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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

地産団地と遺跡発掘 1972年6月

2009-08-18 21:50:00 | 1972年

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   県内で二番目に大きい
       嵐山町古代集落址
 五月八日からはじまった古墳及び古代集落址の発掘調査は、七月二十一日終了しました。
 これは嵐山町教育委員会が松山高校教諭、日本考古学会員金井塚良一氏を発掘担当者として実施して来たものです。
 大字志賀鶴巻の山林内の二つの古墳、千六百年位前の古墳と、少し古い集落址です。
 集落址は竪穴式住居趾八カ所が円形の広場を中心にしてつくられていました。
 古墳時代初期の集落構造を理解する大きな手がかりです。
 八カ所の中で一カ所は一辺が十メートル、床面積百平方メートルをこえる巨大な竪穴式住居址で、県内で二番目、全国でも十指の内に入る程の巨大集落址とのことです。
 これは集落の共同集会所として使用されたものでしょうか。
 竪穴の中からは、沢山の遺物(土器、砥石、炭化した木の実)等が出土しています。
 これは松山高校郷土館で今後整理してゆくことになっていますが、これらの遺物を通して千六百年以上前の、古代集落で生活していた人々の生活や文化の様子が、やがて明らかにされることでしょう。
 尚八軒の住居趾は全部□災にあっていたこともわかりました。
 この発掘調査によって、わが嵐山町の古代史に重要な手がかりを与えてくれた、貴重な発掘調査でした。
   『嵐山町報道』224号 1972年(昭和47)8月1日


地域活動のなかで得たもの 中沢 1972年

2009-05-23 16:17:04 | 1972年

 前原団地ができると同時に入居して十二年半、近くここを離れることになって、その大半を過ごした保育の会とのかかわり合いの数々がしきりに思われるこのごろです。
 何年か家庭の中だけにいた私たち主婦が、他人の中に出て何かをするということには、多少の困難もありますが、でも共通の目的をもって、そのためにみんなと手をたずさえて障害をのりこえて行くということは、気の合う好きな時だけつき合うという気楽な生活からは得られない多くのものを与えてくれたようです。
 子どもは友だちとの集団の中でこそ、心も身体も成長するといわれますが、それはそのまま私たち大人にもあてはまるのではないでしょうか。
 普通なら、小さい子どもをかかえて、子どもを育てるだけのあけくれであった筈のこの数年間を、大勢の友だちの中で多くのことを学びながら、子どもが育つのと同じに自分も変化してと実感できたのは大きな喜びでした。
 今更いうまでもないことかもしれませんが、今後もずっと失いたくないものが二つあります。
 第一は〝どうせムリだから〟を禁句に。〝こうだったらよい〟ということを、広く教育全体のこと、社会の動きについても主張し、人を待たずに自分も動いてみようということ。
 第二は、子どもが可哀そう→だからやめる。すぐにはムリ→だからやっても仕方がない。という簡単な割り切りかたはやめましょうということ。
 子どもをただ放り出しておいたら可哀そうですし、夫はそう簡単に何でも賛成してくれるはずはありませんし、世の中はそう簡単に、すぐ思い通りできるものでもないと思います。家族の批判は批判として受けながらも、少しづつでもよいから、やはりこうしたいということを工夫しながらうまくやっていくことに、はりあいとファイトをもやして……
 また来年も、どこにいても、さあがんばりましょう。
     『まえはら保育しんぶん』87号 1972年(昭和47)3月15日


婦人学級 母親として女として悔いなく生きるには 1972年

2009-05-22 16:14:00 | 1972年

  三月十二日(月)  於 集会所
   「女性の生きがい」 一番ヶ瀬康子先生講演より

  子どもの自立を自覚する
 女性のしあわせ度は、初めての子どもが生まれた時が最高で、中学の後半、子どもが自立して行く頃になると急激に下降していく。その頃になると、自分は何のために生きて来たのかと、ショックを受ける母親が多い。子どもは、ある時期がくると、母親とは違った人間として成長していく。またそうなってこなくてはおかしい。子どもをあてにした生き方は、よほど気をつけないと間違ってくる。今は平均寿命が七五才位で、早い人では子育てが三五年位ある。この時期をどう生きるか、その時に自分自身の自立した生き方ができるように、若いときから自分なりに積み上げていく生き方、そういった生き方が今の女性にとって一番望ましい望ましいのではないか。
  一 可能な限り職業を続けていく
  二 再就職のための技術を身につける。経済的自立は、原則として人間らしく生きるための土台である。
  三 地域社会の色々な運動に参加していく。

  孤独に打ち勝つ力
 すなわち、社会の中で役割を持てるような人間、また役割りをいつでも持てるような社会にしていかなくてはならない。趣味、宗教、友達も考えられる。貯金も物価が上がれば無意味になるし、社会保障も今より完備したとしても100%は期待できない。最後に残る老後の不幸は孤独である。孤独にどう打ち勝つ自分であるか、若い時からそれを考えて、自分の自立した世界を持ち、生涯打ち込めるしっかりしたものを身につけていくことが大事です。

 去る二月二十一日(水)、わが国の老人問題におけるパイオニア杉村春三先生をお迎えして婦人学級が開かれました。
 題して「美しい老年期すごすには」に多数の参加を得ましたが、ことに、明治会の年配の方々が大勢参加されて、熱心に質問をなさっておられましたので、二、三ご意見をうかがいました。
 最も強く述べられたのは、

 先生のお話は理想論である。現実には、明日はどうなるかわからない老人が大勢いる。その人たちにどうしたら良いかの回答が何一つなかった。私たちは十年先の事よりも明日の事が知りたいのです。

ということでした。そして

 貴女方もいずれ年をとる。今お年寄りのためにとする運動の成果が現実になるのは十年、十五年先なのだから、結局は貴女方ご自分たちのためでもある。年老いた者が先にたって動くことは心身共に無理だが協力は惜しまない。

とのお話でした。片手落ちの政治を改めていきどおると同時に、お年寄りに対する理解と思いやりこそが将来いずれは迎えるであろう老齢期への心構えではないかと考えさせられました。

 自分自身の生活に充実感を持ち生き甲斐をもつこと。幸福は自らつくり出すもの。「美しい老年期」とはどんな場面に直面してもゆるがない自主の心構えの上にたってはじめて与えられるもの。先生の著書の文中にある右の言葉をもう一度かみしめて、心ゆたかな人生を過ごしたいものです。
    『まえはら保育しんぶん』87号 1972年(昭和47)3月15日


前原団地自治会速報 1972年3月

2009-05-21 15:43:00 | 1972年

   もう黙っていられない
      たち上がったお母さんたち
 三月九日、団地内でおこった交通事故は、ついに地域のお母さん達を立ち上がらせ二宮派出所へ駐車禁止を直訴した。
 自治会が三年前から要請しつづけていた駐車禁止が県警までいきながら実現されずに放置されていたことが、ついに悲しい事故を招いてしまった。
 通りを横断しようとした武君は時間待ちのバスのかげから出て、速度も落とさない車の奇禍に遭ってしまった。 東口バス停から、はざまに抜ける通りは路上駐車が特に多いため、見とうしが悪く、日頃から事故の多発点になっている。
 地域のお母さんたちはもう一日も待っていられないと,十三日、二宮派出所に急遽五十余名が集まり実情を訴え、いますぐ対策を講じることを陳情したが、公安委員会の認可がおりないと何も出来ないと、お役所仕事むき出しの応えにお母さんたちは憤りをおぼえ、船橋警察署へ陳情することがその場でただちにきまった。

   陳情の結果すぐした課 
 自治会、中小PTA、保育の会三団体二十九名は船橋本署へ再び訴えた。認可がおりるまで応急措置をしなければ今も事故がおきているかもしれないと。係長の確約を得て帰宅した夕刻には、早速臨時の標識が五本、事故現場に運ばれた。翌日には二宮派出所から立て看板も届いたことは、遅きに失したとは言え、お母さんたちの熱意の結晶ではないだろうか。
 一日も早くバス通りの駐車禁止の認可がおり、見通しのよい通りになるよう運動を進めていきたい。

   武君のご冥福をお祈りします
 武君の棺は十二日冷雨の中を大勢の級友に見送られつつ、永遠に神のみもとに召されました。ご両親のご心中いかばかりかと存じます。

   またも事故が
 十五日、57棟の幼い姉妹が、武君と同じ場所で又も車にはねられ、近所のお母さんたちに衝撃を与えた。さいわい軽症であったのは胸をなでおろしたが、それにつけても、53棟側につけられている階段は必要があるのだろうか。C地区からD地区へ渡るに便利ではあるが。利用している人たちで早速に話し合いましょう。

   マイカーのおき場所を考えよう
 東口バス停付近の駐車禁止によってマイカーの置場に困っている方、他の地区でも路上駐車されている方々、是非お集まりください。
 3月26日 10時
 集会所 なつ
 駐車場確保、団地外の車の処置、その他

   時間待ちバスについて
 電話ボックスの前に時間待ちで駐車しているバスは、人からも車からも見通しが悪く非常に危険です。バス会社も目下検討中とのことで適当の場所も見つからないまま38棟横に移動したが、まだまだ不安なので、バスの前後の横断は注意しましょう。

   一人の声は小さいけれど、五十人集まれば……
 武君の命とひきかえに置かれた駐禁の標識。子どもは親に道路に飛び出すなと言われ、きもに銘じて守っても、車が法規から飛び出しては、どうやって交通禍から身を守ったらよいのやら。
     前原団地自治会広報部『そくほう』 1972年(昭和47)3月18日