『しらうめ』第9号 嵐山町・菅谷婦人会 1988年(昭和63)4月発行
●最近感じること 菅谷婦人会長・中村きみ
わが町嵐山も、昨年は町制二十周年を迎えて、記念すべき幾多の行事が催され、会員各位の御尽力と相俟って、歴史は大団円に創られつつあるのがみえるようです。
こうして今年も活気ある町づくりの一環の裡に、婦人会も協力と前進に弛まぬ努力を、惜しむものではありません。
和合に依る、一致団結、それに依って溢れ出る意気が、限りない力となって会を揺ぎなきものとするでしょう。今年も又、どうぞ宜しく。
『しらうめ』第九号を、お届けします。お忙しい中、原稿をお寄せ下さいました方々に厚く御礼を申し上げます。(本部・西尾)
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
涙受くうつわがあれば溢れ出す
ひとときを亡夫に逢えた大掃除
厨にて玉ねぎでない涙拭き
夫の居ぬ畑こんなに広すぎる
友有りてくじける心励まされ
懸命に生きていますと犬ふぐり
アルバムへ青春に手が届きそう
娘に貸した一万円は戻らない
定期券年令偽って二年過ぐ
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
心こめ作り上げたるくす玉を
安全運転願い手渡す
(交通安全母の会のお母さん方が鬼鎮神社のお祭りの日に)
節分祭にころげて土にまみれたる
だんご豆など幼拾えり
(鬼鎮神社の豆まき情景の一コマ)
手作りの凧の糸ひき天空に
およがす童気遣う老人
(嵐山町こども会の手作り凧上げ大会にて)
かき鍋に庭にみつけし蕗のとう
刻みてやくみ一品増せり
(寒のもどりの夕餉に…)
いま銀座鍵かけて寝よと夫の電話
楽の音人声耳にのこれり
厨辺に帰らぬ夫の膳片し
葭子の歌集くり返し読む
(夫の愛人と一つ屋根の下に住む葭子より倖と想わねばと……)
葭子=三ヶ島よし子
皮むきて渡す息子の手逞しく
LLの梨小さく見えたり
(吾子の成長にはっとして……)
篠懸の大樹のもとに踊る生徒ら
日やけし脚ののびのびとして
(K市の女子高校にて)
澄みし空篠懸大樹仰ぎみる
再度の勤め終はる朝に
(右に同じ)
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
去る三月二十六日、七区婦人会は七十才以上のお年寄をお招きして恒例の茶話会を開きました。当日はあいにくの雨模様でしたが、八人の方々の出席が有りました。
会の内容は手芸(タオル地のワンちゃん)から始まり、その後婦人会員による手作りの料理を囲んで歌と話に花が咲き、和やかな内にお年寄との親睦がはかれ、有意義なひとときを過すことが出来ました。
来年度もこのような会が続くことを祈っております。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
『しらうめ』の原稿をと言われ色々考えあぐねた末、結局支部活動の報告となりました。
今年は昨年と比べて活動も少なかったかも知れません。これも役員の怠慢と反省して居ります。しかしいまとなると会員の皆様の積極的な協力にとても感謝して居ります。
さて八区としましては、まず婦人会館へ向かう主要道路とバイパスの缶、ビン拾い、菅谷神社境内の中央集会所の清掃二回、町民体育祭の日の焼ソバ作りとその前日の準備会、親睦を兼ねた新年会、そしてヂーゼル社員倶楽部での懐石料理(個人負担)も試みました。どれもこれも会員の方々の協力で成りえた事で日頃忙しさの余り疎遠になりがちな皆様とも接する事が出来、婦人会ならではの楽しいそして充実した時間で有りました。行事の中の缶、ビン拾いですが、なんとゴミの多い事か、どうしてこうも缶等投げ捨てる人達が多いのかビックリ致しました。しかし缶拾いの後の皆で五目ごはんを作り昼食としたのも楽しい一ときでした。
集会所の清掃ですが出来てから十年も過ぎたと思います。近代的な建物では有りませんのでこれ又大変な仕事なのです。机の上に椅子を乗せ、その上に人が乗り、天井、換気扇、蛍光灯、扇風機とふくわけですが、椅子を押える人、ぞうきんをすすぐ人とリレー式でやり大変な作業です。清掃の終えた瞬間思わず「きれいになったわねえ」とつくづくみまわし何んと気持ちの良いことか……。力を合わせ、みんなでやったからこその味わいです。
八区の反省として研究会とか講習会とか、もっとやっても良かったかと思って居ります。会員の中にも隠れている才能を持った人がきっといるでしょうから、そういう人に協力して頂き乍ら……。
八区は現在会員十四名これから会員を増やすことに努力したいと思います。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
一月二十八日午後、公民館の調理室に於いて、お年寄りの夕食作りということで、初めて私達も参加いたしました。
少々時間に遅れて何だかきまりわるかったけれど、その時、中村会長さんが「ご苦労様です。ではこの場所でお願いします」と言ってくれました。すでに調理が始まっていましたが、皆さんと一緒に協力できほっとしました。日赤奉仕団の人達と一緒に、野菜をきざむ人味付けをする人、それぞれ手際よく分担して作りました。出来上った品はチラシずし、おかずは小魚の天ぷら、それから人参、ごぼう、しいたけ、コンニャク等の煮物、それぞれおいしいものがたくさん出来上りました。
それを二階の会議室に運び、約七十人分ぐらい容器を並べてつめ合わせ予定の時間までには作り上げました。
それを早速、地区の民生委員さんが一人暮しのお年寄の家庭に配りに出掛けました。日赤奉仕団と婦人会の人達二十人で真心こめて作ったので、おいしく食べてくれたことと思います。
色々と皆さんに教えていただき、本当にこの日は楽しく時間のたつのも忘れて良い勉強になりました。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
この3月に町主催で、各種スポーツ教室が開かれました。私は、卓球教室に参加してみました。夜、川の向うの海洋センターまで、自転車で行くのはこわいし、友だちもいないし……とか不安なことは考えないことにして、とにかく参加してみました。行ってみると、下手ながら、汗びっしょりかき、楽しかったのです。
婦人会館の方も二~三人みえましたし、新しい友だちも出来てしまいました。家がすぐ近くなのに初めて会った人もいました。指導者、大井西中の卓球部の中学生たちに感心しました。私たちは彼らを「先生、先生」といっていろいろ教えてもらいました。彼らも私達に教えることで勉強になったであろうし、礼儀も自然に身についていくし、いい社会勉強をしているなあと、思いました。あっという間に五日間の練習は終わってしまいました。
皆さん、婦人会で、支部対抗の卓球大会をやりませんか!
各支部活動の中にも卓球教室を計画していただいて練習と親睦を計っていただければと思います。だれにもできます。
特に新しい体育館で卓球台が素晴しいのです。ただし準備運動を忘れないで下さいね。二瀬の川岸の桜並木を眺めながら海洋センターまで散歩あるいはサイクリングもすてきです。では、今年の支部活動に卓球教室を入れて下さいね。
一会員一スポーツを!
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
親の云うなりに嫁ぎ、夫から淋病を移されて生家に戻ってきた吟に、姉の友子は「折角あれだけのことをして、お嫁に行って惜しいとは思わないのですか。あなたは勝手すぎます。我儘ですよ」と嫁として道がたたないことを執拗にたたみ込むが、当時の婚姻に於ける女の哀しさが出て何とも憐れである。
吟が女医になることを決定的にしたのは、荻江の父である万年から、順天堂の医師佐藤尚中の診察の機会を与えられた時である。
局所を診察され、そのおもいは想像を絶する程であったろうと思う。その描写によると、吟は眼を閉じ、血が出るほど唇を噛んでいた。こんな所で秘所をみられるくらいなら、死んだ方がよかった。たとえ医師とは云え秘所を覗くなどと云うことが許されることであろうか。しかも相手が女ならまだしも男である。吟は淋病でなやむ多くの女たちを、同性である自分が、看てやろうと思い立ったのは、実にこの時である。
当時医師になるには、男でさえ極めて限られた道しかなかった。殊に西洋医学の習得と云うことになると、その道は一層狭く、東京、長崎、千葉の三箇所しかなかった。現在の東大医学部、長崎大医学部、千葉大医学部である。従って女の医学所は皆無であるし、女が医者になること自体がこっけいすぎるほど不可能であった。
吟が医師になることを最初に告げたのは、荻江であったが、彼女は突然のことで驚きもし又吟の堅い意志が強固過ぎる程に、反って不安を感じたとあるが、母のかよも予想通り仰天し、そして猛烈な反対でどうしても許さなかった。吟は途方に暮れた。そして思い余って万年に相談した。万年は呻吟しながらもできるなら吟の望みを叶えてやりたいと痛切に思った。
万年はかよを説得する方法として、女医者になるなどとは云わず、しばらく東京で学問をさせてくれと願いでては如何かな、それなら許してくれるかも知れぬと、万年の考えはさすがに老獪であった。
かくして明治六年四月、吟はようやく上京したとある。吟二十三才。女医者への第一歩である。出立は母のかよと、姉の友子が見送ったが、母は終始無言で、姉の友子だけが何くれと世話をしてくれた。あなたは自分の思った途を進んでいけるから、幸せな人ねと吟に云ったが、強引に進む吟に友子は一種の妬ましさを覚えていたのである。
東京での新生活は、吟にとってはすべてが試練でもあり、酷しいものであった。井上頼圀の私塾で学問のスタートをきり、内藤満寿子の女塾の教師になったり、荻江の勧めもあって、創設されたばかりの女子師範(現在のお茶の水女子大)の生徒になったり、なかなかめまぐるしいが、何れも女医になるための教養学であったろう。
やがて女子師範を首席で卒業し、教頭教授の永井久一郎から、陸軍軍医監の石黒忠瘜を紹介され、好寿院に医学生として入学できたことは、幸運であった。好寿院は私の調べでは現在の日本医大である。
好寿院に入学できたが、ここは当然ながら男子のみの医学校である。便所一つにしても、不自由極まりなかったとある。しかも絶えず男子学生の奇異な視線が吟を悩ました。通いの衣服も常に地味なものを選んだとある。
二年余りで、ここを卒えても医術開業試験の機会は与えられず、家庭教師などで生計を得ながら、その機会を虎視たんたんと狙っていた。東京府や埼玉県令(知事)に請願するも、ことごとく却下された。心境は暗たんたるものであった。思案の末、石黒と再び接し、井上頼圀のもとで読解した「令義解」が石黒をして、吟の博識であることを痛感させるのである。それに依って、遂に医師開業試験が認可されるが、それは真に言語に絶する難関さであったとか。試験は前期と後期の二回、つまり秋と春に分けて行われた。そして吟は勝った。この時、明治十八年三月、吟子三十五才の春であったとある。
も早立派な女医となった吟子は、順風満帆の船出のように、一路医業に進むのである。診療に明け暮れる毎日、それは吟子にとって、この上もない生甲斐であったろう。そして間もなくキリスト教婦人矯風会が組織されたのを機に、吟子も運動に身を挺するようになる。更にキリスト教を通じて、同志社の学生、志方之善と愛し合い結婚する。吟子四〇才、志方二十六才。志方の方が十四才も年下であった。
医学に情熱を燃やし、今更結婚などとの思いは囲りの誰もが同じで、吟子の将来を案じたが、吟子もやはり一人の女である。だがそれにもまして、志方が北海道開拓の仕事に打ち込むことによって、吟子は医院を処分し、家財道具はすべて使用人に分ち与えたとある。だが吟子がこれから、しようとしていることは一応立派であるが、医師としてはもとより社会運動家として、名をはせることは眼にみえている。その未来を失う本質的な損失が惜しいのである。そもそも吟子の結婚からして間違っていたのだろうと誰もが思った。今まですべてに理解と援助を惜しまなかった友子まで、吟子の北海道行きを猛烈に反対した。
北海道開拓は惨めにも失敗した。瀬棚町に出た夫婦はそこで、婦人科小児科医院を開業した。吟子が女医第一号と云う栄誉ある医師であることも、社会運動家としても名高いことも、この最果の地で知っている人はいなかった。十七才の吟子が、医師になる過程を読み追ってきた私にとって、何とも切なく哀しかった。
その後、志方も病を得て没し、志方の死後ただでさえ口数少ない吟子は、一層寡黙となり婦人会にも、余り顔を出さず診療が終わると、家にこもって聖書と祈りの生活を送った。やがて心臓発作で倒れ、命だけはとりとめたが往診の出来ない体になっていたようだ。体力に自信を失った吟子は、この年の暮、東京へ戻ったが、五年後の大正二年五月二十三日、本所小梅町の仮棲いで、養女トミ一人に看取られて死んだ。享年六十三才であった。
女医第一号荻野吟子の伝記はここで終っている。十六才でした結婚も、忌まわしいまでに失敗し、結婚などこりごりと血の滲む思いで医師の資格を得たのに、キリスト教だの社会運動だのと、本流から亜流に流れた感もないこともないが、明治創期の新しいしかも聡明な女の宿命だったのか、それとも年下の青年との愛、やはり女の業を持ち合わせた普通の女だったのか。いずれにしても、東京女子医大を始めとして、女医の登録数は現在では数千人にも達している。医療界万才である。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
十一月十八日に体育部で大霧山へ登るという回覧板が来た。高さは七七六米と書いてあった。役員に当たっていたのですぐ廻したけれど誰も名前は書いてなかった。私より若い人が大勢居るのにどうして行かないのだろうか。とに角一人も行かなくては、折角のチャンスに山が好きでも登る事は出来ないので行く事にした。十八日は雲一つない上天気で風もなかった。嵐山駅を下りの九時十分で乗り小川町で降り、皆谷白石行きというバスに乗った。全部で十五人でしたが、私が一番年長でみな、はつらつとした三十代、四十代の働き盛りの人でした。でも体育部長さんやその他の人に「大丈夫ですよ、登れますよ。もう今年は最後の紅葉が美しく山を見ながらゆくのも記念になりますよ」と励まされ自信がついた。橋場という所で下りて歩いて行った。みんなズックにリュックサックを背にし、両手には何も持たない人が多かった。廻りの山々は常緑樹を除き、あとは半分は木の葉が散っていた。高い柿の木は実だけ残り、ゆず、みかん等も農家の庭先に植えてあり、黄金色にたわわに実り、誠に静かな山あいのをのぼって行った。みちの横には清冽な水が流れてさらさらと小さな岩にあたり、気持よかった。登りにかかって良い天気だったので体まで暑くなり、先ずカーディガンをぬいで腰に巻きつけた。段々登りが急になり、目的地の大霧山には十二時頃着く予定とあったけれど粥仁田峠までが約五十分その峠までが長かった。下を向いて歩かないと、もしころんでけがでもして皆さんに迷惑がかかると思ったので手頃な棒を拾い杖にして行った。私のポットも誰かが持ってあげましょうと言われ、ショルダーバッグも私が持ってあげるからといたわってくれた。汗が顔に自然に涌き出て、ハンカチでふいてもふいても止まらなかった。粥仁田峠というのは名前は知っていたが私にとっては初めての所でした。真すぐ行けば秩父の三沢方面に、そこに埼玉県の境界のコンクリート柱が二本あり、左に折れて大霧山へ行くのでした。そこからは急坂が続いて私は一番後になってしまいました。若い人達は足音も軽くトントントンと登ってゆき、さすがに若いっていいなあと深く心に感じました。もう少しもう少しと登ってゆき「あと五百米位ですよ」と私に言葉をかけてくれたので急に目の前が明るくなり、やっと廻りを見る余裕も出来ました。急な石段があり、そこを登れば近いのですが、石段のない道をゆっくり歩いてとうとう大霧山の頂上へ行く事が出来ました。さすがに高い、前方にははるか彼方、右の方には妙義山、草津白根、又左の方面には浅間山が回りの山々の間に、はっきりと見る事が出来ました。何て壮大な景色だろう。全く登った者でないとこの気持は解りません。今までの汗も出なくなり、カーディガンを着、山の空気はひんやりとしていました。待ちに待ったお昼のおべんとうを一寸頂上より下った所の平の場に十五人は腰を下して和気あいあいのうちにべんとうを広げました。私はウーロン茶をのみながら焼むすびをほおばりました。そのおいしかった事、今でも忘れません。そこから今度は帰り道に向かって気持も足どりも軽く、高原牧場の方へと下りて行ったのです。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
三食昼ね付きの毎日を過ごしていた私が、婦人会に入会したのは二年前のこと、以前は婦人会と云うと、孫でも居る程の歳となりひまが出来てからと思っていましたが、近所の方に誘われて入会して、そんなイメージはすぐなくなりました。今ではとても楽しく有意義にすごしています。
特に春の研修旅行、秋のハイキング、各講演会、体育祭参加、バザー等の催しなど……。
また、川島支部では恒例の鬼鎮神社節分会のときのおでん、あま酒販売、バザーの為の手作り品の作業をしながらの雑談は子どものことから健康に関すること、我家の自慢料理の話などつぎからつぎとでてきてとても勉強になります。そして盆おどりの時は地域との和がいっそう深まりいろいろな人と顔見知りになります。
昨年の夏には、二ヶ月かけておそろいのゆかた作りをし、針をもつのが苦手な私には最後まで仕上げることが出来るか心配でしたが、幸いなことに会員の中に、長年和裁の修業を積んだ方と、年配の方の良き指導者にめぐまれて、すばらしい出来ばえでした。
これからも、催しにできるだけ参加して、心豊かにまた友だちの和が広がることをたのしみに、婦人会を通して成長してゆきたいと思います。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
ふる里づくり推進協議会で、花いっぱい運動を始めて二年になるでしょうか。駅前通りや役場前に季節の花々が、白いプランターに植えられているのをお気づきでしょう。
文化行政の一環として、町民憲章が制定され、里づくりの意識を育てる町民文化大学と、十年も前から行政によって始められた住みよいふる里づくりも、この頃は町民が自分達の手でボランティア活動として広がりつつあります。この二、三年は庭の手入れは主人任せの私ですが、花いっぱい運動では、土運びから花の植え替えなど協力してきました。だんだん協力する人達がふえ、最近は苗を決まった場所に運べば、地域の人達が植え替えてくれて、毎日の水やりも定着しました。細長い町の北から南まで。トラックに乗って苗を配って走ったりして、嵐山町の地理が大分わかりました。地域で自発的に始めたあじさいの里、バイパスの一部には業者の手で盛土して四季の花が咲いています。四月になると町民が寄贈した都幾川堤の桜の若木が少しずつ花をつけ、芝生も青々として一つの名所になるでしょう。東松山の駅に嵐山都幾川堤の桜といsて大きなポスターがありました。
第一回の情報誌「美しい嵐山」がお手元に届きましたか。薬草コーナーや地域の環境づくりを心がけている方々を紹介するみんなの広場など、身近な情報をお送りします。
さて振り返ってわが家の花づくりは、せめて仏様の花位はと思いつつうまくいきません。「花と緑」の教室にせっせと通う主人は、日本橋のまん中に育ったせいか土いじりが身につかず、理論と実践がともないません。私も低血圧のためか日盛りで時々目まいを覚えたりするので、もうわが庭の小さい花づくりだけにしたいと思うようになりました。
旅に出て駅や旅館街で花が溢れているのは想い出の一つとして残ります。群馬県をドライブして、人里離れた道端にまでまっ赤なサルビアや黄色いマリーゴールドが続いているのは印象的です。
花はみんなの心を和ませます。花の溢れる美しい嵐山をみんなで作りましょう。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
四月に初めて婦人会の役をいただき、大したお手伝いも出来なかった事を、心苦しく思いつつも、ふり返れば、バスにゆられて社会見学で益子焼見物に行った時のこと、バスの中では次から次へとお菓子がまわってきたり、歌ったり又言葉送りの遊びをしながらの一日でした。お料理教室では娘時代の花嫁修業を思い出しながらの楽しい雰囲気でした。又嵐山まつりでは手作りのジャガイモのホットドッグ作りと販売、お客さんもおいしい、おいしいと作る方が間に合わない程の売れ行きでした。
夜間でのダンス講習会も町長さんと共に、楽しいひとときを過ごした夜でした。手編教室でのセーターの手作りも、又秋には好天に恵まれた、すばらしい紅葉の秩父路への登山(大霧山七六六メートル)でした。一会員さん宅での手作りコンニャクのおみやげをいただき、ゆずと福みかんの実る間をぬって、すばらしい風景を十二分に堪能しながら、又途中地元のお年寄との会話のひととき、頂上でのおにぎりのおいしかった事、本当に役員さん又一行一五名の方の心が一つになっての楽しい一日を過ごさせて頂き、いつまでも心に残る思い出が出来た事、うれしく思います。熊との遭遇もなく、途中みそおでんを食べて一休み、あと一息で下まで下山に成功、一時はヤッホー、ヤッホーのかけ声に返す言葉もない位大変でした。帰りのバスを待つ間、どこからともなく一口ずつくばられたドラヤキとハイビスカス茶をいただき、土べたにずらっと並んでの大自然でのひとときは、命の洗濯でした。又の機会を楽しみに、皆さんいろいろありがとう。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
私は、この婦人会に入ってから満五年目を迎えようとしております。本当に楽しい日々を、過ごさせていただきました。旅行の研修会や、さまざまな行事にもたくさん参加して私なりに勉強になりました。人とのめぐり合わせをして下さった会でもあります。
今年度のレク部活動を明記させていただきます。昨年度に続いて、
一、ダンス講習会
二、中国料理のお誘い
三、盆踊りの参加
四、嵐山町民体育祭の踊り
五、新年会の余興
この様に一つ一つの参加に当り、たくさんの御協力によりこの婦人会も成り立っているのです。会員の皆様本当に御協力有難うございました。又私は何もしなくても、副部長さん達の協力が何よりものかげがえのない力添えであった事でしょうか。感謝する次第です。どうか、今後の婦人会がますます発展されることを心から希望します。
最後に活力ある嵐山町ですので、もっともっと人を大切にして、ふれ合いのある場所をつくって明るく誰でもあいさつを仕合う町づくりをして欲しいものです。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月
五月二十七日 社会見学
コース 益子焼窯元見学…西明寺(昼食)
結城紬の里見学
前日からの雨で心配された天候も、雲は重くたれこめているものの、幸い降られることなく、一日が終わることができました。少々バスに乗っている時間が長かったが、バスの中でカラオケ、ゲーム等で楽しく過ごすことが出来たことが、親睦面でも良かったと思います。
反省として、
総会より体育部社会見学まで、短時間のためコース設定に時間がかけられなう、下見も出来なかったので、時間の余裕がほしかった。
十一月十八日 大霧山ハイキング
コース 小川町(バス)―橋場バス停…粥新田峠…大霧山…旧定峰峠…定峰峠…白石車庫バス停―小川町駅
今年は少し時間をかけて歩くハイキングに挑戦してみました。すばらしい天候にめぐまれて橋場バス停でバスを降り、身じたくをととのえ、大霧山へと出発しました。途中秩父名物のこんにゃくをおみやげにして、枯葉の舞う中を山頂へと向かった。途中何度かの急登りもありましたが、みんな元気に山頂に着き昼食をとり、一路帰路に着きました。年々歩くことの少なくなって来た私達も、老いは足からと云われています。今年もこの程度のハイキングをたのしみたいです。
菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月