『白梅』第3号 嵐山町・菅谷婦人会 1982年(昭和57)4月発行
皆様の御協力により白梅も無事に三号を出すことが出来ました。
お忙しい中を沢山の原稿をお寄せ頂きありがとうございました。
編集を了え、只々月日の流れの早さに驚くばかりです。皆様も時には白梅を開いて過ぎ去った年月を想って下さい。そして次の機会には又御近況、御感想を是非お寄せ下さい。
昭和五十七年三月三十一日
菅谷婦人会
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
佐藤富美保
春光の輝きまぶし吹く風の
頬に優しき 胸ときめきて
中島清子
観音の切れ長の目見上ぐれば
そのやさしさに しばし見■る
村瀬信子
嫁ぐ娘の祖母に別れとぬかづきし
墓処のほとり 彼岸花咲く
伊東ときゑ
銀杏大樹の梢明るし 寺庭に
風が黄金色の じゅうたんを織る
奥野ハナ
■■声を気にしてかけくる うから等の
声うれしかり 初秋の夕べ
馬場富士子
吾が肩のつかりて柚子湯こぼれたり
冬至静かに 夜の更けゆく
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
末の息子の高校受験の朝、無事にと祈ると同時にここまで成長した後姿を見て、有難うございましたと、胸の痛くなる思いで神様に御礼申し上げた。
菅谷に嫁して二十六年経ちました。生れ故郷の父母の顔が恋しくて涙した日も幾度か……。でも、もう私の故郷とは嵐山町菅谷である。過ぎ去ってみると長い年月であったようで又短くもあった。
嫁して三年目で主人は結核で倒れ、長女は生後間もなく小児結核、そして長男が生れた。夫の闘病生活三年間は本当に長い長い一日一日であった。よろこびも悲しみも感じられないような心せわしい暗い年月であったようにおもえる。
或る日、ある方に「どんな不幸な時でも、よろこびを見出すのですよ。きっと喜びはある筈だ」と言われた。その言葉が私の頭の中を一杯にした。心を落着けて考えると、今まであらゆる不幸を自分一人で背負わされていると思い込んでいたのに気が付きました。喜べる幸せはあったのです。幾つもありました。その時の私の感激は今でも忘れない程大きなものでした。ところかまわず電車の中で嬉し涙がとゞめを知らぬ程でした。その時より私は幸せとは自己の中より発見するものゝように思えてなりません。
今年婦人会の新年会に映画「お母さんは走った」を見せて頂き、会員の方々皆涙を流して感動しました。重度障害者施設に勤務するお母さんに無理解だった家族がその人達の運動会に出席しお母さんが障害者のお世話をする姿を見、障害者の方々が精一杯の力で自己のよろこびを見出している姿に、お母さんを自分達だけのものにしておきたいと思っていた小さな心に気付き家族全部で心より協力するというすばらしい映画でした。
考えてみると障害者の方々がそれなりの小さなよろこびに幸せを感じて生きている姿に、健康な体を与えられている私達は精神的に励まされ助けられているのではないか、この映画を見ての感じでした。
この感動を一時のものとせず自分の宝として一日一日を大切に生活したいものです。
楽々の中に実はなく苦労の中にこそ実があると教えられています。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
「アーこんな所にも……」思はぬ場所に小さな可愛らしい芽を出した草花も今は美しく色とりどりの姿で咲き誇り春を楽しませてくれます。緑の美しさ、力強さ、自然の大きさを感じ、何かホッと心が和みます。
子育てが終り時間に余裕が出来たらあれも、これもと夢を持っていた筈なのに、いざその時が来て親ばなれしつゝある子供にチョッピリ不満を覚え、子ばなれのための淋しさを感じ、味わいながらこれからの時間を大切に有意義な過し方をしたいと願いつゝも、かといって何をどうしたらと戸惑い自分自身の主体性の無さに唖然としてしまう。
そんな中で「井の中の蛙」になりがちな毎日の不安定な中で何かをつかみ得たいと、支部の役員を引き受けさせていたゞきました。
出来るだけ多くの行事に参加し色々な方達との出合いに学ぶべき事が多く貴重な二年間だったと思います。又地区別研修会に出席し各地域の婦人会の方達との交流は楽しく又驚きでもあり感心させられる事が多く、それぞれ積極的に活躍して居られる事を知りました。おくればせながら「何事も待っているだけでは先に進まない」という事を痛感すると共に「知識は体験によって確認してこそ自分の実力となる」という言葉を思いました。何かを得られたということの幸せです。
毎年企画されます講演会、手工芸各教室、又札所めぐり等々どれを開講する為にも本部役員の方々の蔭での御苦労、お骨折り、本当に大変なことです。私達が楽しく学び参加出来ました事、感謝しております。
一人一人違った多くの人達、それぞれの立場を理解し尊重し合い、「信・望・愛」を以って「和」を保ってゆく事は、大変な努力だと思います。自分自身のためにも悔の無い様に努力し一歩一歩前進出来るようにと願っております。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
三月一日、あいにくの雨、菅谷婦人会の九人は、午前九時嵐山駅に集合し、小川町駅にて他町村の方々と合流、バスに乗る。瀬川会長さんの挨拶に引きつづき比企教育事務所の方々のユニークな挨拶をききながら、バスは一路秩父めざして進む。
長瀞駅前にてバスを降り徒歩にて十五分、荒川べりをさかのぼる。雨にけむる山々の景がまるで一幅の墨画でも見るように美しい。
お天気の日だったら到底この景色は見られないだろうと思った。梅のつぼみがポツポツと赤味をおびて、でもまだ固く閉じている。皆首をすぼめ乍ら、まだ寒いわね、と雨の中を歩いて行く。行くほどに木々の間より見えかくれする清流が美しい。やがて右手に煉瓦づくりの建物が見えてきた。埼玉県立自然史博物館である。
館の方の案内で先づ地学展示ホールを見る。そこには、埼玉県内で見られる岩石鉱物化石地層などが年代順に展示されている。言葉では表せない色々なものを目を見張りながら見て歩く。中でも驚いたのは、古生代後期の石炭紀二畳紀とよばれる時代の埼玉は海の底でサンゴウミユリフズリナなど海の生物の化石がたくさん見つかって居るとのことです。
生物展示ホールでは埼玉県の低地から山地にかけて見られる代表的な四つの森林と、そこに住んでいる動物が生態的に展示されています。ブナ・アカマツ林の多い落葉広葉樹林の中にシカ、サルなどがじっと私達を見ています。剥製ですがまるで生きているようです。その他、きつね、たぬき、むじな、うさぎ、ねずみまで、今にもガサガサと飛び出して来そうにかざられていました。武蔵野の雑木林にはたくさんの小鳥が囀り水辺には鴨が餌をついばんでいます。鍾乳洞も本物そっくり、今にも水が滴り落ちるようです。標高千六百米以上の原生林にはしゃくなげが咲き、かもしかがじっと耳をそばだてゝ居ました。岸壁には苔がつき、黒い岩茸がぎっしりついて居ました。
オリエンテーションホールには、二千万年も前に棲息していたであろうといわれるパレオパラドキシアという化石で復元された奇妙な海獣を見ました。
これ等の展示が出来上るまでは館の職員の方々はじめ、幾多の方々の並々ならぬ力が費やされた事と頭の下がる思いでした。
外に出ると雨が大分上っていました。上長瀞よりバスに乗り、美の山公園へ向いました。雲が動いて居りました。
秩父峯のもすその雲の舞い上り
小鳥さえずり雨上るらし
上ると思った雨も山に上るにつれ又降り出し期待していた奥秩父の山々の景色もぜんぜん見られませんでした。山の中腹の食堂で昼食をとり下山、花園より関越自動車道にて東松山より鳩山に向う。
地球観測センターにつき解った事ですが、此処ではアメリカの衛星よりパラボラアンテナでキャッチした地球の画像を処理し各種の事に利用すること、其の外むつかしいことは知識のない私にはとても分りませんでした。今更人々の智能の高度さに目を見張るばかりでした。
世の中には様々の方が様々な仕事をもって社会に貢献しています。ますます進んでゆく科学、化学、これらの仕事にたずさわる方々に感謝すると共にこれからこの力を世界平和のために向けていたゞけるよう切にお願いしたいと思います。
楽しく充実した今日一日をありがたく神様に感謝して皆様とお別れしました。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
今年で三年目を迎えました。このごろ不用品を整理する時、来年のバザーに役立たないかしらと考える様になり、この催しもボランティア活動の一つとして定着しつゝある様に思えます。
皆様の善意の結晶として11万2841円を社会福祉協議会へ寄付致しました。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
今迄婦人会に何げなく入会して色々な行事に参加して来ました。しかし自分が役員をやってみて、役員さんの大変さにびっくりしました。例えば手芸や料理にしても材料を揃えるのに大変なのです。特に料理をする時などは量も多くなって……。
自分が実際にやってみて、身にしみて思いました。解っているようでも案外に気がついていないと思います。私自身とっても感じました。私も子供が小さかったので、このところ三、四年前から参加出来る様になりました。そして今年は文化部の役までさせていただきとても勉強になりました。
次年の役員さんのことでお願いしたところ快く引きうけて下さいました。その時の気持がとってもうれしく、この気持を皆様に分って頂きたく一筆書かせていただきました。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
俗に言う子育ての時期が過ぎ、時間的にいろいろのことが出来て良いのに、人間というものは、楽を覚えるとなかなかそこから抜け出られなくなってしまう様である。仕事も忙しく子供の小さな頃“あゝせめて一時間でも、ゆっくり本が読みたい”とか一人でのんびり買物をしたいとか、いろいろ考えたものである。そう思いながらも子供達の服を縫ったり出来たのに……。体が老化をはじめたのかしらと少々気が重くなってくる。
しかし今の私にとって、当面の楽しみは“本”である。幸いに、公民館で月二回ほど貸し出しをしているので多いに利用させていただいている。そんな難しいものではないけれど、何かに気持を集中させていないと空しくなってくる。一番安上がりで、いろいろの世界を知る最上の友である。
時間があるから出来るのではなく、時間は自ら創り出すものの様な気がする。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
はじめにこれは私が体験したごく一部のアメリカであることを、おことわりしておかなくてはなりません。アメリカは大きい、地図を見れば誰でも解かることです。しかし、日本から来てはじめてアメリカを見る人は「大きいなあ」とあらためてその大きさに感動する。これが普通のように私は思います。
大きなアメリカの東部五大湖地方、オハイオ州シドニー市に夫の仕事の都合で短期間生活しました。
オハイオ州シドニーの夏
オハイオ州は山がありません。二時間や三時間、車で走っても山が見えません。オハイオバレーと云う大きな平野です。こゝでは太陽は東の真横からのぼり大きく空を廻って西の真横に沈みます。関東の山の見える所に生活していた私にとっては、とても珍しい事です。朝日が隣家と隣家の間から、窓の真横、地面と水平にさすのにはびっくりしました。さえぎるものがないので空も何倍も大きいと感じました。時々芝生に坐り大きな空の壮大な朝焼け、夕焼けを楽しみました。こゝは湿度が少なくさわやかな夏です。サマータイムをとり入れていますので日没は九時近くです。
午後四時過ぎになると人々は屋外に出ます。芝を刈る人、サイクリング、ジョギング、テニス、ゴルフ、とさまざまですが殆どの人がスポーツを楽しみます。又長い休暇をとってキャンプや旅行に出る人もあります。
日暮れになると大きいホタルが飛びます。広々として手入れのゆきとゞいた芝生の上をとぶホタルは“ホタルの宿は川端やなぎ”と云う日本のホタルのイメージとはまるで違います。大きくパッ!パッ!と出るのを見るとなんて陽気なホタルでしょうとおかしくなります。タンポポもミヤコワスレに似た花もワレモコウも元気でたくましくって日本で見るような風情がありません。「タンポポは小さく愛らしい」「ミヤコワスレは楚楚とつつましい」等と云うことはきまった事ではないとつくづく思いました。物を見る尺度に柔軟性をもっているようにしたいと思いました。
十二月七日(八日)
いつもの朝のようにテレビのスイッチを入れると古い海戦の映像が写され、パールハーバーと耳に入った。「パールハーバー?」あゝ真珠湾攻撃だ。今日は七日だ。そうか第二次世界大戦が始まった日だと夫の声。そして一日中ニュースの度にパールハーバーが繰り返し放送され、新聞の一面もパールハーバーをあつかっていました。ニュースを全部解ることが出来ない私は、それがどんな意味をもつか理解できませんが、複雑な思いでした。考えて見ると、私が日本いあって第二次世界大戦を考える時は三月十日の東京大空襲、八月六日の広島原爆、八月十五日の終戦記念日である。パールハーバーのひではなかった。マスコミの報道等もどちらに重きをおくかと言えば前者だったように思う。
アメリカではパールハーバーをかなりの比重で報道しているように感じた。その時に「トラ トラ トラ」がテレビで放映された。私達の友人のアメリカ人M氏は「今の第二次世界大戦映画はいつもアメリカが善で日本が悪であったが、これは両方の立場が出ていて良かった」と語り少しホッとした。
この事は現在のアメリカと日本の関係、アメリカが感じている日本の経済進出に対する恐れなどと無関係とも思えない。
第二次世界大戦においてアメリカに対して被害者意識が先に立っている私であったので強く感じたのかもしれない。
現在他の国ではどうなのでしょうか。この一日私は複雑な思いですごした。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
56年(1981)度の主な事業
○4月 総会
○5月 社会見学 群馬の森他
○7月 料理教室(お団子作り)
○〃 救急法講習会
○8月 盆おどり練習会
○9月 藤手芸教室
○10月 町民体育祭参加
○11月 七つの祝
○12月 文化財めぐり(歩け歩け)
○〃 料理教室
○1月 新年会
○3月 チャリティーバザー
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
私が役員を受けてから月日は流れまして、もう十年程前になります。郡の会長の岩田さんから「こんど嵐山に行きますからね。その時にはお願いしますよ」と突然電話がありました。県の大友会長初め県庁の方々がお見えになるとの事、私はさっそく役員の皆様にお話しをしまして、その日を待っておりました。それは只今の婦人会館の建設予定地視察の件でした。役員さんの反町さんが色々と当時の研修所の事はよくわかりましたので、お願いしまして、郷学研修所の一室をお借りして頂きまして、大友会長さん初め大勢の方々の接待を致しました。その当時の一寸した思い出でございます。
白梅になんでも良いから書いて下さいとお話しがありましたので少しだけ書かせていただこうと思いまして筆不精ですけれど、ペンを取りました。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年
すべてが躍動をはじめる春が、ふたたびめぐってまいりました。
白梅はお蔭様で沢山の原稿をいたゞき、第三号を発行する事ができました。
菅谷婦人会は、若い方達の参加もふえて、幅広い方達の交流の場になっています。又、地元に国立の婦人教育会館があるために、全国の婦人の交流の機会にも恵まれています。昨年は県婦連の新聞に、小川の会長さんと座談会に出席、大友会長さんと、一つテーブルをはさんでお話をする機会を得ました。その時“平和”と云う言葉にあらためて考えさせられました。私達は今、平和な日常生活にどっぷりつかっていて、その有難さをともすれば忘れ勝ちですが、もっと視野を広げて世の中を見なくてはいけない、人口の半分を占める私達女性がしっかりしていなければいけないと、改めて思いました。今年に入って全国的に、核兵器禁止と軍縮を要請する署名が広がっています。これは第二回の国連軍縮特別総会に持って行くのですが、菅谷婦人会でも一五〇名の署名と八千円を越すカンパを集めました。
身近な問題では、子供の非行問題が広がりつつあります。町民文化大学の女性学でのお話しの中で、お母さんが子供の成績にのみ関心を持ち、個々の家庭に引きこもってはいけない、よい環境をそして嵐山町のめざすよい里づくりを大人が作っていかなくてはいけないのだ、とおっしゃいましたが、子育てまっ最中のお母さんは勿論、老いも若きも自分達の住む町をよくする事に力を合わせたら、子供の非行も少くなるのではないでしょうか。
婦人会活動は、これらの事でもやはり意義のある事だと思いますので、これからも自分の事だけではなく、ボランティア精神で地域づくりに力を入れて下さるようお願いいたします。
菅谷婦人会『白梅』第3号 1982年