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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

菅谷婦人会が生活改善実行規約を決定 1951年3月

2009-10-18 08:57:35 | 1951年

   生活改善の具体策
       婦人会で決定
 菅谷村婦人会は発足以来生活改善の問題について種々具体策を研究してきたがこの程ほゞ成案を得たので三月二十四日午後一時より菅谷小学校に於て支部長会議を開き生活改善実行規約を決定した。この規約は更に四月七日開かれた常任委員会で採択され直ちに村当局及び各種団体に呼びかけ実行に着手することになつた。尚婦人会では最近「婦人会に何を望むか」の世論調査を行つたが、この結果を検討することによつて婦人会は更に積極的な活動を開始するものと思はれる。
 生活改善実行規約は大要次の如きものである。

  時間励行に関する事項
一、主催者は必ず定刻前に出席すること。
二、遅刻又は欠席する場合はその旨を主会者に届出ること。
三、主会者は出席者半数以上を認めた時は指定時刻に開会すること。
四、議事進行中は余談にわたらないこと。
五、酒気を帯び会議に出席しないこと。

  婚礼に関する事項
一、式服は実用に適するものを用ゐ新調の場合は模様付は用ゐないこと。
二、結納金は黒紋服につり合ふ程度の帯代とすること。
三、調度品は箪笥一棹、鏡台一台、針箱一箱、寝具一組を限度とすること。
四、披露宴の料理はその場で飲食し得る程度とし引物は全廃すること。
五、宴会時間は二時間位とし遅くも午後十時頃迄とする。
六、婚礼を観覧する習慣は絶対に廃止するよう各実行委員は婦人会、青年団等の協力を得て監督指導すること。
七、婚礼費は生活改善規約に基き出来得る限り節約し規約に違反した場合はその一部を村基本財産へ寄附すること。

  出産節句等に関する事項
一、初産衣の祝は長男長女のみとし模様付を廃し実用的なものとする。但しなるべく金銭を以てすること。
二、紐解祝も初産祝に準じて行ふ。
三、節句にひな人形、こいのぼりを贈るには長男長女に限り、なるべく金銭を以てする。
四、弓破魔、羽子板の祝も節句の祝に準じて行ふこと。
五、前各項に於て収受し又は節約した金銭は子女の教育資金として貯蓄すること。

  葬祭に関する事項
一、葬儀は敬虔簡素を旨とし造花生花を作る場合は何れか一対程度とする。
二、一般会葬者に対する食事茶菓の接待は全廃すること。
三、香典は近親者に限ること。但し各種団体からの弔意はこの限りではない。一般会葬者は香典は贈らないこと。
四、忌明は葬儀当日簡素に行うこと。
五、子供への供養は一切行はないこと。

   『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


生活改善座談会が開かれる 1951年3月

2009-10-17 08:51:00 | 1951年

   生活改善座談会
     婚礼をいかに簡素化するか
 古来冠婚葬祭の儀式を尊重しこれを厳粛盛大ならしめることはわが国伝統の美風ではある。
 従つて我々は今直ちに之を破壊し去ることを好む者ではない。然しこれらのものも時代の進展に伴ひ当然改変せらるべきものであり且現行の慣習の中にはすでにその生命を失つて形式化し又はその風習が我々の家庭経済の負担に余るが如きもの等あるに鑑み我々報道委員会は茲に主として現在の婚礼に就いて検討を加へて見たいと考へた。仍つて特に結婚適齢期の方、適齢期の子女をお持ちの方、最近婚礼を行はれた方、生活改善に関係の深い婦人会、社会教育委員会の方々にお集りを願ひ三月九日午後一時より役場会議室に於て婚礼の簡素化について話し合つていただいた。
 出席者(発言順) 岩附松子、高崎達蔵、杉田政一、関根操、水野ふさ子、簾藤栄子、西沢近一、金子重雄、小林まさ
 報道委員会側 小林博治(司会者)、関根茂章、関根昭二

  因襲を打破せよ
司会者 さうすると婚礼の支度が五万、式の支度が二万、その他が三千で全部で七万三千円かゝるわけですね。さうすると二十五年度の村全体の所得額五千八百二十万円でそれを申告したのが六百二十人で平均八万四千円(一年間の所得が)これによつてみると一年間の所得に対する婚礼の費用が多額であるといふ感じを持つわけです。勿論婚礼の人は普段から用意してあるでせうが兎に角多数の費用です。問題はどういふわけでさういふ支度をしなければならないかといふことでこの点について話し合つていただきたい。
いろいろ理由はあるでせうが…一生に一度のことであるから多少無理をしてもとか或は親であるから借金をしてもとか或は先方へ行つてあまり苦しまないやうに支度をしてやりたいとか…若い人の立場から岩附さんに聞いてみるかな。
岩附 財政が許せば別問題ですが、そんなに費用を使つてもらはなくてもよいと思ふ。そんなに費用があるなら結婚後の費用にしてもらいたい。費用も今おつしやつた半分ぐらゐでいいんぢやないかと思ひますね。
村長 それでいいかね。僕も男と女の適齢期のがゐるのだが我々は考へ方がちと違ふのだ。今の話では大体十万かかる。それでは一生たつてもやれない。親としては一生一度のことであるし人生の第一歩を踏み出すのであるからできるだけのことをしてやりたいとは思つてゐる。それができないのが現状である。本人はいいと云つても世間はそれを許さない。だから本人の自覚では駄目だ。一番の根本問題は金を持つてゐる人がぢやんぢやんやるから持つてゐない人もやらなければならないやうになる。結婚の簡素化は金のある人が範を示すことである。
司会者 村長さんから簡素化の話がでたがもう少し若い人の話を聞きたい。
杉田 私としては豪勢な祝をしたい気持はありますが祝をしてから生活に困窮するのではさうしてもらいたくない。
司会者 なるべく立派にやりたいといふ気持の根拠は何ですか。
杉田 昔からの風習で家の人も肩身がせまいやうな感じを受けるわけですね。
岩附 “一生に一度のお祝”確かにその通りです。然し一生に一度だから派手にしなければならない筈はないと思ひます。華やかな式を挙げれば華やかな人生が続くわけではないでせう。結婚はお金でもなく形式でもなく精神と内容であり自分のためなのですから…。

  親の頭の切替が先決
関根 岩附さんの御意見に賛成です。因襲の根づよさからいろいろの難関があるでせうが。お若い方が時代を認識して生活の改善に協力して戴きたい。若い人は我慢しても親が承知しないのですが年寄達も若い方の努力によつて頭の切替ができるのではないでせうか。
村長 私も嫁の世話をしたんですが…向うもはだかで結構ですからといふのだが親達はしきりに世間並のものを作つてゐる。それでも親達ははだかで行くのだと云つてゐるんです。本人が幾ら理解しても親達が承知しないんだから困る。
水野 持つて行つたものを飾るだけならよろしいんですが中のものまで出して次の日は一日近所の人に見せてゐるんですからね。
関根 私の時もさうです。支度の少い原因でなんだかんだ始まるのは年よりで、年よりの頭を切り替へなければならないですね。
簾藤 家は本人本意でやりたいと思ひます。娘も支度は何もいらないと云つてゐますので…とつてもそんな支度はできません。
村長 それが東洋人の欠点でさういふことを云つてゐながらきつとやるんですから。
水野 村としての生活改善の規約ができてをれば了解できるわけです。私どもの時は支那事変でちやんときまつてゐましてその通りやつたんですが。
西沢 私の娘はかういふ結婚はしたくなかつたと後で申しました。約束するときは着のみきのまゝでよろしいからといふことでしたが先は職人で箱を支度して持つてきた。家は何も入れてやるものがないだ、空気か水を入れてやることしかできないんだがと申したんですが、それでも祝儀、不祝儀に着る着物がなくては仕方がないのでどうにか幾つか入れてやりました。千手堂の字としては近所の人が集つて箪笥の中を開けてみるのださうですがこれにはよわりました。もらう家で我慢していただけばかゝりをかけなくてすむと思ふ。然しもらふ方では財産が殖えるのだからこれを規則できめるのはむづかしいのではないでせうか。
司会者 結婚の当事者は気にしなくても親が古い因襲にとらわれて分不相応な支度をすることになる。これを改善して行くには組織の力が必要である。

  結婚式を公営に
金子 それに対して一つの希望がある。見栄の面で、もらう方の人にしてもくれる方の人にしてもその点女の方がなり易いと思ふ。結婚式も個ゝ別の家でやるのでは制限できないから神社とか公会堂を利用して式場にあてれば一定されると思ふ。その場合婦人会の人達が組合組織を使つて式一切は組合にまかせる。道具の場合も組合なら組合にまかせたら簡素化するのではないか。
司会者 比企の連合社会教育委員会で建てた案がありますが道具に点数をつけて百点以内で用意するやうになつてゐる。箪笥二十五点、夜具フトン二十点、下駄箱三点、ベビーダンス三十点、ミシン十点などで方法としては面白いと思ふ。
西沢 新しい規則をきめてもらつてもそれを破るのは誰かといふことである。
村長 それは時代の推移で、できる人できる時代はいいと思ふ。昔は普通のお嫁さんで箪笥を一つ持つてくれば上々である。最近は牛車一台が普通になつた。それだけ一般の力があるのだらう。かういふことがいつまで続くか。経済状態が行きづまればできなくなつてしまふ。力のあるうちは自覚以外にはないと思ふ。生活の改善は異口同音に云つてゐる。
小林 さういふことは誰でも云つてゐますね、婦人会ができたのにまだやらないんですかと聞きにきます。
村長 村によつてまちまちだから形式的に終つてしまふことが多いのではないかと思ふ。これに反対する人といふのは恐らくないだらう。
金子 式場を一定することはいいと思ふが。
司会者 それは飛躍しすぎる。周囲の環境が町と違つてゐるから。
小林 式場より嫁さんの持つて行くかゝりが大変です。

   支度には普段着を多く
村長 支度の中で役にたつ品物はどういふものですか。
水野 皆役に立つことは立ちますが…私なども一番地味なものをめつけて着てゐるんですが…皆派手で…十年も二十年も先のことを考へて地味なのもこしらへてやらなくては。
司会者 嫁さんに行けば主人に作つてもらふことは殆どない。
水野 無賃(たゞ)奉公で十年も二十年も…。
村長 戦争中モンペを十枚も十五枚も持つて行つた話もある。
水野 実際問題としては普段着を沢山持つて行かなければならないのですが、見栄もあつていいものを持つて行かなくてはならないんです。
村長 女の人も悪いんですよ。買ふより着ろといふのにいい物をしまつてをくから。
水野 あんまりいいものを一時に用意しないで普段着の方を沢山作つた方がいいですね。
金子 お嫁さんをやる時に貯金なんかをするのはいいことだと思ふが…。
村長 それは結構だが貯金といふのはさう簡単にはできない。月に五十円や百円貯金したところで問題にならない。それよりか、子供が生れたら桐でも何でも植えた方がいい。僕は非常に感謝してゐることがある。家の父が植えた桐が二本ある。孫が嫁に行くときタンスにするんだと云つて植えてくれたのである。
司会者 嫁に行つても嫁入り先ですぐ支度をしてもらふわけには行かない。普段使つてゐたものがあるのだからそれを持つて行けばいいので十年も先のことまで用意する必要はないわけだ。

   嫁はしいたげられている
村長 根本問題としてお嫁さんをもらふ心構へが根本的に間違つてゐる。家は手間がないから嫁さんをもらふなど牛や馬の代りだと思つてゐる。これは間違ひだと思ふ。嫁さんは働かさせればいいと思つてゐる。それで嫁さんが次の代になると、私の嫁時代はかうだつたからと云つて働かせる。朝から晩まで黙々働けばいい嫁さんだといふ。
水野 年よりの方の教育をやり直していたゞきたい。
村長 もの日に家へ帰る時には喜んで家へ帰つて行く。毎日しいたげられた生活がのんびりできるからだと思ふ。
西沢 それはたしかですね。
司会者 精神的に窮屈なんですね。
杉田 私は前に豪勢にやつてもらいたいと言つたんですが、昔からの風習を打破して最小限度にやりたいと心の底には思つてゐるんです。村としても生活改善の道を一日も早く開いてもらいたい。婦人会が組織されたのですが女子青年団あたりにも呼びかけてやつてもらふといいのではないかと思ふ。
関根 年よりの頭を切替へていたゞけばいいんです。
村長 個人によつて違ふので年よりと一概に云ふことはできない。お互いがさういふことにならないやうにするんです。自分の過去を押つけようとしてはいけない。
西沢 根本的におやぢ教育をしてもらいたい。
水野 支度しなくてもいいから行きますもらひますといふ風にならないんでせうか。
関根 婦人会が中心になつて生活改善の問題と真剣にぶつかつて行つたらだんだんよくなつて行くのではないかと思います。他の町村でもかうした問題がおきてゐることゝ思いますから、互ひに手をつなぎ協力すればうまく実行されることゝ思ひます。
司会者 ではこのへんで…。

   『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


婦人会総会雑感 根岸き 1951年

2009-05-19 10:30:00 | 1951年

   新しき未来は潮のよるがごと
          壇に立ちつつ涙のいづる

   はだら雪窓に光れりここに寄る
          人の温かみの肌に触(さわ)りつ

   かはきたる人の言葉も聴きゐたり
          茶を汲みながらいづる婦人会の評

   黄梅の鉢日に光る石きだに
          風となるらしかすかにひびく
                         (比企郡菅谷村婦人会長)

     埼玉県教育局社会教育課『埼玉社会教育』2 1951年(昭和26)7月


菅谷婦人会創立大会、根岸き婦人会長挨拶 1951年2月

2009-05-05 02:23:47 | 1951年

   女性よ精神革命をなせ
     日本婦人の美徳なを健在
          根岸婦人会長挨拶
 私のような力の乏しい者が初代の会長という重任を持ちまして、一体何をすべきか、どんな性格の婦人会を創設すべきかを考えて見ました。そしてここに四つの問題を取り上げて見たのでございます。

(一)農村婦人の自主性についてでございます。
 今しきりに云はれて居ります男女同権という言葉はどう解決すべきでしょうか。男女同権と申しますのは、所謂民主主義による「人権の確立」から、人間一人一人の「自由と平等の権利が確認され、そこから出発した男と女の権利の同じであることを主張したものでございまして、女が男になったり、男が女になったりすることではないのでございます。一口でいえば、女が最も女らしくなる事であり、男が最も男らしくなる事であるといいましょうか。
 男は男の持場を堅持し、女は女の持場を堅持し、しかもこの男女の有する権利は少しの差別がなく、優劣もありません。地上に生とし生ける人間の一人一人が皆一様にこの「自由と平等」の権利を持ち、お互いにこれを侵すことなく認め合って暮してゆくという生き方でございまして、男女に限らず地上の人類はすべて同様なのでございます。それにも拘はらず我が国の封建制は今まで、女を男より低いものとして不思議に思はなかったのでございます。戦争は実に私どもの手から生命を、物質を、精神を、飽くことなく奪ってゆきました。そしてその払いました、犠牲の大きかった事は古今未曽有でありました。しかし一面ここに又得がたい貴いものを私どもに教えてくれました。それがこの真に正しい人間として生きる道、即ち民主主義の生き方でございました。これは世界上にも銘記すべき事柄であります。
 男と女とセックスの違う限り、同権であろうとも同一である事はないのでございます。これが男女の生きてゆく上の原則であると思います。それならば、
 二、農村婦人の仕事はこのためどういう変化がありましたでしょうか。法的には男女の同権は認められました。しかし実際の面に於いては戦前も戦後もあまり変りなく、相変らず畑に出て日の出から日没まで働き、その上、余分に家事一切の切り盛りがあって、加重労働が家庭の内部から裏口にかけての一切の場所に待って居ります。煩雑でゆとりのない農村婦人の生活の改善の必要はしみじみとここに感じられるのでございます。
 仕事に於いてはこのように少しも変りはないのでございますが、精神の於きましてはすでに大きな変りがあった筈であります。以前は女は何の権利もなく、無給の下女のようにただ働いていさえすれば事が済みました。しかし、現在は、女も一人の人間として自ら責任をもって働くという所に民主主義の骨髄ともなるべき自主性の現はれがなくてはなりません。「自分からやる」という気持こそ女性を向上させる原動力であって、その仕事の一つ一つにもこれが現はれて居なければならない筈でございます。女性の地位が高まったということは楽になった事ではなくて、責任という大物を背負い込んでしまったと思う方がわかりが早いのでございます。
 ここにこそ、今まで「女は何もできない」と引込み思案でいた女性に、精神革命があってよいのだと思います。女の持場は男に委(まか)せられない、「自分からやるのだ」という自主活動こそ将来の女性の生活を改善向上させてゆくのでございます。では、
 三、日本婦人美徳は今どうなっているのでしょうか。これも健在だと思います。
 封建性から生れた昔の美徳は今は美徳とは申されないのでございます。そして人間の本性から生れたところの伝統の美徳はこれは一層賞揚されて差支えないと思います。
 女は「裏口の守り本尊」と昔からされて来た位で、これは日本婦人の美徳の一つと教えられ、その犠牲的、献身的な努力は女自身の内から湧き上る愛情の発露でありまして、この自分から止むにやまれぬ力でさかのぼる真実こそ民主主義の精神であり、一層この美徳はここに磨き上げられ、光り輝やいてゆくものでございます。
 我が婦人会の任務もここに深く根をおろし、この精神を貫くところに価値あるものとなってまいります。

(二)文化の向上について。
 都会に比べて農村の文化の低いことは事実でございます。これは色々の原因があるので、急にこれを解決して都会なみに引き上げてゆくことは出来ない事でございます。或いは政治の面に、或いは人間生活の上に、或いは国力財源の面に、地理的自然的条件の面に、雑多にその理由があって、それから片づけてゆかねばならないわけで、何故農村を嫌って都会に人が集中するかといふ事は、実に世界的にわたる大問題なのでございます。この容易でない解決を待つことはできませんので、現在の段階に於いて、まづ焦眉の問題として、一衛生思想を普及して手の届く限り非衛生的のところを改善し、無病息災の健康の村を建設すること。
 二、科学を取り入れた日常生活技能の習得をすること、例へば、
 育児看護の知識、台所の改善、料理栄養の研究、染色美容の知識、其他種々の利用法等、直接生活に結びついた実際面の技術の習得でございます。
 三、其他児童福祉と教育機関への結びつきなども取り上げ、迷信の駆逐、因習打破なども取り上たい事項でございます。

(三)婦人会の在り方でございます。
 在来の愛国婦人会、国防婦人会とちがいまして、これは皆様方自身の会でございます。
 そして役員の会でもないといふ事を先づ明瞭にしておきます。
 皆様の内から盛り上がる力を捉へ、それを相互に研究し、逐次実行に移す会なのでございます。
 役員はただこの会の運轉を司る運轉手の資格であるだけでございます。行く先はお乗り下さる人の心まかせで何れへなりと忠実に運轉してまいります。
 何卒皆様の実際生活の上から、協力して改善すべきところ、又相互にやって欲しい仕事など、どしどし御提案下さいまして、この会を活潑な有能な機関として育成して下さいますやうお願い致しておきます。

(四)村内婦人の親睦についてでございます。一村は一家のようにというのが目標でございます。
 かうして遠くは遠山、将軍沢の果々から、近くはお膝元の菅谷の方々まで一堂にお集りになり、お顔を合せましただけでも誠に意義深いものがあります。こうした寄合いでもなければ同じ村内に居ながら一生顔を合せることもなく見ず知らずの人として過ごしてしまいます。寄り合ってお互いに温め合うという事はお互い人類の深い郷愁なのでございまして、誰もが喜びとするところでございます。同じ生命を同じ地上に託し、しかも一村という近い間に居りましては、白々しい他人とは思はれないのでございます。社会を一つの単位としてその中にお互いに係はり合って生きてゆく人間同志なのでございます。他人の子も自分の子も同じでございます。
 何卒して、しばしばかうした会合のあります事が望ましく、その節はお子様などお連れになり、万障お繰り合せ御出かけになり膝つき合せて四方山語り合いながら自然に出る村の改善或いは各自の生活の向上など取り上げてゆく事ができましたら、どんなに嬉しい事でしょう。皆様度々会ってお話しようではありませんか。
 以上述べました四つの事項は会則第二條の精神を体し、考えた事でありまして、これがこの会の性格を裏づけるものともなりましょう。どうぞ皆様御賛成御協力下さいまして、この婦人会を花も実もあるものに育成していただきたいと熱望する次第でございます。
     『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


菅谷村婦人会が発足 1951年2月

2009-05-04 23:22:15 | 1951年

   婦人会の創立総会開かる
     会長に根岸き女史
 菅谷婦人会の創立総会は二月十八日午後二時より開会、第一部音楽会で小中学校児童生徒による音楽・舞踊・劇などが行はれ特別出演として柴崎真澄嬢の舞踊藤娘があって午後四時から総会に入った。簾藤栄子女史の開会の辞、関根操女史の経過報告に続いて会則の議定、役員の選任が行はれ左の役員を決定した。

 会長  根岸き
 副会長 関根操、水野ふさ子、簾藤栄子
 支部長 中島サイ(菅谷)、島崎ゑつ(川島)、大川美津子(志賀)、小林まさ(平沢)、山下節子(遠山)、吉野なを(千手堂)、金子ふじ(鎌形)、新藤壽子(大蔵)、福島やす(根岸)、福島たに(将軍沢)

 新会長に就任した根岸婦人会長は就任挨拶に於て農村婦人の自主性、文化の向上、婦人会の在り方、村内夫人の親睦について婦人会の希望と決意を披瀝した後、会長は更に次の幹事、顧問を委嘱した。

 顧問 高崎達蔵、関根茂良、吉田熊吉、松崎五郎、小高正文
 幹事 矢ヶ崎文子、國立喜代子、岩附松子

 続いて来賓の祝辞があり、高崎村長、大野幸次郎村会議員、七郷村婦人会長、関根茂良社会教育委員会長、田幡順一PTA会長などがそれぞれ祝辞を述べ、水野ふさ子女史の閉会の辞で会は五時十五分終了した。
 この日子供連れの奥様連中から若い夫人に至るまで約二百名が集り盛会であったが会長の挨拶は声が低いのと子供達が騒しいので後の方では全く聞きとれなかった。「花も実もある婦人会を作りあげてゆきたい」と結んだ会長に次いで高崎村長は男女同権の思想を強調し婦人議員の進出を期待、大野議員は文化生活をするには金と時間の余裕がなければだめで、これには政治的解決を必要とすると自己の思想を展開したが、この頃からぽつぽつ帰りはじめ閉会式には薄暗くなってその数を半減していた。
     『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日