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本能寺・錦市場散策(11/12/29)

2011年12月31日 | 観光
本能寺・錦市場散策



本能寺

概略
法華宗本門流の寺院です
本尊は、日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の曼荼羅です
織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られてます

歴史
「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年、日隆によって創建されました
本能寺は、種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深く
 織田信長はこの寺を上洛中の宿所としていました
豊臣秀吉の命で、現在の寺域へと移転され、現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地でした
 江戸時代には末寺92を数える大寺院になっていました


織田信長廟(本能寺)



安土桃山城跡(JR安土駅=急行も止まらない田舎の駅、時代の栄枯盛衰を感じる駅です)


(バーチャル安土桃山城)

本能寺の変

織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君信長と後継者の信忠を襲い、
自刃させたクーデターです
光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、光秀の恨みや野望に端を発するという説、
光秀以外の首謀者がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっています

情勢
織田信長は畿内とその周辺を手中に収め、武田氏を滅ぼしました
関東の後北条氏、東北の伊達氏、九州地方の大友氏は信長に恭順を示していました
信長の敵は、中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏でした
*毛利氏は、織田軍の将・羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退で敗戦状況で有った
*上杉氏は家督争いと相次ぐ家臣の反逆によって疲弊していました
*九州は大友氏や龍造寺氏が信長に属する意志を伝えていました

光秀の行動
光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かいました
桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言した

変の要因
光秀は『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、一族家臣は子孫に至るまで信長様への
 御奉公を忘れてはならない』という文を記しており、信長に心服していました

黒幕の存在を想定する説が多いです
*足利義昭説 (自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、旧家臣である光秀に命じたとする説)
*朝廷説(信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長を殺そうとしたという説)
*イエズス会(イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説)
*羽柴秀吉説(本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり「もっとも利益をえた者を疑え」という推理の説)
*徳川家康説(天海僧正=光秀、家康が変に賛同し、事後に僧侶として生存していた光秀を匿ったという説)
黒幕などないという説
*本能寺の変後は混乱する近畿を治める絶好の機会であったのに、誰も何の行動も起こしていません
*信長の野望阻止説(光秀の軍勢が本能寺に向かったのは信長の命令で、信長は光秀の軍勢を使って野望を
実行しようとした)

豊臣秀吉廟(京女の近くの山頂、通路は荒廃しており時代の栄枯盛衰を感じました)



錦市場

中京区のほぼ中央に位置する錦小路通のうち「寺町通 - 高倉通」間の商店街です
魚・京野菜などの生鮮食材や、乾物・漬物などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場です

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