山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

水出しコーヒーを贅沢に!?

2021-08-21 22:03:43 | 特産品・モノ

  サントリー「Boss」が今年の7月末に販売開始したcafe base「贅沢コールドブリュー」(期間限定)を買ってみる。本当はじっくりコーヒーを入れればいいのだが、ついスピード優先になってしまう。水や牛乳で稀釈する10杯分の濃縮コーヒーだ。

 さっそく牛乳で割って飲んでみる。無糖ではあるが「水出し抽出」ということでまろやかで酸味や苦みはない。コーヒーノキの原種には大まかに、アラビカ種とロブスタ種があり、この二つだけで世界のコーヒー生産の99%を占める。ロブスタ種は収穫量が多く安価のため缶コーヒーやインスタントコーヒーに使われることが多い。アラビカ種は病気に弱く収穫量が少ないので、アラビカ種100%使用と書かれると食指が動く。

  ニューヨークのコーヒー専門店が開発した「コールドブリュー」の水出しコーヒーは、コーヒー豆を直接水に浸し、長時間ゆっくり抽出したもので、昨年ごろから日本にも人気が出てきたようだ。そういえば、数十年前に、渋谷で水出しコーヒー一杯千円という表示が出ていて「なんてこった」とけっきょくその喫茶店には入らなかったことを思い出した。

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いつの間にか芝生ができていた!?

2021-08-20 21:35:27 | できごと・事件

  長ーい梅雨のような日々が連綿と続いていく。なんとか土砂災害はなかったけれどいつ被災してもおかしくはない。地球の人間への攻勢がすでに始まった。雨が弱まったり止んだときをとらえて、ちょこちょこと農作業や庭仕事を入れていく。

 そんなだからか、わが畑の中央の道が雑草でびっしり敷き詰められていた。裸足で歩いても痛くないような道ができていた。まるで芝生のようだった。その雑草のなかに、「ヒメクグ」(カヤツリグサ科)という芝生のような群落がいくつかあった。これが一面に繁茂すればまさに芝生となるが、雑草世界は独裁政権を許さない。多様性が雑草の神髄だ。

 この雑草を放置してしまうと道が消失してしまう。雨露で足が濡れてしまうから、ここを歩くには長靴が必須アイテムとなる。さて、草刈りに追われる毎日が来週早々には始まる。

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山里の風景は時間を逆流させる

2021-08-19 20:39:43 | 農作業・野菜

 戦後の思潮は、イデオロギーから現実を解釈する傾向が強かった。それを過疎の村から論壇に異議申し立てをさりげなく提起したのが哲学者・内山節だと思えてならない。(内山氏の画像は、森づくりフォーラムHPから)

 一昨日紹介した『里の在処』(農文協)で、著者の内山節は「武蔵野から山中谷(サンチュウヤツ)へと向かう景色のすべてに里の景色があり、里に暮らす人々の営みの景色があるという安心感に支えられていることを発見する」と、時間が逆流する感覚に心地よい懐かしさを見出していく。

    

 とは言っても、村にバイパスが開通すると従来のゆったりした時間が壊され、「村もまた効率性を無視できない時代のなかに巻きこまれていた」とも指摘する。「自然の循環は、村人の営みの循環と一体化している」が、その関係が危なくなってきている。

 「現代世界全体を見渡せば、自然が怒る理由などいくらでもある。人間たちは、何かを間違えたのかもしれない」と、内山氏らしい言葉でやんわり人間世界を揶揄する。

           

 「この世界の基準では、能動的な働きかけと変革こそが善であった。…ところが、ここではその自然が機嫌が悪いときは、機嫌のなおる時を待っているのが一番よい。山里で自然と人間が結んだ約束は、変革ではなく、自然と人間が永遠に無事な関係を維持していこうということである」として、欧米の近代化路線や戦後日本の効率化がもたらす自然や田畑の衰退を静かに告発する。

    

 山里に暮らすようになってから著者は、「真理は一つという考え方から、真理は見方によって変わるという精神を受け入れ始めた瞬間に、私はここで暮らそうと思うようになった」という。以前、ゴルフ場建設の話もあったが、「ゴルフ場は都市の論理でつくられるもの」であり、「そこに雇われても、都市の人たちのための奉仕係」ではない、と断じる。

         

       

 共同体研究を総観して著者は、1960年までは共同体は近代化の桎梏として解体の対象と捉えられたが、70年代では共同体の必然性と必要性が提起されたことをふまえ、上野村の経験からそれら否定・肯定説は現実には合っていないとする。共同体は多層的でそこは矛盾にも満ちており、村の記憶や歴史が示してきたことをふまえて自然に「折り合い」をつけてきたのが実態だったのではないか、という。そこに内山氏「折り合い」理論とでもいう独自の思考をみる。

             

 本書を読んで改めてオイラの居住いを糾された気がする。というのは、従来の古い共同体は進歩を阻害するものと長らく思っていた。それが十数年前出会った町会が作ったNPOの可能性に目を開かされた体験と本書の内容が重なったのだ。

 著者が学んでいることは、「学問の中から近代的な知の回路を捨て去ってしまわなければ、農業近代化に抵抗してきた村の農民たちと、…本当の意味で時空を共有することはできなかった」という記述に窺われる。本書に出てくる村の固有名詞の住民への優しいまなざしと、エッセイ風な文脈に貫かれたやわらかな哲学に心を奪われた。横文字がふんだんの難解な西部邁と村人に心寄せる釣り師の内山節との違いとが見えてきた本書でもあった。

 

 

   

 

 

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災害は大雨ではなくイノシシだった

2021-08-18 22:20:39 | できごと・事件

 早朝から緊急災害情報の警報で起こされる。いよいよ覚悟が必要かと雨の中で床下への防御を開始する。外では近くの川の濁流の音が聞こえてくる。小雨を縫って見に行くと、川の深さがふだんの倍以上あった。

   

 隣接の道路はすでに川となった。経験的にこの深さが倍以上になると危険信号となる。雨水がきれいなのが救われる。ここから上には人が住んでいないから汚染はないからか。濁流になったら土砂崩れを心配しなければならないが、山は高くないし盛土もないから安心はしている。

               

 山に隣接しているところを3枚のブルーシートで雨水を防御する。ツルハシで雨水の通り道を確保する。念のためブルーシートの上に植木鉢を乗せて床下浸水をまずは食い止める。雨がひどければ購入した砂袋を運ぶつもりだ。ところが、夕方になって雨が止んだ。

                  

 バタフライガーデン2面に行ってみると、イノシシが侵入したのがわかった。バタフライガーデンに侵入したのは初めてだった。定植したソシンロウバイやトキワマンサクが倒れていた。相変わらずミミズローラー作戦のようだ。また、深く穴を開けていたのはヤマノイモ狙いかも知れない。雨が止んだので床下浸水の被害はなかったが、イノシシ被害のほうが大きかった。

 雨が来ないうちにと、急いで倒れた樹木を補修し、まわりを枯れた茶木で防御していく。ついでに、1面のガーデンにいき、種から芽が出た「ウマノスズクサ」を植え付けていく。ウマノスズクサはジャコウアゲハの食草。

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と(飛)んだ夜の訪問者!?

2021-08-17 22:38:04 | 生き物

 いつもの遅い夕飯を済ましたころ、ブーンと低い音がして未確認飛行物体が隣でドスンと堕ちた音がした。驚いて近づいてみるとなんと、「カブトムシ」のメスだったのがわかった。とりわけ障子にぶつかると意外に高い音がするのだ。兜を身につけているわりには不器用だ。仰向けになってもがいていた。

         

 近くのキャンプ場で毎年のように花火を主催している俳優の哀川翔はカブトムシの飼育で有名だ。2015年に88mmのカブトムシを飼育してギネスに載ったことがある(2017年に91mmの記録に破られるが)。書店に行っても昆虫と言えばカブトムシとクワガタの図書が圧倒する。それほどに魅力的なアイドルでもある。とりあえず、仰向けを起こしてからまもなく外へ解放する。

             

 いつも不思議に思うのだが、夜の訪問者はメスばかりでオスが来たためしがない。よほどオイラが気に入られているのかと陶酔しちまうが、よく考えると、わが家の隙間を考えればオスはその図体では侵入できそうもない。なあーんだ。やっぱりね。現代俳人の阿部寒林が詠んだ「兜蟲 天に投げても 堕ちて仕舞ふ」というのが哀感とユーモアを誘う。

                 

 いっぽう、夕飯の片づけもかったるいなかで、またしても空中遊泳してきたものがいた。居候の「ウマオイ」だった。突然飛んでくるからいつもハッとする。肉食性だからどうも食べ終わった箸から肉の匂いを感じているようだ。

                 

 ウマオイは、「スイッチョン」と呼ばれるほど身近なバッタだった。ウマオイには「ハタケノウマオイ」と「ハヤシノウマオイ」がいるという。体はほとんど同じだけれど鳴き方が違うという。どう違うかよくわからないが、これから注意して聴いてみることにしよう。川柳に「秋の使者 スイッチオンの スイッチョン」(英ちゃん) というのを見つけた。

 雷と大雨が続く。いつもの寝室の山側はやめて今夜は居間に寝ることにする。では、スイッチオフで、無事でいられますよう。      

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やはり"内山節(タカシ)"は深い

2021-08-16 18:43:17 | 読書

 久しぶりに哲学者「内山節」氏の『里の在処(アリカ)』(農文協、2015.4)を読む。帯に示された通り、「私にとって<里>とは何か。それは魂が元に戻ることのできる場所である。近代化された社会では知性に圧迫されつづけた魂が、<里>に帰り、森と川と畑と風と、そして村の人たちとともに居るとき、元の自然な状態に戻っている」という言の葉にすべてが語られている。

      

 それを言い換えると、「もしも<里>が魂の帰りたがっている場所だとすれば、それは知性によってつくりだされるものではない。そうではなく、<里>は自然に生まれるものである。魂が帰ろうとする時間を見つけ出すとき、そこに里がある」と、説く。知性の否定かとその大胆な展開に目を瞠る。

      

 そして、「知性は自己を主張するが、魂は自己を主張することの虚しさを、自然と村人との網の目のなかにただ存在するだけの吾を語る」と、禅問答のような言葉でくくる。「<里>は、論理性をを超越した、すべてのものが相互性をもちながら存在する時空のなかにある」とまで言い切る。これらの言葉はオイラの野蛮な経験値のなかをじわじわと浸透してくる。

                 

 つづけて、「現代人は、一度、このような<里>を捨てようとした。そうして、<里>を喪失した人々が生まれた。それが進歩だと私たちは教わった」。自由を求めながら自由に生きられない、豊かさをもとめながら何かが足りない、「何か根源的なものが欠落している」のではないかと、哲学者らしい問いを発していく。

       

 著者は、1970年代から群馬県上野村に通い始め、東京と上野村との二拠点生活をしている。つまり、一年の半分は上野村に居住している。上野村と言えば、1985年日航ジャンボ機が墜落した所でもあり、県内で最も人口密度が低い自治体でもある。釣り好きな著者はそのうちに農業を始めだし今では村の重要な一員となっている。「すべてのものが相互に結ばれ、その関係の網のなかで、気がつくとそれぞれの役割をはたしている。私はここに村があることを知った」というわけだ。哲学書というよりエッセイか小説を読んでいるような文脈なのが内山節らしい。

       

 そうして、「村はかけがえのない人間や自然の世界を再生しつづける。都市ではそれが消えかかっている」ということを実感していく。数日前、わが家でしばらくぶりでネズミが出没したことがあった。あわてて粘着シートを買いに行くことにもなった。しかし、著者は、チュー太にもわずかなピーナッツを与えともに空間を共有しようとしている姿に唸ってしまう。

 「確かにここには、自然が無事で村が無事であるとき、私もまた無事であるという感覚がある。永遠の無事によってつくりだされる価値、それもまた私はこの里で教わった」。なんとも謙虚な著者のつぶやきである。

  

 

 

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雨宿りしていたのは…

2021-08-15 20:51:33 | 生き物

 うんざりするほど雨が続く。畳も湿っぽくなっている。夕方、雨が止んだのをチャンスだとして急いでキュウリや甘長トウガラシやブルーベリー等を収穫する。そのとき、キュウリ畑の柵の網のなかに何かが隠れていたのを感じた。それは、裏の翅の地味な模様から蛾ではないかと思ったが、そのうちに表の翅が見えてきた。

          

 この模様だったら、よく遊びに来る「ツマグロヒョウモン」のメスに間違いない。雨宿りしたのはいいが出られないので困惑しているようにも見えた。網が重なっている所ではあるけれど、それで雨宿りになるのかは人間としては疑問だけど。

    

 とりあえず、網を手繰り寄せて解放してあげようとした。しかしなかなか逃げていかない。カメラを近づけても飛び立たない。「雨はいま止んでいるよ」と声を掛けたらやっと飛んでいった。じつはその裏側にも、同宿者がいた。

    

 こちらのほうは、スズメガ科の「セスジスズメ」だった。ハングライダーのようなスマートな成虫だった。幼虫は新幹線のような魅力的なデザインだ。見つけると嬉しくなるほどだけど、大食漢なのであっというまに葉を食べられてしまう。サツマイモや里芋が好物だが、まだ被害があったかどうかはわからない。こちらもなかなか出ていかなかった。

                 

 いっぽう、雨が届かなかった軒下には、「アマガエル」がいた。足が金色に輝いていた。カメラを近づけるとこちらは逃げ出した。いつ見ても、アマガエルはかわいい。

                 

 顔もなかなかのイケメンだった。逃げて飛びついたのはビニール傘だった。まさか傘の下に行きたいのだろうか。鉱山学者の山口青邨(セイソン)が詠んだ俳句「われをひとりここにおきけり雨蛙」というのがいい。人知れず山奥を探索することが多い青邨らしい心情が伝わってくる。

 雨天の続く日々から、地球が人間に逆襲するような気候変動やコロナ攻勢ではないかと思ってしまう。

 今年の「日本経済新聞」元旦号には、EUを中心とする世界と日本がカーボンゼロをめざすという特集を一面に載せた。日本が世界のバスに乗り遅れまいとあわてて決定した感じは否めない。オイラは数十年前から関心を持っていたんだけど。パイプ片手にバラエティー番組で活躍した評論家・竹村健一氏の息子竹村真一氏は、自然エネルギー・NPOネットワーク・新炭素革命などを提言。人類の新しい生き方をに早くから呼びかけていた。メディアが注目していないのがおかしいと思っていた。

                       

  そういう先験的な提唱に当局は耳を傾けないで経済成長路線をやめようともしなかった。それはコロナ対策でも変わらなかった。それが世界の戦略が変わると手のひらを返すように同調する。本音ではないので手先だけの利益にしがみつくといういつもの路線だ。

 そうは言っても、2050年までに世界はCO2排出をゼロにするという宣言はやっとだけど画期的だ。化石燃料で急速に発展してきた人類の歯車を逆回転させようという革命だ。民間ではかなりこの分野での試みは試行錯誤してきた。特許出願数にも明確に表れている。それらを政府が一気に後押しするという地平にあるが、中国はその点では違う意味で先行もしている。官民あげて日本もその遅れを取り戻していただきたいものだ。

 

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ヒグラシの合唱に埋もれてはいるが

2021-08-14 22:33:53 | 生き物

 大雨にもかかわらず、ヒグラシの合唱が断続的に里山を揺るがしている。そんななか、畑にある竹の支柱に「ニイニイゼミ」を発見。近づいても逃げないところから、土中から出て間もないのかもしれない。30mmほどの小さい体は保護色のように目立たない。

                    

 画像ではコントラストを強調してなんどか調整したみたものだ。ときどき、樹の下の方で泥まみれの抜け殻を発見することもある。芭蕉の有名な句の「閑かさや岩にしみいる蝉の声」は、ニイニイゼミであるとの説が有力だ。体が小さいが禅坊主の経文のように響くようだが、今はヒグラシにはかなわない。

      

 空家のミツバチの巣に休んでいた「アブラゼミ」も発見した。横向きなのが意外だ。都会にいたころはアブラゼミ全盛の時代だったが、最近はやや個体数が減少傾向だという。わが山里でもアブラゼミの存在感はあまり感じられない。

      

 最近は地域差が激しくアブラゼミも勢力争いにやや疲れ気味のようだ。乾燥にやや弱いアブラゼミは最近の温暖化やヒートアイランド現象の被害を受けているとも言える。まさか、希少種になってしまうのかと今から心配だ。それほどに、わが里山では存在感がいま一つというのが現状か。

 世界の蝉の多くは翅が透明なのが普通だが、このアブラゼミやニイニイゼミは透明ではないところが希少価値があると言えまいか。  

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幽閉されて元気が良い

2021-08-13 23:25:01 | 植物

 国道に「イワタバコ」の花が咲いていた。きょうの雨で紫の花も終わりに向かっている。しばらく通過していないが、イワタバコだらけの岩壁がある見事な県道に感激したことがある(おまけに触ってみたらヤマビルが手に張り付いしまって懲りたことがあったけど)。それ以来、もっと身近な場所にイワタバコ群落がないものかと願っていたところだ。それが7~8年前からだんだん群落ができてきたのだった。

              

 この紫色のモダンな花が魅力でもあり、湿った岩壁に張り付くように生きている健気さと力強さが心をホッとさせてくれる。現代俳人の平子公一氏の俳句「透きとほる雨後の谺や岩煙草」が秀逸だ。イワタバコがあえて岸壁や日陰という厳しい条件を選択し、他の植物が入り込みにくい場所を生存戦略としているのが素晴らしい。

                

 この場所は年々イワタバコの群落が広がっているのがわかる。その理由は崩落防止に配置された岩壁の網にある。この網がなかったら盗掘の対象となったことはあきらかだ。まだ7~8mくらいの範囲の群落だが、来年には10mに達する群落になりそうな勢いがある。ちょっとした名所になる可能性もあるが、意外に知られていないのが幸いしている。   

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再び来襲かよ

2021-08-12 21:25:26 | できごと・事件

 しばらく鳴りを潜めていたイノシシが再び来襲した。前回はやり過ぎたと思ったのか、しばらく間をおいて約ひと月弱の再来だ。畑は柵を増やし、枯れた茶樹の防御が増やしてきた。しかし、オクラの畝は防御を忘れていた。そこをすかさず狙われた。3本のオクラが倒れていた。オクラの実はそのままで、根っこ周辺にいるミミズが目当てだ。ほかにも荒らされたところもあるが、それぞれ収穫後の畝だったので被害はなかった。

     

 念のため、ブルーベリーの根元に枯れた茶樹を防御に敷き詰める。これが意外に効果がある。おかげでなのか、今年のブルーベリーは今までの最高の収穫量となった。ただし、腹のすいたイノシシは容赦がないのも事実なので相手の動きを瞬時に感知していかなければならない。

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