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その他、音楽編、自然編も有り。

正義のかたち  死刑:日米家族の選択 ②

2009-02-16 23:01:29 | 活字の海(新聞記事編)
009年2月16日(月) 毎日新聞 朝刊1面 記者:武本光政

サブタイトル:遺族と被告、拘置所で面会
       別れ際に握手…なぜ

※ このコラムの元記事は、こちらで読めます


この記者は、何を語りたいのだろう?
この連載第二回を読んだときの、正直な感想である。

今回は、やはり少年犯罪(殺人)の加害者と、その被害者が描かれる。
ただ、前回と異なるのは、今回においては両者の間に交流が存在する
ことである。

94年に起こった事件。
当然、被告はもう成人している。
05年に死刑が言い渡されたが、現在は上告中。

その被告から、第1審の時以来、毎年命日を期して手紙が届くように
なったという。

そこには、自分の犯した罪を深く反省し、その重さに苛まれる一人の
人間の姿があった。
やがて、拘置所での労役で得た収入からの送金も届くようになる。

そんな月日が静かに降り積もっていき…。
事件から12年後、被害者の母と弟は、初めて、そして今のところ
ただ一回となる、被告との面接をすることとなった。

苦悩する両者の姿を、記者はトレースする。

償いきれない罪の重荷に、慄く被告。
消し去ることの出来ない憎しみに、やはり苦しむ遺族。

僅かに見られた両者の心の触れ合いは、果たして分かり合える道程
への一歩となるのか。
それとも、お互いの、あるいは自分自身の傷を見てみぬ振りをする
ための逃避なのか…。


記事は、ここで終わっている。
記者は、このことを読者の前に出すことにより、何を訴えたかった
のだろう。

死刑にすること。死刑にされること。
そのことにより、どちらに救いがもたらされるのか。
それとも、死刑という手段に拠っては、双方ともに救いになどなり
得ないのか。
であれば、何によってこそ、各々は救われるべきなのか…。

そうした問いを、発したかったのだろうか。

ただ、それにしては、あまりにも情念的な記述に終始しているとの
批判は免れ得ないのではないか。

確かに、苦悩する両者の姿はよく判った。

だが、それと今回の連載のタイトルである「正義のかたち」とは
どう結び付けようとしているのだろう?

死刑が正義の行使の結果足り得ないということを訴求したいと
すれば、前回も書いたが、その代替となる処罰を提示する必要が
あるだろう。

連載記事の、しかも途中までを捕らまえてこうした物言いをする
ことの是々非々は有るため、今はそうした疑問を読み手の一人と
して持っている、と言うに留めよう。

だが。
死刑の、そして犯罪の救いの無さを感傷的に著すこの記事に対して、
問いかけたい言葉は上述のとおりだ。

敢えて、繰り返そう。

死刑に反対であるならば、何を持ってそれに代えんとするのか?

現在の犯罪における、再犯率のデータがある
弁護士河原崎弘氏のHPに掲載されていたものであるが、一次
データは平成17年度および18年度の犯罪白書となっているので、
ソースとしては信頼できるものである。

それによれば、平成11年に刑務所を出所したものが、平成16年
迄に再び犯罪を犯して再収監された割合は、49.9%にも及ぶ。

しかも、平成16年における検挙率は、44.7%。
つまり、犯罪を犯しても検挙されて刑務所に入るものは、半数にも
満たない。
その半数のもののうち、更に半数は再び犯罪に手を染めていると
すれば、検挙されずに逃亡している犯罪者の再犯率は推して知る
べきだろう。

この事実は、何を意味するのか。
明白なことは、刑務所への収監という処罰が、犯罪の十全な抑止力
足りえていない、ということである。

では、その処罰の最高刑である死刑は、処罰として妥当なのか?
それとも…。

そこにこそ、切込みを入れて、分析を行い、記者としての見解を
提示して欲しいのだ。

情感に訴えかけるような記事も、ときには必要だろう。
だが、5月には裁判員制度も始まるというこの時期、もうそうした
問題の本質の周縁部をさ迷うようなアプローチをしている場合では
ないと思うのだが、いかがだろうか?

(この稿、了)


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