、やはりジュースにしたほうが良いようです。キャベツは胃潰瘍にきくビタミンUと言う成分が入っているので作ってみました。
 「ジューサー」にかけたものは、そのまま飲むのでは生臭いので、レモンや蜂みつを入れてのみます。レモンにはビタミンCが含まれ、蜂みつは果糖とブドウ糖が主ですから早く効果が表われます。
 私達の家ではみつ蜂を飼っているので、毎年春になると新鮮なみつがとれるので、どんな飲物、料理にも使っています。蜂みつは量をたくさん飲んでも体には害がないようです。それが証拠に、最近私の家族では定期検査を受ける以外はお医者さんにかかる人はありません。
 これからはどんな野菜、果物でもジュースにして飲み、益々健康が保たれるよう心がけるつもりです。

   嵐山町母子愛育会『昭和48年度合同研修会資料』


愛育会について 広野支部・宮本郁代 1974年

2009-10-15 17:03:00 | 1974年

  愛育会について
          広野支部・宮本郁代
 私にとって死ぬほどつらかった10ヵ月間の長い妊娠の日々を経て無事出産にこぎつくことが出来まして、約半年を過ぎようとしている矢先、愛育会の役員を受けました。
 妻となり、母親となり、家事に追われつつの私には、大変な重荷となりました。果して愛育会活動にどの程度の協力をしていけるかが疑問でした。
 第一回の役員会議に出席したとき、愛育会という「システム」をいかに理解しPRして行けるかすっかり自信を失ってしまいました。何故なら子供連れは私だけでありましたから、いったい愛育会の主とする所はなんだろう、こんな現状の中で、現代の育児について何が話し合えるのだろうか、複雑な気持で一杯でした。そして会合を重ねるうちに、保健婦さんや助産婦さんから愛育会活動について、くわしく説明があり、始めて認識されたのです。子育を生み育て、お年寄りの健康管理等すべて私達主婦の役割こそ重要であることを深く反省させられました。それに合せて、心身の健全さが、隣近者【隣近所?】にとってなにより連帯を持つものだということも実感として湧いて来ました。
 私の身辺を見わたしても、すべて関係してくるもので、絶対に欠かすことの出来ない愛育会システムだと痛感いたしました。今思うと私の浅はかな考えであったのです。何も幼児を持つ者ばかりの集いでは何にもならない。経験豊富な人達との交流をすることによって、若い母親にも大変勉強になるのではないでしょうか。
 私も愛育会に入って、早いもので後わずかで1年になろうとしています。毎月の家庭訪問が頭から離れない。今日こそはと思いながら一度も出来ず残念に思っています。
 何かが心にひっかかってならない。鉛筆とカードをもって出かけては何度家に戻ったことか。
 まだまだ私には愛育会の活動内容が自分のものになっていない。本当に理解できないことに気付いた。
 核家族の家もあれば、お年寄りだけの家庭もある。種々雑多、得るものは沢山あるはず、1戸1戸の家庭環境を十分理解し、有意義な訪問をするには、もっともっと会員の方達の協力が必要だとつくづく思いました。
 子供を育てること、明るい家庭を築くのも、主婦の健康な身体が重要視されるのではないでしょうか。それにはやはり愛育班活動を役立て、知識を高めていくことより他ないのではないでしょうか。私も2年前こお会を知っていたら、10ヵ月という長い間、あんな不安な日々を送らずに済んだのだなあと、今更のように感じさせられました。
 現在年老いた祖母をかかえ、1才7ヵ月になるいたずら坊主を相手に忙しい毎日を送っているかたわら、いつも愛育会の一員であることを忘れることが出来ません。

   嵐山町母子愛育会『昭和48年度合同研修会資料』


活動経過について 平沢団地・高橋宇良 1974年

2009-10-14 13:56:00 | 1974年

   活動経過について
           平沢団地・高橋宇良
 私の支部は嵐山町の西部の小高い丘の上にある団地です。この団地は各地の人が集った団地ですので、他の地域の愛育班と違って、個々の人生観がありますので、60世帯ありますが、入会している方は16世帯しかありません。年齢の高い方が多いので、もっともと思っております。私もこの土地に越して来て3年、愛育班組織について初めて知りました。【中略】
 この年になって愛育班活動に参加いたしましたことに、東京の息子達に「お母さん、愛育会に入る年じゃない。敬老会に入る年だ」と言って笑われました。でも皆さんのお話を聞いたり、一生懸命やっている姿を見て、年寄りの冷や水と思いましたが入会したような次第です。
 48年(1973)度は支部を責任をもってやることになりました。班長さんと協力してやって見ようと歩み出しましたが、何をやってよいやら手さぐりのようでした。でも皆さんと相談してやったことを順序を追ってお話しいたします。

 月日  活動状況
4月16日 嵐山中央公民館にて支部長会議。
4月17日 平沢団地新旧役員集り新役員を引継ぎました。
5月10日 全会員集り夏休み中の子供を対象にした催しをやることを話し合う。
6月21日 午前中班員宅にて各自自慢の料理を作り、各家庭の味を試食しなごやかに終る。
7月 9日 支部長会議を役場で開催、本年度事業計画を協議。私の支部では乳児相談と成人相談日を決める。その後くつ下の古いのを利用した造花の講習を行う。
7月16日 午前10時より乳児健診を役場で実施したが、余り暑いので思ったより来ませんでした。
7月20日 平沢団地の成人相談を行う。保健婦さんと助産婦さんが来て血圧測定と指導をいたしましたが20名でした。
8月22日 夏も終り近くなったので、団地の小学生を対象に写生会を開催、愛育会に入ってない人も、声をかけましたので大勢集り、お母さんもも一緒に来て図画を書いたあと、西瓜割をして遊びました。図画を先に書かせましたので、皆がかいたようです。
 暑いので班員宅の庭で花などを写し、思い思いにたのしく午前中に終りました。母子共一緒に遊ぶのも大変良い事と思いました。
8月20日・28日 48年度東松山保健所管内合同研修会が東松山三和銀行会議室で開かれました。
 保健所の西島所長さんの不幸な子供を生まないために、埼玉医科大学前田先生の老人福祉について、川越市役所、町田係長さんの愛育班活動などのお話をきいて大変参考になり、立派だと思いました。その他嵐山町と東秩父村愛育班による事例発表があり、質問などもあってたのしかったと思いました。
9月11日 中央公民館にて、ダスキン主催の古いくつ下を利用した造花の作り方やその他面白い利用法をきいて参考になりました。
10月12日 幼児の健康管理、栄養協議会について相談し乳児検診日を決めました。
11月 2日 午前9時頃より平沢団地の乳児の訪問をいたしました。体重を測り健康状態の観察をいたしましたが、皆元気なお子さんなので安心いたしました。
11月20日 午後1時から3時まで日赤の岡野婦長さんの幼児のかかり易い病気と手当について大変良いお話がありました。余り集まらなかったので残念でした。
12月17日 消費者講習会、現在の石油、プロパン、ナイロン化学製品の見分け方、洗濯のしみぬきのお話。

 以上のようなことを行ってきましたが、私達役員は会員さんから受けるいろいろな問題に対し話し合いの中で検討し、専門家に指導をあおぎながら活動をすすめてまいりました。来年度はこれらを参考に頑張って行きたいと思います。

   嵐山町母子愛育会『昭和48年度合同研修会資料』


読書会「夕月」について 安藤たつ子 1988年

2009-10-13 20:40:06 | 1988年

   これから秋本番!
     読書は人間形成・文化の芽
 読書は、個人的には人間形成、地域的には文化の芽の育成に役立ちます。
 町では昨年から、町民文化大学で「読書講座」が設けられ、少しずつ活動的になろうとしています。また最近町立図書館が誕生し、町はその充実に力を入れ始めました。一方、個人で図書館へ二〇〇冊、五〇〇冊とまとめて蔵書を寄贈する人も多く、かくれた読書家もかなり多いことが分かります。
 こんな読書状況の中で、いくつかの読書グループのうち、「夕月読書会」について、安藤会長から紹介してもらうことにしました。

   読書会「夕月」について
 移動図書館利用の読書会、「夕月」が発足して、今年九月でまる五年経過しました。
 五十六年(1981)の五月のことです。「嵐山の味ってなんだろう」。私たちの手で町の味を作ってみようということで話が進み、栄養士の山田美子さんを中心に「味の会」という料理の会が誕生しました。希望者は気軽にどうぞと募集したところ、五十名余りの会員ができました。その後、毎月一回の例会を重ね、身近な人たちとのふれあいを広げる場として、楽しい料理講習会が運営されてまいりました。
 それから二年余り経過したころ、味の会会員の中から、これだけおおぜいのメンバーが集まっているのだから、何かほかの勉強もしたいねという声が出て、いろいろ話し合った結果、十一名による読書グループ「夕月」が誕生したのです。
 この読書会では、この読書会では、いろいろな本が借りられ、返却日に期限がありますので、なんとか時間をみつけて期限までには読んでいます。
 皆さんと楽しく、また喜んでもらえる学習の場となっていただければと願い、二か月に一冊というテンポでやってまいりました。して言えば、基礎固めに時間をかけた学習期間だったように思います。
 現在の会員も、発足当時の約二倍の二十名に増えました。私たちの読んだ本の内容は、やはり女性を中心にしたもの、自叙伝等さまざまでした。
 自分たちの生活と共通するようなものもあれば、まったく逆な想像を絶する夢の世界へとひきこまれそうな本を読んでいるうちに、作者は何を思い、何を訴えようとしているのかと、活字を追うごとに頭の中で未知の世界を想像しながら、夜長を過ごしたこともありました。
 そうして返却日には、話し合いが行われるわけですが、会員の過半数が務めをしているので、夜でないともてません。本が配布されるとき、いっしょに連絡票と返却票が渡され、次回の当番の人の名前が記され、当番に当たった人は、当日は早く行き準備します。欠席の人は、前もって返却票に感想文または感動した箇所の抜粋を書いて提出していただきます。ですから、当人は欠席でも返却票が提出されるので、全員出席の話し合いとなるわけです。
 話し合いは、全体から自由に感想を述べ合います。人それぞれに感じ方、受けとめ方が違うので、とても楽しい話し合いが。できます。さらに本の趣旨とは無関係に、日常的な話題やら空想的な立場で話が飛び交い、一段と楽しいひとときが過ごせます。
 話し合いの中から自分を見つめ直す場として、また自らを表現するという行為を通して、前向きの人生を生き抜くための最高の勉強会ができると共に、いまでは発足当時に比べると、一人一人の読書に対する熱意と進歩がはっきりとうかがわれます。
 私たち婦人と社会のかかわり合いは、勤め人主婦という立場や役目を考えるだけでも、切っても切れないいろいろな学習課題があり問題が起こってくるものです。
 そんなことに適切な対応ができるには、個々の認識と行動の努力が大切であり、皆様と同じ場をもつことによって、悩みや問題をいっしょに考えるきっかけとなりうるならば、もっと多くの人たちに呼びかけて、本のすばらしさ、ありがたさを知っていただきたいと願っている昨今です。
 これからの課題として、読んだ本の舞台を歩く、いわゆる文学散歩・演劇鑑賞などをして、さらに違った角度から視野を広げ、心を深め、また他のサークルとも交流しながら、豊富な知識を身につけていきたいと思っております。
   『嵐山町報道』366号 1988年(昭和63)9月15日


支部活動より感じたこと 菅谷支部・新井静枝 1974年

2009-10-12 15:29:04 | 1974年

   支部活動より感じたこと
           菅谷支部・新井静枝
 石油問題、物価高と目まぐるしい昨今、保健婦さんや会長さんの御指導のもとに、支部長の役をお引受けしてから早9ヵ月、皆さんの思いやりと、心からなる暖かい御支援とに支えられながら、何んとか大役を果しつつ、会の運営も軌道にのって来たのかなと1人感じられるようになりました。
 私が支部長になって、先ず一番困ったことは、この1年間どのようなことを行ったらよいのか、年間計画でした。愛育会に入会して半年、会の目的も又会員の皆さんの顔ぶれも殆んど分らない、暗中模索の中に出発してしまった訳です。そして試行錯誤、失敗を重ね歩きながら物を考えて来た次第です。
 幸いにして良きお友達、良き「アドバイザー」に恵まれましたので、紆余曲折はしましたが何とかここまでくることができました。さて活動面です。私は今までに3つのことを行ってみました。
 第1は親子で梨狩りです。食欲の秋に先がけ、参加者も多く、親子で半日のびのびと行楽をたのしみました。新鮮な梨を十分満喫できたことは勿論ですが、それにもまして、お子様達の嬉しそうな顔は、何ものにも代えがたいものでした。母親達も目を細めつつ、一緒にお相手をしながら、来年もこの種の催しものをいたしましょうとお互いに話しあったものです。
 第2は会に対する「アンケート」
 あなたは愛育会を何で知りましたか等の問いは若いお母さん方で愛育会の存在を知らず、育児に困っていらっしゃる方達が多いため、効果的な普及方法は、何がよろしいか、又折角入会していても、脱会される方がありましたので、その2つを「ポイント」に原因探求も併せ行って見ました。
 会の存在を知らせる方法としては、友人からのすすめが大変効果的であるということが分りました。ですから会員皆さまからの呼びかけを切にお願いしたいと思います。
 脱会者に関しましては、赤ちゃんが大きくなったのでという意見が40パーセントを占めていましたが、これは支部活動が乳幼児中心を意味しているようにもとれますので。健全な家族の発展(健康管理等)の催物をとり入れること等によって、脱会者を少なくできるのではないかと思います。又、会の目的、意義が分らないうちに役が廻ってくるからという意見もありましたが、これは今後皆さんと一緒に考えていかなければならない事項ではないかと思っております。
 第3は幼児の性教育について
 役場の保健婦さんの「アドバイス」のもと、参考書によって紙芝居形式により試験的実施をしましたが、これはやはり賛否両論でした。この種の教育は重要な意義を持っておりますとともに、多分に危険性をも併せて包含しておりますので長い目で、且つ会員で無理のない、正しい方向を見つけ出して行かなければならないと考えております。
 第4は「テーマ」のより良き愛育会の発展のためには
 菅谷支部は若い母親が多いため、役員も当然乳幼児連れとなり、子供の昼寝、健康上の問題等で、班活動も思うようにいっていないのが現状です。そこで役員の負担を軽くし、且つ会のより良き発展のために、次の事を提案したいと思います。

 (1) 支部長の選出には、少くとも会に2年以上参加し、十分な経験のある持主であること。十分な経験の持主であれば、会のまとめ、運営、連絡など、心おきなくでき、円滑に行きます。それが入会間もない人達に役が廻ってしまうと、大変な心の負担にもなり、それがひいては脱会の原因にもなりかねません。
 (2) 班の小規模単位制
 現在の菅谷支部では1班長単位の受持世帯が11世帯以上多く、連絡などに相当離れた所迄足をはこばれているのが現状です。留守など勘案すると苦労この上もありません。ですから地域別に班単位を検討し、「コンパクト」な班にする。
 (3)役員の削減
 班によっては役員が2人の所もあります。従って「コンパクト」な班によって役員数を1人に統一するけれども、役員とていつ子供の発熱等によって突然の出来事がないとも限りません。そんな時気軽にお願いできる親身のお友達、言うなれば「ピンチヒッター」要員を作っておくことは常日頃必要とは思いますが。

 役員9ヵ月、思いつくままをのべさせていただきました。何かの参考になれば幸いと思っております。会員の皆さん健康には注意いたしましょう。

   嵐山町母子愛育会『昭和48年度合同研修会資料』