武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

レク部活動報告 沢田 1989年

2010-06-30 13:54:00 | 『しらうめ』10号(1989)

 私達一同は、一年間無我夢中で行事をこなしてまいりましたが、皆様のお力添えで無事に終わり感謝しております。フォークダンスの講習会では、良い講師に恵まれ一つ一つわかりやすく教えていただきました。
  曲(フォークダンス)
 1 デインドン・ダディ
 2 ダンシング・イン・ザ・ストリート
 3 バージニア・ミクサー
 4 カルナバリート
 5 ジーフィ・ミクサー
 他にもたくさんありますが、何曲か印象に残ったのを選んでおきました。盆踊り大会にも、協力することが出来、又、ボーリング大会も特別に行いました。多数の方々に参加していただき予想以上に反響を呼び、皆10年前頃のことを思い出し、楽しそうにしている姿を見てよかったと思いました。毎年同じ行事をするのではなくいろいろ新しい事に取り組んでいくのもよいのではないかとボーリング大会の成功によって特に感じました。最後にフォークダンスの講師の先生を囲み、サヨナラパーティーを15名の出席者とともに開き、いままで教えていただいた、ダンスを参考にして、皆踊ったり、カラオケをしたりして、とても楽しい一夜を過ごすことが出来ました。又出席者でことばを一言ずつ色紙に書き入れて先生に渡しました。
 なにかと、ゆきとどかない事が多かったと思いますが、この一年間レク部にご協力いただき本当にありがとうございました。(沢田記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月


体育部活動報告 山崎 1989年

2010-06-29 13:52:00 | 『しらうめ』10号(1989)

 ハイキング 宮ノ倉山 五月二十九日、日曜日 参加者五名
 ちょっぴり淋しかったが誰にも歩けるいいコースで緑いっぱいで森林浴を充分満喫!
 秋の研修旅行 榛名 伊香保 伊勢崎
〔コース〕 嵐山~渋川~榛名湖~榛名神社~夢二記念館見学~伊香保ベルツの湯(昼食)~伊勢崎明治乳業工場見学~嵐山
 今年度は婦人会研修旅行としては、はじめて町のバスを利用しました。前夜までの雨で心配していた天候も明けてみれば晴れ。榛名湖を右窓外にみて榛名神社へ。大きな岩に接続して造られた本殿、矢立の杉の高いのを仰ぎ見、細く長く落ちる滝、雷電岩などを眺めながら一時間ほど散策、境内のみやげもの店で豆、栗、ぜんまいなど主婦らしきみやげを選ぶのもまたたのし。ふたたび湖を左手に戻ると、すぐ夢二記念館、大正ロマンの夢にしばしひたり、隣りのベルツの湯にて食事、入浴いろいろな湯につかりながらおしゃべりに花が咲く。湯の花まんじゅうをみやげに、伊勢崎の明治乳業の工場へ、アイスクリームが出来るまでなどをガラスの窓ごしに見学。工場の方の説明を聞きながら栄養たっぷりのアイスクリームをごちそうになる。予定時間より少々遅れてしまったので急いでバスの人となる。五時三十分嵐山着。
<後記>
 初めて町のバスを利用して、案内などに不なれな点などありましたが、皆んな仲間内という安心感と費用が安くあがる等、利点がありました。ただコース設定、時間配分食事の場所など十分の下見が必要なことと、バスに距離規定があることも考えて、コース決定すると良いと思う。(山崎記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月


文化部の報告 部長・福司 1989年

2010-06-28 13:50:00 | 『しらうめ』10号(1989)

 五月三十日、手編み教室二十二名でスタート。六月九日、二十一、二十八日と四回にわたり、中村先生にサマーセーターを教えて頂きました。半袖、ノースリーブと思いの作品が出来上りました。
 八月四日 料理講習会
 会員の根岸ひろ子さんに東北地方の郷土料理『ずんだ餅』を教えていただきました。十七名参加、冷凍の枝豆が一年中手にはいる時代、テレビなど見ながら豆の皮をとり、白玉粉を利用して手作りのおやつはいかがでしょうか。
 秋の文化展に向けての手編み教室
 十月六日、十三日、二十日、二十七日は先生の教室にて教えていただき短期間でしたが、頑張って文化展に出品して頂くことが出来ました。
 最後は料理教室
 三月二日、昨年同様、栄養士の近江先生に成人病の予防食のご指導をいただきました。
 ひな祭りをひかえ、ひなずし、ハマグリとミツバの吸いもの、昆布いりち、ほうれん草の酢みそ和え、りんごのコンポート等手軽に出来るものばかり、家族の健康の管理者として、心をこめて、教えを生かしてゆきたいと思います。三十五名の方々にご参加いただきました。
 一年間ご協力ありがとうございました。(部長=福司記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月


読書会・婉という女 助言者・三浦嘉子

2010-06-27 13:48:00 | 『しらうめ』10号(1989)

 九月二十七日の読書会は大原富枝作“婉という女”を通して女性の生き方について話し合った。婉のすさまじい気迫に感服すると共に封建社会における女性の悲哀を今更の如く思い知った。この作品は事実に基づく著書であるだけになお更私達の心に迫るものがある。
 「婉」一五七三年、天下の政権が名実ともに織田信長となった時代に生まれ*、四才より四十年の永きにわたって獄舎生活をしなければならない運命を背負った女性の物語である。その理由は、土佐の執権を握っていた婉の父、野中兼山が王道楽土の理想を追求する為に過酷な税や夫役を四民に課し温情に欠ける政治を行ったことによる。理はいかなるものにせよその為に家族が四十年間も獄舎につながれる事など私達には到底納得出来ない事柄である。
 獄舎生活の中で婉は成長し青春時代を過ごし、やがて四十を過ぎた老嬢(おんな)となる。その過程に於ける心の変遷、葛藤が読者の胸を打つ。
 ・獄舎で次々に死亡していく兄、弟
 ・学問をすることのむなしさ、政治への反発
 ・正常な心理が失われていく悲しさ
 ・外界への憧れや希望
 様々な悩みや苦しさの中で唯一つの夢は、谷秦山との文通から生まれた恋情であった。だが四十四才となって赦免された婉の恋も実らず、婉の心は氷の様にとざされていく。
 『どの様なお仕置(政治)が私のまわりにひしめこうが渦巻き荒れようと私にはもう一切関わりがない。私はもうあらゆる人にも、あらゆる物にも全く他人であった。誰ももう私をこれ以上こわす事は出来ないかわりにどんな人の情も私を温める事は出来ない。私はもう人であるよりもむしろ物に近かった』
 これは六十才になった時の婉の心境である。
 大原富枝氏が読者に訴えたかったものは、政治に対して無力な女が男の死を近々見ながら、しぶとく強く冷酷に生きていく、絶望の底から冷たい笑いと共に湧き上がってくる女の凱歌といったものではなかろうか、と思う。

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月

*:野中婉【のなか・えん】は、万治3年(1660)土佐藩(高知県)首席家老野中兼山の4女として高知に生まれる。没年は享保10年12月29日(1726年1月31日)なので、1573年生まれは誤り。婉の父、野中兼山は元和元年(1615年)生まれ、土佐藩の藩政改革にあたったが、失脚した寛文3年の12月20日(1664年1月18日)に死亡。


郡市婦人会幹部研修会に参加して 本部・小久保 1988年

2010-06-26 13:45:00 | 『しらうめ』10号(1989)

 九月二十一日、婦人会館に於いて研修会が開かれました。開会行事の後、『生涯学習と婦人会組織』というテーマで、県社会教育課の小菅唯子先生の講演がありました。その中で、どうして生涯学習が必要なのかを話されました。現在の社会は絶えず揺れ動く社会であり、そこから抜け出すわけにはいかない。一人一人が社会生活を営んでいくには、いつでも、どこでも教育が受けられる制度が求められてくる。生涯の各段階で充電を必要とするのが生涯学習であり、限りある人生で無限の学習に挑むことが大事です。女性の平均年令が81才にもなり、25才で結婚し、35才で子供を生み終える。その後の46年間をどう生きるかがテーマでした。各人が自発的意志に基づいて、必要に応じ自己に適した方法、手段で自ら選んでいく。そして生涯を通して継続することに意味があり、最も大事なことだということです。又生涯を生きていく上で、人間の幸せとは何か。やりたい事が自由。時間が自由。語ることが自由。この世の中で一番楽しく立派なことは、生涯を貫く仕事なり趣味なり持つこと。世の中で一番美しいことは、全てのものに愛情を持つこと。又尊いことは、人のために奉仕して決して恩にきせないこと。社会を良くしていくには、心の豊かな人になることです。心の豊かな人とは、人生への充実感を持った人、本当に何かを求めて生きている人の心は、豊かで素晴らしいものです。
 講演の後、分科会があり「組織の現状においてリーダーの問題と学習体制」「新しい家庭とは」「働く婦人の問題」について話し合いました。
 リーダーは点であり、点と点を結ぶと線になり、やがて広がり面となる。それぞれの家庭が生涯学習の場であり、親子が共に育つ場所である。家庭のリーダーは女性である。婦人会活動が活性化されれば会が提唱者となり、他団体と協力し連携をとっていくのがのぞましいこと。後の方では三世代の中で嫁姑の関係で、自分の過去を押しつけないように、又核家族で共働きの場合、心のよりどころをどこに求めるか、親子との会話の必要性、働く婦人の健康面などの意見が出されました。時代の流れで会員の減少の悩み、役員選出の悩み等いろいろあります。研修会で多くを学んだ中で、自分にとって出来ることから自ら選んで参加することで、自己練磨の機会が得られるのではないかと思います。余り気負わず長く継続することが大事であり、生涯学習の学んだ意味に沿って、婦人会活動はそのふさわしい場だと思います。家庭、地域、社会を結ぶ活動の機会を大事にしながら学んでいこうと研修会を通して感じた一日でした。(本部=小久保記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月


昭和を生きて 菅谷四区・松本茂子 1989年

2010-06-25 13:43:00 | 『しらうめ』10号(1989)

 昭和天皇の大喪の礼も無事に終わり昭和から平成に変わった事をひしひしと胸に感じている日々です。
 昭和元年に生まれた私は、激動の昭和と共に生きて来たのです。私の青春時代は戦争の真っ只中でした。その頃は「女にこそあれ我れも行くべき道を行き大和心は劣らぬものを」とただただ大君の為、国の為と幾多の苦しみ、食糧難にも負けず頑張って参りました。苦しくも若かったあの頃、私は村役場に職をおき、税務、戸籍、兵事と忙しい毎日でした。学童疎開の子供達も村でお世話しました。出征兵士の見送り、戦死者の帰還の出迎え、職場も女性と老人ばかりで目まぐるしい日々、その中で北方、南方の兵隊さん宛に慰問文を書いて送りました。眼前の忙しさ、戦死者の悲しいしらせ、悲しい心は書くこともできず、
   流れの岸の一本(ひともと)は
   み空の色のみずあさぎ
   なみことごとくくちづけし
   はたことごとく忘れ行く
 という詩を添えて書いたのを想い出しました。慰問文のお返事も最初の頃は頂きましたが、だんだんそれどころではなくなり熊谷の空襲を目のあたりに見た恐ろしさ等……。
 今では信じられない物資不足、想い出したくない戦時中、戦後のどさくさの色々な事等……。
 昭和天皇のお車が皇居を後にして二重橋をお渡りになる時のテレビを見ながら、戦時中の事、戦後の陛下のご苦労がぐっと想い出され、私達家族も涙がとめどなく流れました。
 どんなに大変だった事でしょう。でも戦後四十年余の平和な日本、世界各国の方々、日本中の人々に見送られ、さぞ安らかにお眠りになられた事でしょう。
 衣食住、何も不足ない今の時代に生きられる私達はなんと倖せなことでしょう。平和を愛し、国民の幸福を思ってくださった昭和天皇の御霊にお答えすべく、皆で時間を大切にして共に学び、共に話し合い、平和で明るい社会を歩んで行くように努力していきましょう。

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月


台所 嵐山町教育委員会教育長 飯島留一 1989年

2010-06-24 13:45:35 | 『しらうめ』10号(1989)

 台所といえば母を想い出す。朝、暗いうちから起き出して、家族のために朝食をつくる。不平不満をいうでもなく、ただ、ひたすらありあわせのもので準備をする。時代のせいだったのだろうかと、今では不思議な感じさえする。
 今日、台所も大きくさまがわりしている、水道もあり、ガス台もあり、温湯も出る。でも、そこで働く母の姿は、我々が思っている母の姿と、今、子供達が見る母の姿とは重なるのであろうか。重ならないとすれば、どこがいちばん重ならないのであろうかと考えたりする。
 現代は心の豊かさが求められている。心の豊かさとはどういうことをいうのであろうか。それは、相手を思う思いやりの心であるように思う。家族のために、心をこめて温かい手料理をつくる。そこには、たとえ貧しくても心のあたたかみがこめられていたように思う。
 嵐山町教育委員会では、ここ数年「手づくり教育」をお願いしている。これは、先生方が、手間、ひまをかけて、自らの汗と涙を結集して、いわゆる手塩にかけて、子供達を育てていこうという先生方の姿勢をお願いしているわけである。
 明治維新とともに、台所も洋風化が始まった。早くから、寒い北側にあった台所を働きやすい南側に移すことが主張され、さらに、水道、ガス、電気の普及が変化に拍車をかけることになった。それまで座って行っていた調理や流しでの作業が立って行われるようになった。台所で使う電気冷蔵庫、換気扇、ステンレス流しなどの機器やシステムキッチンの開発によって、戦後の台所の改革は目覚ましく発展し、家族の団らんの場としても機能的になり大きく変わってきたのである。しかし、いかに改良され、快適な空間となっても、変わってほしくないのは、そこで働く母の姿であり、家族のためを思うあたたかい心である。

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月


嵐山町の将来について 嵐山町長・関根昭二 1989年

2010-06-23 17:35:17 | 『しらうめ』10号(1989)

 長い昭和の時代が終わりを告げて、平成という新しい時代がやってきました。時代が変わっても人の心が急に変わるものではなく、また町の行政が直ちに変わるものでもありません。
 しかしながら新しい時代には新しい意気込みをもって立ち向かってゆきたいと思っております。
 嵐山町は今、来たるべき二十一世紀に向けて、嵐山町のヴィジョンを策定すべく第三次嵐山町総合振興計画を策定中であります。この策定にはできるだけ町民の方々の考え方を反映させたいと思いまして、成人者二千五百名を対象としたアンケート調査を実施いたしました。また小中学生にも作文、図画の募集をいたしまして関心を持っていただきました。
 さらに『二十一世紀をめざすまちづくり委員会』を組織いたしました。これは町民の各界各層各地域の方々百名の参加によりまして、町政全般にわたり研究討議をしていただいたものであります。即ち全体を三部門に分けまして、第一部会は「生活基盤を整え、産業を振興して活力ある豊かなまちづくりを考える」部門、第二部会は「福祉を充実し、健康で明るいまちづくりを考える」部門、第三部会は「教育を伸展し、文化の香り高いまちづくりを考える」部門となっております。これら三部門の提言が出されまして参考資料となっております。
 アンケート調査によりますと、嵐山町のイメージは「自然が残されているまち」に四十五・八%の人が印象を持っています。町で自慢できるものについては、「国立婦人教育会館」が四十一・九%、「豊かで美しい自然」が三十八%、「嵐山渓谷」二十四・五%、「国蝶オオムラサキ」十六・二%の順になっています。そして、嵐山町の将来像については「自然環境に恵まれたまち」を望む者が一位で四十九・四%になっております。二位は、「社会福祉・医療・保健の充実したまち」四十五・八%、三位は「産業が発展し、経済活動が盛んなまち」三十五・四%になっております。
 つぎに町政への要望事項ですが、一位は「下水道などの排水整備」が突出して多く四十三・一%で、二位の「身近な道路整備」二十一・六%を大きく引き離しております。
 これらの点から考えてみますと、嵐山町の将来について、多くの町民の方々は、豊かな自然環境に恵まれた地域を保全しながら、一方におきましては、下水道などの整備により、快適な居住環境を求めていることがわかります。
 私たちの住む嵐山町が二十一世紀をめざして、このような嵐山町ならしむべくお互いに努力してゆきたいと思います。

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月


心 いろいろ 菅谷婦人会長・中村きみ 1989年

2010-06-22 17:33:00 | 『しらうめ』10号(1989)

 或る日、用事で出かけた車中で、大変すばらしい青年を見ました。先輩らしい方との会話が非常に礼儀正しく、「はい」「はい」との小気味よい返事が何度も聞こえて来るのです。その言葉使いは、青年の育った家庭環境が如何にすばらしいかを、想像するのに充分でした。『はい、と云う素敵な心』と云いますが、まさにぴったりなのです。素直な心はすべてに通じると申しますから、この青年は必ず、幸せへの道、成功の道を歩んでゆく事でしょう。
 このように子供の心を育むのは家庭であり人生最初の教師は両親、そして周囲の人達でしょう。中でも母親の役割は大きく影響をあたえる訳です。町で開講しております『三ちゃん母親学級』がありますが、これは「子供の教育は三才までが肝心」である事や、最近子育てに自信のない母親が多くなっている事等を重視して、若い母親の学習の場として開設しておりますが、その折の保育(0才~5才)を婦人会からも協力させて頂いて五年になります。子供達のそれぞれの個性から家庭環境の重大さをみせられる一時ですが大家族か核家族かによっても大きく左右されるようです。
 核家族が多くなった最近は、当然一人暮らしの老人が増加しております。こうした方達に給食サービス(社会福祉協議会主催)を行っておりますが、この場合も婦人会からも協力させて頂いております。この様に奉仕の心で参加する事業も何回かあります。学習をし乍ら社会参加も出来るのが婦人会の特色ではないでしょうか。
 女性の社会参加が叫ばれて久しくたちますが、各分野で活躍しておられる方達を見ると大変たのもしく、又教えられる事も多々あります。昨年ある会社の女社長さんにお逢いする機会がありました。結婚して十年程は主婦業に専念しておりましたが、ふとした出逢いから仕事を始める事になり、僅か八年目にして年商百億円以上の実績を上げるようになったそうです。女性の潜在能力を充分に発揮しながら社会のために貢献し、経済的にも立派に自立している彼女はまだ四十才の若さです。自信と希望に充ちた顔はキラキラとまぶしい程に輝いておりました。「ものすごいエネルギーですね」の問いに笑みをうかべ乍ら「皆さんのお蔭様なのです、私の力ではありません。」と何の高慢な所もなく好感のもてる謙虚な心の持ち主の女社長さんでした。
 この様なビジネスをはじめ日常生活において一寸したミスや誤解から摩擦や争いが生じる場合もあります。お互いが反省の心をもつゆとりがあれば、自然に優しさが生まれ和が生まれてくるでしょう。
 さて激動の昭和が終わり新しい平成の時代となりました。内にも外にも『平らに成る』事を願っての元号といいますが、リクルート事件、消費税等、生活環境は目まぐるしく急変しております。高齢化時代、情報化時代、国際化時代といわれる社会背景の中で、私達主婦はどのように対処すべきか、大きな生活課題です。やがてむかえようとしている21世紀は、女性の時代といわれており、日本の女性が世界をリードするのではないかとアメリカのライシャワー博士は予言しております。
 人生80年を生き生きと生きるためには、常に学ぶ心を忘れず、時代のニーズに合った学習や研修を重ねつつ、自立しなければならない時代です。何時れにしても戦争のない平和な国、日本に生きられる事に感謝の心を忘れず、地域の和と世界の平和を願いつつ、嵐山町に住む女性として、心の輪をつなぎ共に歩んで参りましょう。

   菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月


『しらうめ』第9号編集後記 本部・西尾 1988年

2010-06-21 17:29:00 | 『しらうめ』9号(1988)

 わが町嵐山も、昨年は町制二十周年を迎えて、記念すべき幾多の行事が催され、会員各位の御尽力と相俟って、歴史は大団円に創られつつあるのがみえるようです。
 こうして今年も活気ある町づくりの一環の裡に、婦人会も協力と前進に弛まぬ努力を、惜しむものではありません。
 和合に依る、一致団結、それに依って溢れ出る意気が、限りない力となって会を揺ぎなきものとするでしょう。今年も又、どうぞ宜しく。
 『しらうめ』第九号を、お届けします。お忙しい中、原稿をお寄せ下さいました方々に厚く御礼を申し上げます。(本部・西尾)

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


川柳 菅谷六区・小沢喜美子 1988年

2010-06-20 12:33:48 | 『しらうめ』9号(1988)

 涙受くうつわがあれば溢れ出す

 ひとときを亡夫に逢えた大掃除

 厨にて玉ねぎでない涙拭き

 夫の居ぬ畑こんなに広すぎる

 友有りてくじける心励まされ

 懸命に生きていますと犬ふぐり

 アルバムへ青春に手が届きそう

 娘に貸した一万円は戻らない

 定期券年令偽って二年過ぐ

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


短歌 菅谷四区・佐々木ユ基 1988年

2010-06-19 12:30:00 | 『しらうめ』9号(1988)

 心こめ作り上げたるくす玉を
       安全運転願い手渡す
  (交通安全母の会のお母さん方が鬼鎮神社のお祭りの日に)

 節分祭にころげて土にまみれたる
       だんご豆など幼拾えり
  (鬼鎮神社の豆まき情景の一コマ)

 手作りの凧の糸ひき天空に
       およがす童気遣う老人
  (嵐山町こども会の手作り凧上げ大会にて)

 かき鍋に庭にみつけし蕗のとう
       刻みてやくみ一品増せり
  (寒のもどりの夕餉に…)

 いま銀座鍵かけて寝よと夫の電話
       楽の音人声耳にのこれり

 厨辺に帰らぬ夫の膳片し
       葭子の歌集くり返し読む
  (夫の愛人と一つ屋根の下に住む葭子より倖と想わねばと……)
            葭子=三ヶ島よし子

 皮むきて渡す息子の手逞しく
       LLの梨小さく見えたり
  (吾子の成長にはっとして……)

 篠懸の大樹のもとに踊る生徒ら
       日やけし脚ののびのびとして
  (K市の女子高校にて)

 澄みし空篠懸大樹仰ぎみる
       再度の勤め終はる朝に
  (右に同じ)

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


茶話会 菅谷七区・会員より 1988年

2010-06-18 12:24:00 | 『しらうめ』9号(1988)

 去る三月二十六日、七区婦人会は七十才以上のお年寄をお招きして恒例の茶話会を開きました。当日はあいにくの雨模様でしたが、八人の方々の出席が有りました。
 会の内容は手芸(タオル地のワンちゃん)から始まり、その後婦人会員による手作りの料理を囲んで歌と話に花が咲き、和やかな内にお年寄との親睦がはかれ、有意義なひとときを過すことが出来ました。
 来年度もこのような会が続くことを祈っております。

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


菅谷八区支部活動 菅谷八区・西沢洋子 1988年

2010-06-17 12:22:00 | 『しらうめ』9号(1988)

 『しらうめ』の原稿をと言われ色々考えあぐねた末、結局支部活動の報告となりました。
 今年は昨年と比べて活動も少なかったかも知れません。これも役員の怠慢と反省して居ります。しかしいまとなると会員の皆様の積極的な協力にとても感謝して居ります。
 さて八区としましては、まず婦人会館へ向かう主要道路とバイパスの缶、ビン拾い、菅谷神社境内の中央集会所の清掃二回、町民体育祭の日の焼ソバ作りとその前日の準備会、親睦を兼ねた新年会、そしてヂーゼル社員倶楽部での懐石料理(個人負担)も試みました。どれもこれも会員の方々の協力で成りえた事で日頃忙しさの余り疎遠になりがちな皆様とも接する事が出来、婦人会ならではの楽しいそして充実した時間で有りました。行事の中の缶、ビン拾いですが、なんとゴミの多い事か、どうしてこうも缶等投げ捨てる人達が多いのかビックリ致しました。しかし缶拾いの後の皆で五目ごはんを作り昼食としたのも楽しい一ときでした。
 集会所の清掃ですが出来てから十年も過ぎたと思います。近代的な建物では有りませんのでこれ又大変な仕事なのです。机の上に椅子を乗せ、その上に人が乗り、天井、換気扇、蛍光灯、扇風機とふくわけですが、椅子を押える人、ぞうきんをすすぐ人とリレー式でやり大変な作業です。清掃の終えた瞬間思わず「きれいになったわねえ」とつくづくみまわし何んと気持ちの良いことか……。力を合わせ、みんなでやったからこその味わいです。
 八区の反省として研究会とか講習会とか、もっとやっても良かったかと思って居ります。会員の中にも隠れている才能を持った人がきっといるでしょうから、そういう人に協力して頂き乍ら……。
 八区は現在会員十四名これから会員を増やすことに努力したいと思います。

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


夕食作りに参加して 菅谷六区・田島マサイ 1988年

2010-06-16 16:09:33 | 『しらうめ』9号(1988)

 一月二十八日午後、公民館の調理室に於いて、お年寄りの夕食作りということで、初めて私達も参加いたしました。
 少々時間に遅れて何だかきまりわるかったけれど、その時、中村会長さんが「ご苦労様です。ではこの場所でお願いします」と言ってくれました。すでに調理が始まっていましたが、皆さんと一緒に協力できほっとしました。日赤奉仕団の人達と一緒に、野菜をきざむ人味付けをする人、それぞれ手際よく分担して作りました。出来上った品はチラシずし、おかずは小魚の天ぷら、それから人参、ごぼう、しいたけ、コンニャク等の煮物、それぞれおいしいものがたくさん出来上りました。
 それを二階の会議室に運び、約七十人分ぐらい容器を並べてつめ合わせ予定の時間までには作り上げました。
 それを早速、地区の民生委員さんが一人暮しのお年寄の家庭に配りに出掛けました。日赤奉仕団と婦人会の人達二十人で真心こめて作ったので、おいしく食べてくれたことと思います。
 色々と皆さんに教えていただき、本当にこの日は楽しく時間のたつのも忘れて良い勉強になりました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月