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その他、音楽編、自然編も有り。

正義のかたち  死刑:日米家族の選択 ③

2009-02-17 23:21:30 | 活字の海(新聞記事編)
2009年2月17日(火) 毎日新聞 朝刊社会面 記者:武本光政

サブタイトル:遺族、少年の更生に参加
       極刑求めて…揺らぐ

※ このコラムの元記事は、こちらで読めます。


今回の白眉は、ラストの一行に尽きるだろう。

息子を殺された遺族として、少年院にて遺族としての心情等を語り、
自分達の犯した罪を認識してもらおうと努力を続ける父。

その父は、事件後は命の尊さを訴えかけるサークルに所属している。
それは純粋に、奪われた子供の命を思い、その重さ、その尊さ、
亡くした時の痛みを分かち合え、また啓蒙できる場を求めてのこと
だと思う。

だが。
犯人の死刑を望む自分が、人の命の尊さを口にする資格は有るのか?
という思いが、この父の心に染みのように広がる。

 「死刑を求める気持ちに変わりはない。
             ただ、ちょこっと揺らぐ部分がある」

父の、この言葉で本日の記事は締め括られる。

この揺らめく部分は、上述のように自分が死刑を望んでいる一方、
すべからく命は大切にと思わなければならないとも考える時に、
両者を如何に自分の中に共存させればよいのか?という心の迷いが
反映されている。

犯人が奪った命。
犯人に奪われた命。
そして、犯人の命。

様々な命のかたちが有る中、全ての命の重さは同じと、心から
思える日は果たしてくるのだろうか?

また、それは正しいものの見方なのだろうか?

父の苦悩は、続く。

その苦悩に呼応するかのように、今回の記事中にて、被告の少年は
こう述懐する。

 「生きたい、と言うのはずうずうしい。
     けど、自分が死ぬことで解決しないのかなとも……」


この問いに対しても、敢えて僕の見解を応えるならば。

 命の重さは、すべからく同じである。
 そんな命を奪った罪は、死刑に値する。

この二つに、集約される。

以前、このブログの他のコラムでも、刑法における応報論は現代に
適用されるべきか?という点についての意見を述べた。
そこでの答えを、今一度繰り返すことにはなるが、敢えて述べよう。


命の重さに軽重を見出すような考え方は、僕には出来ない。

どんな命も、生きているということで無限、とまでは言わないが
多様な可能性の芽を持っている。

死刑囚が優れた文芸作品や絵画を残すような事例も、枚挙に暇が
無い。

そうであれば。
いや。
そうであるからこそ。

もう一つの無限の可能性を持つ命を奪ったその責任は、やはり
命を絶つことでした購い切れないと考えるのだ。

如何に近代刑法論が目的刑に偏重しようとも、この点に関しては
応報刑という考え方を僕は放棄し得ない。

(この稿、了)


(付記)
それにしても…。
いつまで記者は、こうした情感”にのみ”訴えかける連載を
続けるのだろうか?

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