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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

愛育班活動はみんなの手で育てましょう 1970年

2009-08-07 18:57:06 | 1970年

 愛育班が母と子の幸せのために活動をはじめたのが昭和三四年(1959)、その後十年を経過いたしました。当時の赤ちゃんは、離乳期における発育は悪く、栄養不良児は六割もいるほどでした。その他死産や未熟児出生の割合も高く妊娠中の衛生に対する問題がありましたが、役員の努力と会員の協力により妊娠の早期届出、検診のすすめ、日常生活や栄養など逐次改善され、今は赤ちゃんの発育もよくなり、未熟児出産も減少してきました。この減少は七郷地区の赤ちゃんに明らかに示されています。
 七郷地区の赤ちゃんは、合併当時の昭和三十年(1955)頃は、見るからに顔色も蒼くやせていましたが、現在は菅谷地区の赤ちゃんに比較して、勝るとも、見劣りする児は見られなくなりました。このような大きな効果は会員の活動の賜ものです。現在では家族ぐるみの健康を考え、死亡率の高い脳卒中、心臓病、癌などの予防を目ざして活動も広範囲に実施されています。
 四四年(1969)度の事業を紹介しますと、乳児相談(年六回)、血圧相談(別)、料理講習(希望)、子宮癌検診、衛生講話(年二回)、以上のような計画のもとに、実行していますが、その他に役員が赤ちゃんを妊娠している人を、毎月家庭訪問して、よき相談相手となっていると思います。これら事業の中には役場の衛生や国民健康保険の保健施設として行なう事業に協力的なものもありますが、会員の自主的な考えのもとにすすめられています。しかし社会の流れは、日常生活を変え、婦人の就労傾向が高まり、共稼ぎの夫婦が多くなり時間的な余裕がなくなり、組織活動もむづかしい段階になってきています。
 又マイホーム主義で核家族化され、自分の城にとどまりがちの傾向にありますが、このような中にもいままでと異なった因子の問題が現われているのではないかと考えられます。乳児相談などにも見えられます母親の不安そうな態度は、誰れか相談相手をもとめているように思われます。
 立場の異った人々との話し合いの中から良い点を見い出し勉強し合って実際の面にも活用することも大切なのです。赤ちゃんの養育も健康を守ることも、個人の意思によることは大切ですが、他人からの援助がなければ目的を達成することができ得ないことも、忘れてなならない存在でしょう。毎日の生活の中で無理のない時間を生みだし、人と人とのつながりを持った母子愛育班活動を皆さんの手で育てていきましょう。
 母と子の幸せを願い、家族の健康を目標に多くの人の参加をお願いします。(役場 保健婦)
   『嵐山町報道』204号 1970年(昭和45)5月20日


菅谷婦人会が再出発する 1970年

2009-07-12 18:39:19 | 1970年

   菅谷婦人会総会
     新会長に山岸乃婦子さん
 去る五月二日、新築なった公民館において、菅谷婦人会の創立総会がおこなわれた。久しく休会となっていた婦人会も旧役員の努力と菅谷の区長さん八名の支援により、会員四百名中百二十余名の参加を得て、総会は盛大におこなわれた。また年中行事が次のとおり決まった
  十二月 七五三祝賀式
  二月  会員全員のこん親会
  三月  日帰り旅行
 会長及び連絡員は左記のとおり
  会長 山岸乃婦子
  菅谷第一区 根岸キク
  菅谷第二区 吉野マサ
  菅谷第三区 杉田敬
  菅谷第四区 中島きよ
  菅谷第五区 中島さい
  菅谷第六区 関根天津
  菅谷第七区 加藤清子
  菅谷第八区 反町葉子
  川島    篠崎ふく
  志賀    高崎静子
     『嵐山町報道』204号 1970年(昭和45)5月20日


七郷婦人会新役員が決まる 1970年

2009-07-12 18:36:23 | 1970年

会長 藤野米子
副会長 内田きみ子、小林千代
会計係 小林とみ子、吉場花江
衣装係 吉本正子、飯島ハル、安藤つる代、飯島嘉子、杉田かよ子、松本つぎ子、関口志津子、大沢千代、金子永子、田幡よしえ
     『嵐山町報道』204号 1970年(昭和45)5月20日
※衣装係とは何でしょうか? 生活改善?


変貌する社会に対処するPTA活動のあり方 1970年

2009-05-20 15:27:00 | 1970年

   変貌する社会に対処するPTA活動のあり方
               元国立社会教育研究所所長 二宮徳馬先生講演より
 現代のこうした社会の中で、いつも建設的に、明るい希望をもって教育を考える。こうありたいと、という願いをこめたマスクをつけて努力していく中に、それが事実となる。それが教育である。子どもの持つ各々のとりえを願いつつ伸ばしていくことである。教育の本領は対人コミュニケーションである。これからは、これをますます大切にしなければならないが、他のマスコミの影響の強いことを見逃してはならない。情報も積極的に取り入れて、良い方へ活かしていくことが大切であるが、マスコミから直接行動に移ることは全く危険である。
 先生が、PTAの中で受けるものがもっと多くなって行くのがいい。PとTが指導者、質問、返答者と釘づけされていたのでは駄目である。人と人のつながり、ふれ合いによって人づくりがなされる。先生の愛情、生徒の信頼、どうしたら良いふれ合いが出来るか。親と子も同様である。似ている度合いが多い程ふれあい易いが、その成果は少なく向上はない。その違いが大きい程ふれあい難いが、成果は大きい。断絶は逃げず、これを越えてふれ合うべきものである。
 PTAの諸問題は、二十何年未だ解決していないが、勉強会というものに力をいれていけば自然に解決して行くと思われる。PTAは、子どもを幸とすることを目標とする限り、形は違っても、それだけプラスしあうものは、大きい。これは都市問題にもつながる。よき市民としての子どもを育てる、最初の教育の場は家庭である。
  1 自分の事は自分でする。
  2 人の為にしてあげる。
 少なくともこれだけは小さい時から経験として、家庭の中でしつけなければならない。
 勉強とは、知ったことが、出来るようになる事である。十を知らなくても、三を知ってそれを確実に出来るようになる事が大切である。分かっていても、やらない、知っていても出来ない、しない事が多いのではないか。なんとなく知ったことで、満足してはならない。知って、出来てする。なす事によって、学ぶ。これが大切である。
 PTAは、他から強制されるものではない。個人を尊重する民主社会では、自分たちの作った規制以外に、制約はされない。任意団体、任意加入である。入学の時だけでなく、その努力を続け、会員意識を高めていく会にすればよい。
 魅力あるPTAとは、
  第一段階 求めるものに答える
  第二段階 求めざるものを与える
  第三段階 開眼、価値観の転換
  第四段階 与える喜び、ないものを造り出す喜び
 一般の会員に、共に努力してこの喜びを知らせてほしい(槙)
     津田沼市立前原中学校PTA広報部発行『P.T.Aたより』第31号(1970年9月30日)掲載


親と子の距離 1970年7月

2008-08-31 17:45:42 | 1970年

 子どもが幼児期の間は肌のぬくもりのような親子の接触で、この子にとっては自分が唯一のよりどころであろうと母親は勝手に安心していられたが、子どもが成長するにしたがってそれは次第にぐらついてくる。子どもの自己が芽生えつつあるのだからと喜ぶべきであろうが、母親はそれほど冷静にはなれない。何となく母親の気持ちから遠ざかっていくような気がして心配でしかたがない。いつも母親庇護のもとで、言ってみれば母親の力が子どもには必要なんだと思いこむことで母親というものは安心していられるのだろう。
 おかあさんはわかっちゃいないとか、そんなのは古いよ、と言われることがたまらなく淋しく、何とかものわかりのよい母親だと思ってもらいたくても、子どもの考えていることと、自分のもっている考えと、どちらが正しいかわからないために、はっきりした意見を打ち出せない。結局ものの見方がそれぞれの尺度でしかはかれないからではないだろうか。
 子どものものさしと大人のものさしには明らかに年代による避け難い開きがある。その距離を縮めようと努力することが理解なのだろうが、親子という血のつながりの中ではそれがなかなか難しいように思える。それは親にとっては、子どもが幾つになろうと子どもとの位置関係は変らないからだ。しかし子どもはその位置関係にはお構いなく一個の独立した人間になっていく。しかも時代性を背負いながら--。
 今の時代は世代の別が一年乃至二年きざみであると言われる。母親のとっては途方もない距離である。母親はその認識に立ってただひたすらその距離を縮めるような努力が必要なのではないだろうか。それが同時に母親の成長であると思うのだが。

   津田沼市立前原中学校PTA広報部発行『P.T.Aたより』第30号(1970年7月20日)掲載