
「東インド会社」の名前をよく聞くが、当時の歴史とその後の世界に大きな影響を及ぼしたという、この独占国際企業の実態を知りたいというわけで、羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社、2007.12)を読んだ。人類史上はじめて世界全体が人・モノがつながり一体化したのが16世紀以降からだった。東インド会社がその要にあり、その後の世界の方向を決定づける要因となった。(イギリス東インド会社創設/1601年、オランダ東インド会社創設/1602年、フランス東インド会社設立/1664年)
東インド会社創設の前史として、バスコダガマの航海が西洋とアジアの航路をアフリカの喜望峰経由で開拓したのは有名だ。しかし、国を挙げて大船隊を率いたポルトガルやスペインが武力によって植民地略奪や現地人へのジェノサイド・皆殺しの実態は知られていない。同じことは南米のインカ・アステカ文明をも滅亡させた。しかし、その武力支配を維持するには巨額の軍事費がかかり、またその支配の網をくぐった交易が拡大したり、ポルトガル人の致死率が高かったりして、その影響力は低下していく。
そこに闖入したのが、海運力のあったイギリス・オランダだった。とくにオランダは相手国に応じて武力・を使ったり、貿易に徹したり(例えば長崎のオランダ商館)するなど、柔軟な姿勢を取ることで最大の貿易量を誇っていた。しかしそれも、要塞・兵器・兵隊の人件費及び輸送費の高騰や社員の私的貿易の横行をはじめとして、1780年の英蘭戦争でイギリスに制海権を奪われ急速に失速する。同時に、イギリスも軍事・行政費の増大により赤字となり衰退していく。ただし、イギリスは民間の東インド会社から国の直接支配を強め、インドの植民地化する帝国になっていく。
作者は、「東インド会社が運んだアジアの産物とアメリカの銀がヨーロッパに豊かさをもたらした」とし、近代ヨーロッパは独力で生み出したものではなく、一体化した世界のつながりから産み出されたもので、それが19世紀の幕開けとなると結んでいる。
これらを開拓した有名な探検家や宣教師の名前はよく流布されているが、その実態は植民地支配だったり、軍事的殺戮だったり、経済支配だったりしていた裏の部分が意外に知られていない。テロを告発することは大切だが、それ以上の殺戮をしてきた欧米の帝国は自らの行為を懺悔することから始めなければならないし、その後の日本も例外ではない、と改めて思わざるを得なかった。