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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

愛育班をみんなで育てて 1981年

2009-08-11 18:48:49 | 1981年

   こんにちは 保健婦です
  愛育班をみんなで育てて
 だれもが心も体も健康で、家族みんなが明るく、いきいきと暮したい。愛育班は、こうした願いをもつ主婦などの手によってつくられています。
 愛育班員は、地域の諸問題を持ちよって話し合い、みなさんとの連帯の輪を広げながら、健康づくりのお手伝いをしています。
 愛育班は、多忙な主婦が、わずかな時間を活用して無理なく参加できるよう、民主的なしくみと自主的な活動方法をもった民間の婦人組織です。
 愛育班は、全国で育てられているボランティアグループです。

  嵐山町の活動は
 ここに会員の多くが核家族で育児におわれている婦人が、班員となって中心に活動している一つの班の活動を紹介しましょう。
 毎月班員が数件の乳幼児を持つ家庭を訪問し、育児の相談相手をしています。私ども保健婦に寄せられている訪問カードの中には、育児に奮闘するお母さんの姿や、赤ちゃんの順調な発育をお母さんと共に喜ぶ班員の声が報告されています。ときには、御主人の健康を心配する相談もあります。訪問を受けている会員さん、特に初めての赤ちゃんを持つお母さん方からは、とても心強い、と喜びの声が聞かれます。
 訪問の外に、自分達で積極的に健康に関する学習会も行っています。先日は「〇歳児からの性教育」をとりあげてスライド会を催し、その後、座談会では「子供達のエッチ話に、母親としてどう対応していく」「家庭での初潮教育にどう取り組むか」など、活発な意見が出されておりました。会員の一人はむし歯予防でお菓子の問題を考えるのと同様、性教育の問題にしても、地域で取りあげていく必要性があると述べ、愛育班の輪を広げていきたいと話していました。
 この外、母親学級、乳幼児相談、成人病相談などに積極的に参加し、お手伝いも行っています。
 みなさん!愛育班活動に参加してみませんか? 問い合わせは地域の愛育班員さん、または役場保健課保健婦まで。
   『嵐山町報道』300号 1981年(昭和56)9月25日


1980年代の愛育班活動 1981年

2009-08-10 18:33:31 | 1981年

   「こんにちは」 保健婦です
 3月27日中央公民館で愛育班の研修会が開かれました。出席は班員56人、来賓として町長、東松山保健所長など八名。
 嵐山町の愛育班は昭和34年(1959)結成され活躍してきましたが、最近「見直し」の声が多く出されました。今回の研修は愛育班について考えることになり、保健所長の講演を聞き話し合いをしました。以下講演の内容をまとめてみました。
 「愛育班は皇太子誕生の折、天皇陛下が多額のお手もと金を賜わり、当時の総理大臣に我が国の児童と母性の教化と養護について考えるように」(愛育班必携より)と話し、それを受けて関係大臣が協議して恩賜財団を設立したことから始まりました。
 愛育班は難しく考えるものではなく、自主的に自分達のつくったボランティアの会なのです。例えば隣に不幸があれば手伝いますがそれと同じ気持の芽ばえです。いわば隣人愛、郷土愛につながるもので、役場の仕事に協力はしても、肩代りするためのものではありません。
 ではどうして愛育班は大切なのでしょうか。
 私達のまわりは問題だらけです。非行、暴力、小学生の妊娠など表ざたにならないだけでごく身近かに起きています。「あれはよその子」といってはいられません。他ならぬ私達が育ててきた子供達なのです。自分の足もとばかりをみているとそういう子供しか育ちません。日本全体、世界を見られる子供を育てる……そのために愛育班は必要なのです。
 また、日本は高齢化社会です。(人口を100として65歳以上が7%以上を高齢化というが、日本は昭和50年は7.9%、55年8.9%。一方子供の生れる数はひのえ午の年よりも少なくなっているのです。)平均寿命は男性73歳、女性は78歳とのびています。しかし心も体も健康で美しく暮らすにはどうしたらよいか、真剣に考えなければならない時代なのです。自分達も考えながら、将来私達が世話になる今の子供をよりよい子供に育てることが大切です。愛育班員はそうしたことをとりくむ先がけとなってほしいと思います。
 自分達と町と保健所とが手をとり合い、出来ることから前向きにとりくみ、生きがいと楽しむ会にして自然に恵まれた嵐山町を人情味のより深い町にしていきましょう。
◎愛育班についての問合せ、ご意見をお待ちしています。テープもあります。連絡は役場保健課まで(東松山保健所保健婦 吉岡・嵐山担当)
    『嵐山町報道』297号 1981年(昭和56)4月20日


「八十七歳の青春」感想 1981年

2009-06-24 21:37:00 | 1981年

   八十七歳の青春
     新たな出発点に向けて
 己を超越し、婦人運動に情熱を傾けつくしてその生涯をとじた市川房枝の軌跡は、大きな課題を私たちに示したようです。
 与えられた一生を、いかに生きるべきか。たしかな生き方を探るために、たとえ、いつ時でも考えてみようではありませんか。

 ともろう会が主催した「八十七歳の青春」は大きな感動の余韻を残して幕がおりました。
 配布したアンケート数六〇〇余枚、回収一三八枚、これをもとに、年代別に感動をまとめて特集しました。

 「一生を終える最後の時まで婦人の地位向上のために生きた意志の強さと、積極性に感動。私たちがこれから、やっていかねばならないことに対して、大きな責任を感じます。」

 十代の純粋な気持ちが率直で清々しささえ感じます。
 学校教育の男女差別や、教科書問題-戦争と平和についての論議のさまざまを考えると、今こそ女史の遺志のを生かす時ではないだろうか。

 二十代から四十代は、さすがに現役の主婦の立場から、意見も多く、現実を直視する示唆を与えられたようだ。

 「婦人参政権を獲得するまでの女史や、その同志の活躍は想像を絶するものであったろう。改めて政治を直視し、一票を大切に考えていかなければならない。それが先輩たちに対する私たちの使命である。」

 「信念に生き、他と融和し、悪に対する不屈の精神力に、尊敬と親しみを感じる。これからの女性は大いに団結し、二度と戦争をおこしてはならない。平和な世の中にしよう。」

 「女は人間として扱われなかった時代に、婦人に参政権をと訴えつづけた女史の勇気を考えると、私たちは余りにも安易な日々を過ごしてはいないだろうか。」

 「現在の私たちの生活の土台は、女史らの苦闘の上にできたものであることがよくわかった。改めて、私たちの日常生活を考えなおさせてもらったような気がする。自分なりに一生懸命生きているつもりだが、これからも、流れに振り廻されずに、自分の意志で強く生きていきたい。」

 「何もしないでいる自分が恥かしい。何か役に立つことを探して自分の力で真剣に生きたい。」

 自分自身の生き方を反省し、あらたな発言の中で意欲を持った人もいた。
 女は政治に疎いと云われる。教育問題・環境問題・或いは物価や、平和の問題、何ひとつ政治に関係のないものはない。
 政治、というと、はるか彼方のようだが、地方政治も町政となると、問題はぐっと身近なものとなってくる。
 一家を預かる責任に於て、主婦こそ、政治に関心を持つべきだろう。

 五十代になると、女として、母親としての立場から、政治家の市川房枝、そして生涯、独身を通した市川房枝を観たようだ。

 「女性の地位、権利を得るための困難さは、実に大変なことだったろう。結婚もせず。子を産み育てることもなく、男性に甘えることもなかった女史の心の葛藤はいかばかりであったろうか。」

 -まわり道をしたり、道草をくったり、試行錯誤したりしてきましたが、その結果が今の私をつくったと言えます。
 むしろ、まともな生活をしていたら、普通の女の生活に入っていたでしょう。
 私は、貧しい幼児時代から、よく働き、それを乗りこえ、また、それを力にしてきたのです。-

 女史の随想集〝野中の一本杉〟の中の一節である。
 女史は決して独身主義ではなかった。むしろ、家庭と運動が両立することを理想としながらそのむづかしさを、時代の中で早くも考えた結果の独身であったと思われる。

 「黒髪が、白髪になり、顔には深いシワが刻まれながら、その歩んできた、生きてきた笑顔の美しさ、気力の強さに感激!!次の世代を荷なう人々に期待したい。」

 「女性であるが故に我まんをしいられる、ということを、家庭に、職場に、社会に、現代でも多くの女性が経験することである。
 市川房枝は、これを自分ひとりの問題としなかったところにその偉大さがあるのだ。常に向学心に燃え、正義感に溢れたその源は、一体どこにあったのだろう。」

 アンケートをみるかぎり、世代を超越して、ほとんどの人がいちようにたたえたことは、市川房枝女史の、女性の地位向上のために、ながい一生を賭けてエネルギッシュに運動をつづけたことへの驚きと、よろこびと尊敬の念である。
 日本の歴史をつくった多くの先達の中でも、特に、近代女性史に、ひときわ輝く偉大な星として、私たちの心にづっしりとその重さを残し、市川房枝の存在感を与えた映画であった。
 如月の中に安らかに、永遠に逝った時、その棺の上の白百合は、ひときわ白く、気高く、つつましくあった。
     ともろう会広報部発行『茜雲』第12号 1981年(昭和56)11月30日


おしるこ繁盛記 金沢千恵子 1981年

2009-06-24 00:07:00 | 1981年

 菊香る秋、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋。
 そんな中で、食欲の秋に焦点をあてて……。
 十月二十九日、お汁粉食べるには絶好の肌寒い日、暇なことから「ともろう会」の手伝にかり出された。十一時開場にもかかわらず。もうバザー会場の入口には、人、人、人。
 時間になって、さっそく汁粉屋「ともろう亭」の開店。
 「いらっしゃい。お汁粉はいかがですか。一杯、百五十円ですよ。」の美声に大盛況。なつかしいしちりん等も登場して、おもちを取りに走ったり、ウェイトレスをしたり、会計をしたり、一人何役もこなし、その合間に、「手伝ってくれたからいいのよ」の声に、自分の口にも運んだり。おお!忙しい。お茶とお漬物は、セルフサービス。
 おかわりする人や、二度目の人などで大にぎわいでした。
 大甘党の私にとっては、もう少し厚いおもちと、たっぷりのお汁粉だったらなあ、と思いました。でも私にとって、とても楽しい一日でした。最後に一言。
 ともろう会の皆さま、本当にご苦労様でした。次回のバザーも期待しております。
     『茜雲』12号 1981年(昭和56)11月30日


実行委員としてバザーに参加して 田中君子 1981年

2009-06-23 23:45:17 | 1981年

  実行委員として参加
 バザーといえば買う立場でしか考えたことがなかったので、主催者側の一員としての苦労は始めてのことでした。
 会場には手作りの作品が多く、私も欲しい物が沢山ありました。出品作をみても、各班の人達の努力がわかり、とても感動しました。それぞれの立場の人達が力を併せて、この会の推進を図ったことが、成果につながったkとと感じました。
 又、会員外の方々の多大な、ご好意によって、一団と盛り上がったことは、とても嬉しいことでした。
 私はこのバザーの実行委員という仕事を通じて、同じ仲間のコミュニケーションを充分に感じとり、とても良い経験をしました。このような楽しいバザーが、いつまでも続き、「ともろう会」ならびに「社会福祉」に、少しでも役に立つことを喜びに思っています。
 ともろう会に入って日も浅く。会の運営がどのようになっているかもわからなかった私でしたが、今回のことでいくらか理解ができたようです。貴重な体験をさせていただいたことに感謝します。
     『茜雲』12号 1981年(昭和56)11月30日


ともろう会と私 鶴田千恵子 1981年

2009-05-28 06:54:23 | 1981年

 長女が小学校に、長男が幼稚園にと、それぞれ新しい道を歩み始めた今春〝私も何かしなくては。何やろうかしら?〟いろいろ考えていたある日、「ヨーガに入ってみない?」と近所の方に誘われた。
 〝運動をして、身体を動かしたい〟という希望がつよくあったので、即入会。
 これが私とともろう会との出合いである。入会してすぐのスポーツ・レクでは、さっそく実行委員になってしまい、会員の皆さんの顔や、名前も分らぬまま不安な気持ちで当日を迎えた。しかし、そんな心配はどこえやら、皆さんとお知り合いになる良いきっかけとなり、十年振りに童心に返り、楽しい一日でした。フォーク・ダンス、藤手芸、七宝焼、サイクリング等、思い出は種々ありますが、出不精の私が事情の許すかぎり、せっせと参加し、友人も増え、楽しい日々を送っている。残り少なくなった一年を振り返るとき、ともろう会での色々な行事が、今年の私の時間のアルバムになっているようである。
   ともろう会広報部『茜雲』12号 1981年(昭和56)11月30日 なかまの声


「ともろう会会事務局だより」24号 1981年11月

2009-04-05 11:31:00 | 1981年

   事務局だより 24 S56.11.28
                   ともろう会事務局
  手づくりコーナー人気殺到
 第二回のバザーは、十月二十九日、あいにくの雨でしたが午前と午後の二回に分けて行なわれました。九月初旬、実行委員会がスタートし、各班、家事のあい間をぬって数回集って出来上った手づくり品を始め、皆様からの沢山の寄付で集った品があっという間に売りつくしました。外にはともろう亭のおしるこや、靴屋、あかつき園の野菜・陶器と皆様の協力で無事終了することができました。ありがとうございました。

  タレントやあーい
 新年会の日程がきまりました。各地区からの実行委員によって内密にプログラムが作られるようです。腕を、のどを、みがいて当日に備えて下さい。参加者が多いことが予想されるので場合によっては場所の変更があるかもしれません。

  おしらせ
11/30 茜雲発行 広報部
12/3 藤手芸 文化部
12/4 新年会実行委員会
12/8 家計簿を考える 文化・生活教養部
57・1/12 新年会

12/12 永井道雄講演会「日本人の自画像」 国立婦人教育会館 1:30開演

  経過報告
九月
・自治会館清掃
・ボランティア部会
・民踊練習
・交流会
十月
・民踊練習
・事務局便り 編集印刷
・町民体育祭(民踊・接待)
・サイクリング レク部 定例おどる日
・県婦人指導者研究集会
・バスハイク 下見
・バザー実行委員会
・受付 準備
・自治会館清掃
・郡民体育大会 民踊 接待
十一月
・歩け歩け大会 接待
・広報部会
・ボランティア部会
・着付教室 文化部
・役員会
・正倉院宝物展見学 生活教養部
・運営委員会
・定例踊る日 レク部

  ひざかけプレゼント
 多くの方々に御協力頂いた膝かけが出来上り、Xマスにさきがけて十一月十七日入園者全員にひとりずつ手渡しました。ピンクのリボンをかけた包みを持って涙を流すお年寄りに私達の気持ちが通じたかしらと胸が、いっぱいになりました。膝かけをかけたおとしよりの車椅子を押しながら急な坂道も北風も気にならない一時でした。

  関越道で榛名へ
 紅葉の残る榛名湖畔をいつもながら天候に恵まれ、11月4日、43名の参加者でバスハイクが実施されました。こけし工場、夢二記念館と時間にせかされながら見学コースを廻り、陽もまだ高いうちに帰宅しました。


「ともろう会会事務局だより」23号 1981年10月

2009-04-04 10:42:00 | 1981年

   事務局だより 23 S56.10.1
                   ともろう会事務局
  盛況に終った自主上映会
 「八十七歳の青春」を上映にあたり、会員の皆様には御協力を戴きありがとうございました。お陰様で大盛況に終りました。左記の様に御報告を申し上げますと共に、厚くお礼申し上げます。
   収入 236500円
   支出 216910円 内訳 諸経費166910円 寄付50000円(嵐山町社会福祉協議会)
 残金は会の活動費に繰り入れます。 以上9月9日の運営委員会で承認されました。
 市川房江さんの本「だいこんの花」がまだありますので、御希望の方は会計迄。価格は回覧の通りです。但し会員のみの割引価格なので御諒承下さい。

  交流会 白老町の婦人たち
 九月三十日(水) 北海道白老町婦人会連絡協議会との交流会が、国立婦人教育会館でありました。白老町婦連協八名、ともろう会から役員七名が、出席致しました。地域の特色ある活動報告や、これからのボランティア活動の方向などについて話し合われました。

  バザーに向って
 十月二十九日(木) 第二回バザーを行ないます。場所は自治会の諒承を得て自治会館に決まりました。お知らせを配布致しましたので皆様の御家庭の不用品等御協力をお願いします。

  経過報告
七月
・レク部 定例踊る日一回
・広報部 部会
・教養部 部会
八月
・盆踊り練習(大石先生指導)
・自治会館清掃
・ボランティア定例会
九月
・役員会
・レク部 定例踊る日二回
・バザー実行委員会
・文化部 七宝焼
・広報部 映画アンケート印刷 回収
・ボランティア 寿楽会との交歓会
・町民祭民踊練習
・ボランティア定例会
・婦人連絡会
・富樫班 お楽しみ会
・各地区 バザー出品作成

  手づくりの敬老会
 ボランティアグループでは、九月十七日、寿楽会の方々三十名ほどをお招きし敬老会を開きました。手づくりの昼食や歌や踊りに時間も足りないほどの楽しげな寿楽会の皆様でした。始めての試みでしたが更に工夫をこらして、地域に広がる活動にしていきましょう。九月十五日ダイアナクラブの敬老会でメンバーの民踊を披露しました。

  おしらせ
10/10 町民祭参加
10/13 レク部 サイクリング(雨天16日)
10/25 郡民大会 民踊参加
10/29 バザー
10/予定 教養部 正倉院宝物展見学
11/上旬 バスハイク
11/17 文化部 着付教室
11/予定 広報部 あかね雲12号発行
各地区 バザー準備
安藤班・菅原班 バザーごくろうさん会

  よろしく
 安藤班 田部井浩子 佐藤安子 谷井利江


「ともろう会会事務局だより」22号 1981年7月

2009-04-03 06:55:00 | 1981年

   事務局だより 22 S56.7.18
                   ともろう会事務局
  自主上映を成功させよう
 市川房枝女史の生涯をつづった映画「八十七歳の青春」を、ともろう会主催で上映することになりました。
 ひとりの女性が歩んだ道を、多くの人に観てほしいと思います。
 婦人教育会館の講堂を満員にするには全会員の協力が必要です。暑い折りですが、一人が、一人以上を誘ってこの映画を成功させましょう。地区で申し込みを締め切ったあとは、事務局で扱っています。

  夏まつりに協力
 八月八日(土)、九日(日)自治会主催による夏まつりに参加団体として、協力することになりました。秩父音頭、直実節等五曲。又ともろう会として「磯浜盆踊り唄」を踊ります。
 練習日 8/7(金)二時~四時 自治会館

  おしらせ
7/23予定 ユートピア訪問 ボランティアグループ
8/8・9 夏まつり協力
9/12 「八十七歳の青春」自主上映
9/17 寿楽会との交歓会

  文化部より
9/14 七宝焼講習会を予定しています。
   八月末頃お知らせを配布します。

  経過報告
六月
・レク部 定例踊る日一回
  卯月先生の指導でフォークダンス
・広報部機関紙作り勉強会二回。茜雲発行
・リーダー研修
・役員会
・ボランティアグループ ユートピア訪問
・事務局だより編集
・水泳グループ 毎週土曜日
・ヨーガ 毎月二回
七月
・運営委員会
・レク部 踊る日二回。卓球大会
・文化部 藤手芸
・教養部の協力で自主映画の準備

  ひざをまじえて宿泊研修
 宿泊参加者二十名と、日帰り研修十二名で、十一日は縫田館長の講演「選択の道」を聞き、その後ともろう会のボランティア活動のビデオを見ました。夕食後、談話室に集って講演について活発な話し合いがありました。
 十二日は体育館でバトミントン、ドリブル等の球技で汗を流し、十一時頃解散しました。

  モチーフづくりのボランティア
 武蔵野ユートピアの老人の方々へXマスにひざかけをプレゼントすることにしました。一枚でも多く必要なので、御協力お願いします。(20㎝四方のモチーフ)

  地区懇終了
 一ヶ月余かかった各地区の懇談会も、おかげさまで終りました。会員増に伴い、地区の編成も再考を要する時期となり、運営委員会で討議の結果、会員増加の班は、今後新しい班を編成することもあります。


「ともろう会会事務局だより」21号 1981年6月

2009-04-02 10:24:00 | 1981年

   事務局だより 21 S56.6.20
                   ともろう会事務局
  わかめ懇談会
 地区懇談会も恒例になりましたが、どこの地区にも新しい会員の顔が見られ、それなりに意義のある話し合いが開かれています。一般会員の発言とふれあいの場として今後も重要な行事となっていくようです。部活動にはない良さを地区活動で見つけることが出来たら会員意識も一層高められると思います。連絡員さん、ご苦労さま。
・次の地区が終了致しました。
5/29岡田班 5/30室班 6/2菅原班 6/6安藤班 6/8富樫班 6/13西山班 6/19福原班 7/3予定 根岸班

  ボランティア・グループ報告
 五月二十一日(木)武蔵野ユートピアダイアナクラブを訪問。歌と踊り、その後老人達と対話。とても喜んで下さいました。
 次回は六月三十日訪問の予定。グループではヒザ掛けをプレゼントしてはと話し合っています。

  おしらせ
6/23 リーダー研修
7/3 根岸班 地区懇談会
7/9 文化部 藤手芸
7/11・12 宿泊研修

  今年の秋はバザーでぎんぎん
 作品展と交互の予定で開かれるバザー。今年は十月末に予定しています。手づくり品のあれこれ、不用品等、お願いします。

  経過報告
5/18 第一公園清掃 レク部民踊
5/19 スポーツレクリェーション
5/21 生活教養部 勉強会
5/22 広報部 部会
6/1 三役会
6/4 役員会
6/9 運営委員会
6/11 ボランティアグループ 部会
6/12 文化部 マクラメ編講習会
6/18 生活教養部 映画鑑賞会

  ふるさとの川を大切に
6/5 ボランティアグループの呼びかけで、市の川の清掃を行ないました。むし暑い中、30名の参加があり、空き缶、ガラスの破片、針金、ブリキ、ビニール類……。山のようなゴミを処理し十一時半終了。御協力いただきました皆様、ありがとうございました。

  リーダー研修会
 百人一首の講座で紹介のあった万葉歌碑を秩父・吉田町に訪ねることになりました。又、秩父困民党の蜂起の地である椋神社等を廻り、歴史・文学の一端にでもふれてきたいと思います。
 六月二十三日(火)九時~四時

  宿泊研修 於国立婦人教育会館
 かねて会員より希望のありました宿泊研修を行ないます。宿泊での研修には、より一層の親睦も期待されます。近くにある立派な施設を利用する良い機会ですので、ぜひ御参加下さい。
 七月十一日(土)~十二日(日) 詳細は回覧で


「ともろう会会事務局だより」20号 1981年5月

2009-04-01 12:11:00 | 1981年

   事務局だより 20 S56.5.15
                   ともろう会事務局
  出前もしまーす
 主婦が寝こんだりした時に、滞った家事を、片付けてくれる人がいたら、と誰でも一度は考えたことがあるはずです。ボランティアグループはそんな手助けが出来たらと、身近な活動を目標として、メンバー17名でスタートしました。
 福祉関係も今後の課題として取り上げて行く予定です。

  よろしくお願いします
新役員
 会長   武谷敏子
 副会長  井上睦美
 事務局長 西野万亀子
 会計   木村邦子 尾身節子
 書記   西村弘美 中村和子
 会計   中野光子 中山富子
運営委員
 生活教養部長 島田もと子
    副部長 田中禮子
 文化部長   三井幸子
  副部長   佐久間玉江
 レク部長   町沢朝子
  副部長   小竹愛子
 広報部長   中田邦子
  副部長   岡田元子
地区連絡員
 富樫俊子 岡田元子 室京子 菅原輝代 安藤正子 西山千代子 福村絹子 根岸和江
ただ今、名簿作成中です。

  運営委員会報告
 五月八日(金)第一回運営委員会が開かれました。会長より今年度は自治会との連携を考えての活動と、各部、各地区の自主的な運営を望むとの挨拶がありました。各部より出された年間行事計画が検討され、スポーツ、レクリェーションについて討議されました。行事計画表は配布予定です。
 各地区より懇談会の希望が出されました。日程は次のとおりです。
  5/28西山班 5/29岡田班 5/30室班

  おしらせ
5/18 レク部 民踊講習会
5/18 第一公園清掃
5/19 スポーツ レクリェーション 於第一公園
5/21 武蔵野ユートピアホーム慰問
5/22 公開講座後の勉強会 教養部
6/5 市の川清掃 ボランティアグループ
6/12 マクラメ編 文化部

  会計より訂正とおわび
・五十六年度予算歳入の部より、研修用機器積立金を削除し、別途積立金とします。
・五十六年度予算歳出の中の研修費十四万を十五万と訂正します。
5/8現在会員数119名 前期分会費十万七阡百円です。

  ◎あなたも私も自治会員でした。
5/24(日)自治会運動会に出場します。(詳しくは事務局へ)


「ともろう会会事務局だより」19号 1981年3月

2009-03-31 11:36:00 | 1981年

   事務局だより 19 S56.3.17
                   ともろう会事務局
  ボランティア活動 老人ホーム訪問
 県の放送教育課からの要請で、テレビ取材に応じたのがきっかけでしたが、老人ホームを訪問した感動は五十六年度のボランティア活動に大きな心の支えとなりました。
 施設の手不足を補うのも一つだろうけれど、老人ひとりひとりにふれ合う喜びを感じた今、直接的な活動が望ましいと思います。
 ホーム訪問だけがボランティアではないこと、身近なところに眼を向け、日常生活がボランティア活動に結びつくことを考え、来年度は多くの方が関心を持ってとり組んでゆけるよう願っています。
 なお、放映は次のとおりです。
  六月二十八日(日)午前十時二十分  テレビ埼玉「人・まち・ふるさと」

  運営委員会報告
 二月二十七日、三月七日と二回にわたり、一年間の反省と来年度の方針等が話し合われました。
反省事項の中より
・行事が季節的に重なり合うので調整してほしい。
・部員が、かけもちのため、行事日程が決めづらい。
・地区での活動費がほしい。
・できるだけ部活動に参加してほしい。
来年度の方針として
・行事の平均化を図る。
・全員対象の行事を流すことで、部員の調整をする。
・地区の活動費は、経費を要する場合は申し出ること。
・参加の少ない行事は、部員で話し合いの上、処理する。
・活動資金を得るために、バザーを行いたい。

  県民環境委員会との話し合い
 二月十二日、国立婦人会館に於て、県庁、県民部主催による「県民環境委員」と「ともろう会」との懇談会が行われました。
 地域の婦人会活動における学習活動への参加の動機、現状、家庭生活との関係、継続する上での問題点、行政に望むこと等、一時間余にわたり話し合われました。

  経過報告
12/22 役員会(1/27、2/24、3/6、3/12)
12/16 自治会館の大掃除
12/27 生花講習会(文化部)
1/9 運営委員会(2/27、3/7)
1/10 新年会実行委員会(12/2、12/12)
1/12 ヨーガ教室(第二、第四月曜、3/23まで)
1/13 新年会
1/20 自治会館外まわり清掃
2/11 ボランティア活動、老人ホーム訪問(1/16、2/5、2/14)
2/12 県民環境委員との懇談
2/18 レク部 部会
2/19 文化部 部会
3/12 五十六年度役員選考委員会
3/16 事務局だより  役員選考委員会
3/17 自治会館外まわり清掃
 選考委員名 大山班・大山幸子(委員長)、新保班・新保昭子、原口班・青沼敦子、北原班・大澤祥子、大村班・後藤良子、中島班・西山千代子(副委員長)、清水班・福村絹子、三井班・佐久間玉江

  入会します よろしく
 北原班・山形保子さん 三井班・鶴田千恵子さん

  総会のおしらせ
日時 4月10日(金)午前10時より
場所 自治会館
 おおぜいの出席をお待ちしております

  水泳教室のおしらせ
 六月から始まる予定。日程、その他は後日連絡いたします。

  梅を見にゆきませんか
三月二十日(金)文殊院へ(江南村)
嵐山駅へ集合 九時二十分まで(時間厳守)
お弁当持参、歩きやすい服装
雨天中止


我が半生 武谷敏子 1981年

2009-03-18 11:56:00 | 1981年

落ちこぼれの大和撫子
 北海道の旧制高女をまともに卒業したのが、私の唯一の学生生活の思い出である。まともに、というのは、それまでの小学校の六年間は、父の転勤で転校ばかりの記憶しか残っていないからである。
 その唯一の学生生活である女学校も、卒業間際になって父の転勤で、家族は東京へ、私は寄宿舎へ放りこまれた。
 昭和十九年一月のことである。卒業式が近づく頃は、女子挺身隊が編成され、すべての卒業生は、それぞれグループに所属しなければならなかった。
 私はどのグループにも入らなかった。学校側の配慮か、自分の意志か、或いは親がそうさせたのか、特にうしろめたい気持ちもなくただ、親の傍へ帰ることしか考えていなかった。
 昭和十九年三月、警戒警報でまっ暗な上野駅に降りた時、私は、はじめて日本が戦争中であることを実感として受けとめたのである。クラスメイトの挺身隊からはみ出した私は、゛撃ちてしやまん゛の一億の中の大和撫子から落ちこぼれたことを東京の生活の中で、じわじわと味わっていった。
 その頃から激しくなったB29の爆撃は、二十年三月の大空襲で下町を焼きつくし、五月にはわが家もとうとう焼失してしまった。
 バケツリレーも、縄の火叩きも何も役にも立たなかった。
 八月十五日を境に、B29に脅かされることがなくなった毎日を、これが平和なんだ、と極く単純にしか考えられなかった私である。二十歳になった頃、私は洋裁学校へ通っていたが、春先に風邪をこぢらせ、そのまま数年間を病床におくる破目になってしまった。特に、人生にだいそれた望みを抱いていたわけではなかったが、病床にむざむざと過す青春を切歯抒腕し、無念の涙に明けくれた。
 昭和ヒトケタ世代の誰もが辿った多かれ少なかれ戦争の影響を受けた青春時代である。

 厄年は本当にある
 二十代も半を過ぎ、まあまあの健康をとり戻して結婚したが、男の子二人の子育てに追われているさ中、何の因果か、又しても結核菌に行手を阻まれてしまった。当然ながら、親まかせで寝ていた時と状況ははるかに違っていた。二人の子は、夫と私の実家にそれぞれ預け、人格形成のもっとも大事な幼時期を人まかせにせざるを得なかった。
 満身創痍、父母に貰った身体髪膚を敢えて損傷し、なお且つ呻吟の日々であった。病めの時も、健やかなる時も、神に誓ったばかりに、病妻を抱えた夫は、一生の不覚とほぞを噛んだ、かどうか。
 更に、私がもっとも敬愛してやまなかった姑の急逝に遭ったのはまさに最大の痛恨事であった。以来私は厄歳を信ずることにしている。

 遅ればせの開眼
 健康が、生活の原動力であることを大きな犠牲を払って体験したあと、私はやっと社会へ目を向けられるようになった。
 長男が小学校へ入学し、私もPTAにその機会を得たからである。団地の新設校ということもあって、もろもろの課題を抱えた母親たちは、みんな一様に真剣だった。PTAのあるべき姿を追いながら私は、とうとう次男が小学校を卒業するまでPTAにかかわってしまった。
 学んだものは多かった。現在、ともろう会の運営に当っても、この時の経験がどれほど役に立っているかはかり知れない。この志賀二区に婦人会を、と話があった時、私はそれほど意欲的ではなかった。十年近くPTAに明け暮れて、個人的な時間を待てなかった私は嵐山の自然にどっぷりと漬かりながら自由の素晴らしきを謳歌しているまつ最中だったから。順番でまわってきた自治会活動の中で、この志賀二区に連帯感が欠けていることはすでに知っていたし、婦人が学習しなければならないことも充分に感じてはいた。それでも私は、誰かがやるなら協力してもいいな、という程度にしか考えられなかった。
 だが、だがである。おだてに乗って一年の約束で引き受けた結果石の上にも三年もとうに過ぎて今に至っている。もち論、途中で猛然とやる気をおこしたそれなりの理由はあった。今から考えるとよくもまあ、あんなにエネルギーがあったものだと、その当時の精神の昂揚を他人ごとのように感心する。

 人生に悔いなし
 落ちこぼれっ放しで、人生に遅れるとっている私にとって、常によき師であり、よき理解者であるわが伴侶に心からの感謝の意を表すべきなのだろうが、遺憾ながらまだその機会がない。
 それどころか、時間が足りなくて常に喘いでいる私は、出張のない彼の職業を恨むことしきりである。そのうちに、また天誅がくだるのではないかと自重の昨今でもある。
 後悔というのは、自分の意志で行動した結果を云うのであろうから、その意味で云えば、わが青春に悔いなしというところで、甚だ乏しく、語りつぐに恥を忍ばなければならないわが半生ではある(半生はとっくに過ぎているが)
 おそらく、この原稿を提出したあとに、後悔はやってくるのだろう。
     『嵐山町報道』300号 1981年(昭和56)9月25日


“なごみ”グループ 1981年

2009-01-01 19:24:33 | 1981年

 54年(1979)に『なごみ』グループが出来てから早いもので、もう一年余が経ちました。
 毎月一回、研修会を開いてきましたが、どうやら事業課ボランティアの仲間たちという意識が芽生えてきたようです。
 これまでの研修を通じ、話し合いを重ねてきた中でグループの皆さんが、共通の悩みを持っていることがわかりました。
 利用者でもなく、職員でもない私たちの活動は何だろうかと考えた時、即答は非常に難しい気がします。
 今までは施設内をよく知り、利用方法に精通するために研修を行なってきましたが、更に段階を経て今後の活動は、それぞれの適性や経験を生かして主体性のあるグループになれば、そのための研修が出来ればと考えています。
 55年度をしめくゝる意味でグループの感想をまとめることになりましたが、体験を記録に残すということも学習のひとつとして考えれば、研修の成果がさゝやかながら表れたと云えるかもしれません。 (武谷敏子)
     会館ボランティアグループ活動の記録集『ななまたち』その1(1981年)5頁


会館ボランティアグループ活動の記録集『なかまたち』その1発刊 1981年

2009-01-01 19:03:41 | 1981年

   ひとこと         館長 縫田曄子
 このたび、会館ボランティアの皆さんの手により、『なかまたち』が生まれたことを心から嬉しく思います。皆さんをつなぐ絆となると共に皆さんの歩みを語る貴重な記録ともなることを期待しています。
 会館のボランティア活動について、これまで私は繰り返し述べてまいりました。ひとことで言えば、会館でのボランティア活動は人手不足を補うものであったり、自分のためだけの余暇活動であってほしくありません。
 会館は、利用者によって支えられ発展するものであると信じている私は、ボランティアを申し出て下さった方が会館の最も良き理解者であり、支持者であり、会館の活動を推進する中核となる方だと思っています。ひいては、日本の女性に対する生涯教育の発展に力を貸して下さる方たちだと思います。
 したがって、会館と接する機会の多いボランティアが常に情報を交換し学習することによって、会館の諸活動の中で何が必要か、何が欠けているかを研究し、多くの利用者に代わってアンテナの役割を果たしていただきたいのです。
 会館が、真に女性のための社会教育施設としての役割を果すためには職員のたゆまぬ努力に加えて、利用者の理解と協力が必要です。利用者の中にひとりでも多くの理解者、協力者の輪を拡げる核になって下さることを会館ボランティアに期しています。
 『なかまたち』が、皆さんの仲間づくりの絆になると同時により広く、利用者たちとの仲間づくりのための情報交換、学習の場になってほしいと願っています。