離りては相寄り漁りの作業する
小舟の群れに海は明けゆく
漁了えし舟にまつわり餌をあさる
海鳥に舟着場はしばし賑わう
洞窟の闇とどろかし熱泉は
檜の樋走る湯けむり立てて
政事(まつりごと)に疲れし心身いかばかり
慰めしならん神の走り湯
波寄松に錦ヶ浦の失ないし
自然の姿杳(くら)く想えり
雨に濡れひときわ明るしどうだんの
小枝に芽吹きの気配漂う
出会う人みんな知人と思うらし
道ゆく嫗の深く腰折る
破壊と復興織りなせし昭和の幕引かる
この朝(あした)
降る雨の静けさ
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
嵐山町の『オオムラサキの森』の記事を目にすることが多くなり、
自然をまもり 環境をととのえ
緑と清流のまちをつくりましょう
という、町民憲章の一節が浮かんでまいります。この豊かな自然を愛し、失わず、次の世代に受け継ぐ大切さを心に強く感じます。
大変遅くなりましたが、『しらうめ』十号をお届けします。
今、婦人会でも仕事を持つ人が多くなり、時には頭を悩ますこともありますが、“地域とのつながりを大切に”よりよい婦人会づくりのために、皆で力を合わせて前進したいと思います。
お忙しい中、原稿をお寄せ下さいました皆様ありがとうございました。(本部=寺山記)
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
戻らない人生の悔い十指にも
着る服が決められなくて時間過ぎ
温もりは誘導をした白い杖
現実に引き戻されて夜を独り
紅生姜スキと描いても夫は居ず
水割りの亡夫が作りし梅酒汲む
友に見る倖せ色の蘭の花
ハイヒール母はどこまで知る権利
生命はかなし平成の御よ知らず
敬語です仏様ですあなたです
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
故郷はいつ来てみてもなつかしく
我が知る人は故人となりても
野の道を歩めば春は真盛り
タンポポすみれ昔のままに
家々の庭先広しこでまりは
垣根となりて今盛りなり
花大根紫色は畑の隅
三日見ぬ間に満開になる
自転車に乗りて買い物急ぐとき
静かにたたずむもくれんの花
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
手入済む門松の葉にやわらかく
新ひかりさす年のはじまり
車内にて今日の仕事をメモしたり
授業の連絡家事町のこと
渡りたき心抑えて信号の
青になるを待つ暮なずむ街
鍵穴を探し開け入る玄関に
猫の二匹が並びて待てり
茹で上げてブロッコリーのみどり冴ゆ
吾の育てし初詰みの房
便りなきが無事な便りと諦めて
床に入りたり息子ら案じつつ
靴下の爪先切れしをかがりやる
息子は有難うと履きてくれたり
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
となりのおばあさんは、今年八十八才です。足は少し弱くなったけれどまだまだ達者。銀行にも行くし、お友達の所へも遊びに行く。耳が一寸遠くなったのと、目が片方見えなくなったので本を読む事もお裁縫も出来なくなったようです。でも元気でいつもきちんと着物を着て、髪は自分で染めていつもきれいにしています。あまり、ぜいたくはしないで食べるものも自分で料理したものが好きなようです。明るい性格で昔の面白い話をよく覚えていて私にしてくれます。私の主人が亡くなって九年目、私の家に月に四回お茶を飲みに来るようになったのです。東京で暮らしていた時の話、戦中戦後の事、又、昭和十年頃の平和な時代の話、色々と話に花が咲いてつい時間が過ぎてしまいます。私のことを「○○さん、今が一番良い時ですよ、どこへでも旅行に行って楽しむ方が良いですよ。私のようになっては家の者が心配して出してくれない。」と申します。来年は八十九才。昨年はお孫さんに待望の赤ちゃんが生まれ、曾孫も四人になったそうです。
おばあさんは川島の方にお友達が居て、杖をついて遊びに行きますが、帰りに「ドッコイショ」と私の家に寄り込むのです。そして「此処まで来れば家に帰ったのと同じだ」と申しまして休んでゆくのです。そして私のことを「友達もだんだん少なくなってゆく。寝たきりになったり、亡くなったり、病院に行ってしまったりで……」と申すのです。「おばあさん、上ってゆっくり休んで行きませんか」と上にあげ、こたつに入ってお茶をのむと、「のどが乾いているのでとてもおいしい」と、何杯もさもおいしそうにのんでにこにこ笑って「家に帰っても夕食はおそいから」と一時間以上話をしてゆきます。若い人と違って話の中には沢山、教えられる事もあります。長い人生を通ってきたおばあさん、いつまでも長生きして私の家に遊びに来て下さい。
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
“いつごろやるのかしら”といつものように中村会長から声をかけられ、三月二十八日、南会館で七区在住のお年寄りを迎えての茶話会がささやかながら開かれました。限りある予算の中で馬場さんと買物をし、それぞれ作る物を分担しどうにか会を開くことが出来ました。それに会員の皆様の手作りがかなりあり、テーブルの上はけっこうにぎやかになりました。
まだまだお年寄りと呼んでは失礼な元気な方もいらっしゃれば足が痛くて歩くのも大変な方もおられる。それぞれ長い年月を生きてこられた私たちの先輩であります。
最近は時代の流れとでもいいましょうか、一人暮らしの老人やさびしく余生を送っている方とか実にさまざまです。それぞれの悩みや今まで生きてきた体験、現状の毎日の生活等話したいこともたくさんあることと思います。しかし身近なためかえって胸を開いて話せないことも多々あることと思います。
おしゃべりしたり、歌ったりひとときは楽しく過ごしても現実はけっして甘いものではないのでしょう。その後、近所の方から、“とても喜んでましたよ”とお言葉をいただき、今回で六回目のようでしたが、やるのは大変なことかもしれませんが少しでもお年寄りの笑顔がみられることはうれしいことです。
地域の婦人が地域のお年寄りとの世代を超えた交流が生まれ、それによって地域への愛情も増すのではないのでしょうか。
お蔭様で七区には大黒柱的な会長がおられます。婦人会のバックボーンとなって今後の御活躍を期待しています。
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
朝、窓の外には厚い氷の張ったバケツが目に入る。何のうるおいもない凍てつくような大ジモ。雀たちはそれでも早起きで、チュンチュンと電線に止まっている。
二月……この月は日は少ないけれど、曇ったり雪が降ったり、雨になったり又良いお天気だと大風が吹き、静かな日は少ない。でも陽の当たる所は水仙が芽を出し、ふきのとうもそこここに見えるようになる。梅祭りが終わり小学校の卒業式も過ぎると、こたつもいらなくなるでしょう。早く駅の前の桜が満開になり、庭のチューリップやヒヤシンスの露地ものが自然の暖かさに呼びさまされて、きれいに咲き揃う日が待ち遠しいこの頃です。
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
久しくペンなどを持った事のない私の所へ原稿の依頼が来た。さて、困った。何を書いてよいか分からない。そこで平沢へ縁があって来てからの事を振り返ってみた。
昭和四十八年(1973)に五ヶ月になる子供を連れて引越して来ました。すぐに愛育班へ誘われ、私自身愛育班の配給ミルクで育った部類なので何の抵抗もなく入会しました。その為早くに地域の人達と知り合いになり、毎日楽しく過ごせました。第二子を儲け、その子が小学校へ入学を機に退会しましたがそれと平行して、地区のバレーチームに入会し、常に地域の人達との触れ合いがありました。私は田舎育ちの為か、地域の人達の触れ合いが好きです。又大事にしたいと思っています。バレーボールの方は、年令と共に体が追いついていかなくなり二年前に退会しました。そこへ婦人会入会のお話がありましたので即入会しました。まだ入会して二年ですが編物教室やバスハイクへ参加しました。何をやっても無器用な私は、自分で作った物に愛着を感じ家の中で自慢をします。夫や子供達(男二人)も「お母さんにもそういう事が出来るのか?」とか「変なの~。」と口では貶しますが、顔は笑っています。夫からは「俺のも編んでくれ」と言われ、二年越しで編んでいますが今年のクリスマスまでには必ず完成させなくては……。
話は変わりますが、先日家中でテレビを見ているとある老人ホームが紹介され、老人痴呆症になった人や、身体の不自由になった人を病院の人達や家族が世話をしている様子でした。私は自然と涙が出てきました。家中で話し合った結果、病気になった人も可哀相だけど看病する人はもっと気の毒だという事になり、私が「月に一度か二度だったらお手伝いに行ってあげたい。」と言うと夫も子供達も大賛成してくれました。これから機会があったら是非参加したいと思っています。又すでにボランティアを行っている人がいましたらお誘い願いたいと思います。
最後に平沢地区の婦人会も初めて地区の人達の顔合わせがあり、これからは月例を行いボランティアやお楽しみ会を計画している様です。役員さんは大変だと思いますが、これからの発展を楽しみにしております。
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
私達一同は、一年間無我夢中で行事をこなしてまいりましたが、皆様のお力添えで無事に終わり感謝しております。フォークダンスの講習会では、良い講師に恵まれ一つ一つわかりやすく教えていただきました。
曲(フォークダンス)
1 デインドン・ダディ
2 ダンシング・イン・ザ・ストリート
3 バージニア・ミクサー
4 カルナバリート
5 ジーフィ・ミクサー
他にもたくさんありますが、何曲か印象に残ったのを選んでおきました。盆踊り大会にも、協力することが出来、又、ボーリング大会も特別に行いました。多数の方々に参加していただき予想以上に反響を呼び、皆10年前頃のことを思い出し、楽しそうにしている姿を見てよかったと思いました。毎年同じ行事をするのではなくいろいろ新しい事に取り組んでいくのもよいのではないかとボーリング大会の成功によって特に感じました。最後にフォークダンスの講師の先生を囲み、サヨナラパーティーを15名の出席者とともに開き、いままで教えていただいた、ダンスを参考にして、皆踊ったり、カラオケをしたりして、とても楽しい一夜を過ごすことが出来ました。又出席者でことばを一言ずつ色紙に書き入れて先生に渡しました。
なにかと、ゆきとどかない事が多かったと思いますが、この一年間レク部にご協力いただき本当にありがとうございました。(沢田記)
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
ハイキング 宮ノ倉山 五月二十九日、日曜日 参加者五名
ちょっぴり淋しかったが誰にも歩けるいいコースで緑いっぱいで森林浴を充分満喫!
秋の研修旅行 榛名 伊香保 伊勢崎
〔コース〕 嵐山~渋川~榛名湖~榛名神社~夢二記念館見学~伊香保ベルツの湯(昼食)~伊勢崎明治乳業工場見学~嵐山
今年度は婦人会研修旅行としては、はじめて町のバスを利用しました。前夜までの雨で心配していた天候も明けてみれば晴れ。榛名湖を右窓外にみて榛名神社へ。大きな岩に接続して造られた本殿、矢立の杉の高いのを仰ぎ見、細く長く落ちる滝、雷電岩などを眺めながら一時間ほど散策、境内のみやげもの店で豆、栗、ぜんまいなど主婦らしきみやげを選ぶのもまたたのし。ふたたび湖を左手に戻ると、すぐ夢二記念館、大正ロマンの夢にしばしひたり、隣りのベルツの湯にて食事、入浴いろいろな湯につかりながらおしゃべりに花が咲く。湯の花まんじゅうをみやげに、伊勢崎の明治乳業の工場へ、アイスクリームが出来るまでなどをガラスの窓ごしに見学。工場の方の説明を聞きながら栄養たっぷりのアイスクリームをごちそうになる。予定時間より少々遅れてしまったので急いでバスの人となる。五時三十分嵐山着。
<後記>
初めて町のバスを利用して、案内などに不なれな点などありましたが、皆んな仲間内という安心感と費用が安くあがる等、利点がありました。ただコース設定、時間配分食事の場所など十分の下見が必要なことと、バスに距離規定があることも考えて、コース決定すると良いと思う。(山崎記)
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
五月三十日、手編み教室二十二名でスタート。六月九日、二十一、二十八日と四回にわたり、中村先生にサマーセーターを教えて頂きました。半袖、ノースリーブと思いの作品が出来上りました。
八月四日 料理講習会
会員の根岸ひろ子さんに東北地方の郷土料理『ずんだ餅』を教えていただきました。十七名参加、冷凍の枝豆が一年中手にはいる時代、テレビなど見ながら豆の皮をとり、白玉粉を利用して手作りのおやつはいかがでしょうか。
秋の文化展に向けての手編み教室
十月六日、十三日、二十日、二十七日は先生の教室にて教えていただき短期間でしたが、頑張って文化展に出品して頂くことが出来ました。
最後は料理教室
三月二日、昨年同様、栄養士の近江先生に成人病の予防食のご指導をいただきました。
ひな祭りをひかえ、ひなずし、ハマグリとミツバの吸いもの、昆布いりち、ほうれん草の酢みそ和え、りんごのコンポート等手軽に出来るものばかり、家族の健康の管理者として、心をこめて、教えを生かしてゆきたいと思います。三十五名の方々にご参加いただきました。
一年間ご協力ありがとうございました。(部長=福司記)
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
九月二十七日の読書会は大原富枝作“婉という女”を通して女性の生き方について話し合った。婉のすさまじい気迫に感服すると共に封建社会における女性の悲哀を今更の如く思い知った。この作品は事実に基づく著書であるだけになお更私達の心に迫るものがある。
「婉」一五七三年、天下の政権が名実ともに織田信長となった時代に生まれ*、四才より四十年の永きにわたって獄舎生活をしなければならない運命を背負った女性の物語である。その理由は、土佐の執権を握っていた婉の父、野中兼山が王道楽土の理想を追求する為に過酷な税や夫役を四民に課し温情に欠ける政治を行ったことによる。理はいかなるものにせよその為に家族が四十年間も獄舎につながれる事など私達には到底納得出来ない事柄である。
獄舎生活の中で婉は成長し青春時代を過ごし、やがて四十を過ぎた老嬢(おんな)となる。その過程に於ける心の変遷、葛藤が読者の胸を打つ。
・獄舎で次々に死亡していく兄、弟
・学問をすることのむなしさ、政治への反発
・正常な心理が失われていく悲しさ
・外界への憧れや希望
様々な悩みや苦しさの中で唯一つの夢は、谷秦山との文通から生まれた恋情であった。だが四十四才となって赦免された婉の恋も実らず、婉の心は氷の様にとざされていく。
『どの様なお仕置(政治)が私のまわりにひしめこうが渦巻き荒れようと私にはもう一切関わりがない。私はもうあらゆる人にも、あらゆる物にも全く他人であった。誰ももう私をこれ以上こわす事は出来ないかわりにどんな人の情も私を温める事は出来ない。私はもう人であるよりもむしろ物に近かった』
これは六十才になった時の婉の心境である。
大原富枝氏が読者に訴えたかったものは、政治に対して無力な女が男の死を近々見ながら、しぶとく強く冷酷に生きていく、絶望の底から冷たい笑いと共に湧き上がってくる女の凱歌といったものではなかろうか、と思う。
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月
*:野中婉【のなか・えん】は、万治3年(1660)土佐藩(高知県)首席家老野中兼山の4女として高知に生まれる。没年は享保10年12月29日(1726年1月31日)なので、1573年生まれは誤り。婉の父、野中兼山は元和元年(1615年)生まれ、土佐藩の藩政改革にあたったが、失脚した寛文3年の12月20日(1664年1月18日)に死亡。
九月二十一日、婦人会館に於いて研修会が開かれました。開会行事の後、『生涯学習と婦人会組織』というテーマで、県社会教育課の小菅唯子先生の講演がありました。その中で、どうして生涯学習が必要なのかを話されました。現在の社会は絶えず揺れ動く社会であり、そこから抜け出すわけにはいかない。一人一人が社会生活を営んでいくには、いつでも、どこでも教育が受けられる制度が求められてくる。生涯の各段階で充電を必要とするのが生涯学習であり、限りある人生で無限の学習に挑むことが大事です。女性の平均年令が81才にもなり、25才で結婚し、35才で子供を生み終える。その後の46年間をどう生きるかがテーマでした。各人が自発的意志に基づいて、必要に応じ自己に適した方法、手段で自ら選んでいく。そして生涯を通して継続することに意味があり、最も大事なことだということです。又生涯を生きていく上で、人間の幸せとは何か。やりたい事が自由。時間が自由。語ることが自由。この世の中で一番楽しく立派なことは、生涯を貫く仕事なり趣味なり持つこと。世の中で一番美しいことは、全てのものに愛情を持つこと。又尊いことは、人のために奉仕して決して恩にきせないこと。社会を良くしていくには、心の豊かな人になることです。心の豊かな人とは、人生への充実感を持った人、本当に何かを求めて生きている人の心は、豊かで素晴らしいものです。
講演の後、分科会があり「組織の現状においてリーダーの問題と学習体制」「新しい家庭とは」「働く婦人の問題」について話し合いました。
リーダーは点であり、点と点を結ぶと線になり、やがて広がり面となる。それぞれの家庭が生涯学習の場であり、親子が共に育つ場所である。家庭のリーダーは女性である。婦人会活動が活性化されれば会が提唱者となり、他団体と協力し連携をとっていくのがのぞましいこと。後の方では三世代の中で嫁姑の関係で、自分の過去を押しつけないように、又核家族で共働きの場合、心のよりどころをどこに求めるか、親子との会話の必要性、働く婦人の健康面などの意見が出されました。時代の流れで会員の減少の悩み、役員選出の悩み等いろいろあります。研修会で多くを学んだ中で、自分にとって出来ることから自ら選んで参加することで、自己練磨の機会が得られるのではないかと思います。余り気負わず長く継続することが大事であり、生涯学習の学んだ意味に沿って、婦人会活動はそのふさわしい場だと思います。家庭、地域、社会を結ぶ活動の機会を大事にしながら学んでいこうと研修会を通して感じた一日でした。(本部=小久保記)
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月