気の向くまま、時々更新、と言いながら、続けての更新です。今後とも、ご訪問・ご感想、よろしくお願いします。
さて、14日夜、“Printemps des Poètes”(詩人たちの春)の一環として行われた“Festival Jazz-Poésie”に行ってきました。
会場は、“Maison de la Poésie”(詩の館)。
場所は、ポンピドゥー・センターのすぐ北にある、パッサージュ・モリエール(Passage Molière)。パッサージュですが、ここは天蓋で覆われているのではなく、オープン・エア。しかも短く、すぐ反対側の出口が見えてしまうほど。でも、画廊や、この詩の館などが並び、芸術の雰囲気あふれるパッサージュになっています。
パッサージュ・モリエールにあるせいか、この詩の館は、別名モリエール劇場(Théâtre Molière)とも言われているようです。
さて、この夜のプログラムは、もちろんジャズと詩の朗読のコラボレーション。パリは昔から(特に第二次大戦後)ジャズが盛んで、今でもジャズのライブハウスも多く、ジャズとは関係の深い街。現代詩とのコラボなら、ジャズが最適なのかもしれないですね。
メンバーは、朗読が、詩人にしてこの日朗読された詩の作者でもあるゼノ・ビアヌ(Zéno Bianu:1950年生まれ、20冊以上の詩集を出すとともに、詞華集の編集、外国の詩の翻訳にも携わる、その中には芭蕉の俳句も)と詩人・作曲家・役者というマルチ芸術家として活躍するジャン=リュック・ドゥバティス(Jean-Luc Debattice:1947年生まれ)。演奏は、リーダーでギタリストのMimi Lorenzini、コントラバスがJean-Luc Ponthieux、ピアノAnn Ballester、ドラムスNoël McGhie、そしてサクソフォンがSteve Potts。
有料(20ユーロ)のイベントでしたが、120席ほどの会場が、満席。中高年に混じって、学生風の若い人も来ていました。
7人が舞台に登場すると、いきなりジャズの演奏。しばらくすると、そこに詩の朗読が重なってくる。作者のビアヌが落ち着いた声で感情を抑えながら詩を詠んでいく。ドゥバティスにバトンタッチすると、そこは作曲家にして役者、一気に盛り上がり、詩の朗読と言うよりは、シャンソン・リテレール。それもアポリネールの『ミラボー橋』などとは違って、いわばジャズ・リテレール。感動ものです。
この夜朗読された作品は、“Chet Becker”・・・1950年代に時代の寵児となった、ウェスト・コースト・ジャズのトランペット奏者、チャット・ベイカー(1929-1988)へのオマージュ。刑務所に入れられたり、麻薬中毒で入院したり、波乱万丈の人生。最後は事故なのか自殺なのか、アムステルダムのホテルから転落死。こうした稀有なジャズ奏者を、時に緊張感を持って、時にメランコリーに詠った作品です。ジャズに乗せて朗読するにはもってこいの作品。読み手も、感情移入したり、突き放してみたり・・・見事なドラマになっています。
しかも、ドゥバティスの顔が、面長で、ヘアスタイルも含めて、コメディ・フランセーズのちょっと北に建つモリエールの像そっくり。眼鏡をかけたモリエール・・・古典演劇も、詩と言えば言えるわけで、共通点も。演劇、詩、朗読、ジャズ・・・11世紀の吟遊詩人(トルバドゥール)以来の伝統が、今日の衣装をまとって現れたようなステージ。すごい、すごいと酔うように聴いているうちに、1時間はあっという間。拍手に答える姿は、まるでコメディ・フランセーズの役者たちのよう。そのせいか、コンサートとは違って、アンコールはなし。
やはり伝統なのか、音楽に乗せての詩の朗読は時々行なわれているようです。例えば、ブレヒトは自らギターを弾きながら自作の詩を歌ったようですし、フランスでも、例えばジョルジュ・ムスタキやレオ・フェレは20世紀の吟遊詩人などと言われました。どこからが歌で、どこからが詩なのか・・・その境界線はあいまいというか、無理に分け隔てする必要もないのかもしれませんね。
日本でも、歌い語る伝統はあったと思うのですが・・・。今日でも詩の朗読会など行なわれているのでしょうか。音楽に乗せて詩を聴く・・・詩の新たなファンも増えるかもしれないですね。日本でも、もっと暮らしに詩を!
最後に、パンフレットから、“Chet Becker”の一説を引用させてもらいます。
je suis allé au bout du souffle
avec le coeur qui pompe avec le coeur qui fait la pompe
avec le coeur
qui fait l'amour
implacablement
pour mieux montrer chacune des notes qui vont m'emporter
pour mieux apparaître ou disparaître être une apparence absolue
jusqu'à me défigurer
en vieux sorcier sioux
en home-médecine inguérissable
assez de trompe-l'oeil de trompe-l'oreille
écoutez mes leçons d’obscurité écoutez ma douce pénombre
c'est aussi une joie d’être
au monde
impeccablement désespéré
rien à démontrer rien à imposer
juste
la petite musique meurtrie de l'immensité
(上記の詩、本来はセンター揃い)
さて、14日夜、“Printemps des Poètes”(詩人たちの春)の一環として行われた“Festival Jazz-Poésie”に行ってきました。
会場は、“Maison de la Poésie”(詩の館)。
場所は、ポンピドゥー・センターのすぐ北にある、パッサージュ・モリエール(Passage Molière)。パッサージュですが、ここは天蓋で覆われているのではなく、オープン・エア。しかも短く、すぐ反対側の出口が見えてしまうほど。でも、画廊や、この詩の館などが並び、芸術の雰囲気あふれるパッサージュになっています。
パッサージュ・モリエールにあるせいか、この詩の館は、別名モリエール劇場(Théâtre Molière)とも言われているようです。
さて、この夜のプログラムは、もちろんジャズと詩の朗読のコラボレーション。パリは昔から(特に第二次大戦後)ジャズが盛んで、今でもジャズのライブハウスも多く、ジャズとは関係の深い街。現代詩とのコラボなら、ジャズが最適なのかもしれないですね。
メンバーは、朗読が、詩人にしてこの日朗読された詩の作者でもあるゼノ・ビアヌ(Zéno Bianu:1950年生まれ、20冊以上の詩集を出すとともに、詞華集の編集、外国の詩の翻訳にも携わる、その中には芭蕉の俳句も)と詩人・作曲家・役者というマルチ芸術家として活躍するジャン=リュック・ドゥバティス(Jean-Luc Debattice:1947年生まれ)。演奏は、リーダーでギタリストのMimi Lorenzini、コントラバスがJean-Luc Ponthieux、ピアノAnn Ballester、ドラムスNoël McGhie、そしてサクソフォンがSteve Potts。
有料(20ユーロ)のイベントでしたが、120席ほどの会場が、満席。中高年に混じって、学生風の若い人も来ていました。
7人が舞台に登場すると、いきなりジャズの演奏。しばらくすると、そこに詩の朗読が重なってくる。作者のビアヌが落ち着いた声で感情を抑えながら詩を詠んでいく。ドゥバティスにバトンタッチすると、そこは作曲家にして役者、一気に盛り上がり、詩の朗読と言うよりは、シャンソン・リテレール。それもアポリネールの『ミラボー橋』などとは違って、いわばジャズ・リテレール。感動ものです。
この夜朗読された作品は、“Chet Becker”・・・1950年代に時代の寵児となった、ウェスト・コースト・ジャズのトランペット奏者、チャット・ベイカー(1929-1988)へのオマージュ。刑務所に入れられたり、麻薬中毒で入院したり、波乱万丈の人生。最後は事故なのか自殺なのか、アムステルダムのホテルから転落死。こうした稀有なジャズ奏者を、時に緊張感を持って、時にメランコリーに詠った作品です。ジャズに乗せて朗読するにはもってこいの作品。読み手も、感情移入したり、突き放してみたり・・・見事なドラマになっています。
しかも、ドゥバティスの顔が、面長で、ヘアスタイルも含めて、コメディ・フランセーズのちょっと北に建つモリエールの像そっくり。眼鏡をかけたモリエール・・・古典演劇も、詩と言えば言えるわけで、共通点も。演劇、詩、朗読、ジャズ・・・11世紀の吟遊詩人(トルバドゥール)以来の伝統が、今日の衣装をまとって現れたようなステージ。すごい、すごいと酔うように聴いているうちに、1時間はあっという間。拍手に答える姿は、まるでコメディ・フランセーズの役者たちのよう。そのせいか、コンサートとは違って、アンコールはなし。
やはり伝統なのか、音楽に乗せての詩の朗読は時々行なわれているようです。例えば、ブレヒトは自らギターを弾きながら自作の詩を歌ったようですし、フランスでも、例えばジョルジュ・ムスタキやレオ・フェレは20世紀の吟遊詩人などと言われました。どこからが歌で、どこからが詩なのか・・・その境界線はあいまいというか、無理に分け隔てする必要もないのかもしれませんね。
日本でも、歌い語る伝統はあったと思うのですが・・・。今日でも詩の朗読会など行なわれているのでしょうか。音楽に乗せて詩を聴く・・・詩の新たなファンも増えるかもしれないですね。日本でも、もっと暮らしに詩を!
最後に、パンフレットから、“Chet Becker”の一説を引用させてもらいます。
je suis allé au bout du souffle
avec le coeur qui pompe avec le coeur qui fait la pompe
avec le coeur
qui fait l'amour
implacablement
pour mieux montrer chacune des notes qui vont m'emporter
pour mieux apparaître ou disparaître être une apparence absolue
jusqu'à me défigurer
en vieux sorcier sioux
en home-médecine inguérissable
assez de trompe-l'oeil de trompe-l'oreille
écoutez mes leçons d’obscurité écoutez ma douce pénombre
c'est aussi une joie d’être
au monde
impeccablement désespéré
rien à démontrer rien à imposer
juste
la petite musique meurtrie de l'immensité
(上記の詩、本来はセンター揃い)