活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

奇跡の脳

2009-03-21 00:08:10 | 活字の海(書評の書評編)
著者:ジル・ボルト・テイラー (新潮社・1785円)
評者:養老孟司 毎日新聞 2009年3月8日 東京朝刊

サブタイトル:神経解剖学者が右脳に「目覚めた」時

※ この書評の原文は、こちらで読めます


人の感覚と言うものは、実に不思議だ。

よく、事故等で手足を無くされた方が、無くした筈の手足が冷える、
あるいは痛みや痒みを感じる、といった話を耳にすることがある。

本来は、そこにはもう存在しないことが分かっているのにも関わらず、
脳がそのことを認知することを拒むかのように、感覚が反応するのだ。

そうした感覚の補完作用は、(当人にとってはともかくとして)
物理的にはあくまで仮想的なものである。

が、一方。
そうした補完を現実に行ってしまえる器官が、人間には存在する。

それが、脳である。

高度に発達した(という定義も、では高度とは何なのだ?という
議論を呼び起こして収集がつかなくなる危険もあるが、ひとまず
ここはおいておく)人間の脳は、左右対称の機能をしているのでは
無く、部位によって所轄する分野が異なる
ことは、一般にもよく
認知されている。

よく言われる、右脳型人間、左脳型人間という表現も、正にその
特徴から来るものであり、一般に論理的な思考を得意とする左脳、
それに対し情緒的なそれを得意とする右脳と言われている。
しかも、左右の脳の働きは必ずしも一律ではない。
それが故、強く機能する側の特徴が、右脳型や左脳型という表現
そのままに、その人の為人(ひととなり)を形成するようにもなる
のであるが。


本書の著者は、神経解剖学者である。
その著者が、ある日突然の発作により、左脳中心部から出血。
それにより左脳が圧迫された結果、言語を中心とする認知能力や
発音能力を、右体側の運動機能と合わせて失っていく


目の前にある活字を見ても、それが字であることが分からない。
当然、何が書いてあるのかも分からない。

電話をしたくとも、電話をかけることすら出来ない。

2時間かけて、ようやく職場に電話をすることが出来たものの、
今度は自分に生じ、進行しつつある病状を説明することも出来ない…。

こうした一連の脳内出血のプロセスが体を侵していく様を、
彼女は先にも述べたとおり神経解剖学者としての目線で見ていく。
つまり、彼女は今まで論理的に検討し、シミュレーションしてきた
様々な現象を、文字通り身をもって経験するという状況になった
のだ。


その後、著者は活動を停止した左脳に取って代わり、右脳が機能
し始めることに気づく。というよりも、そのように右脳を訓練して
いく。

その過程においては、右脳型人間への人格のスイッチという
ドラスティックな変化も経験する。

何せ、脳内出血(卒中)によって、何百万とも(あるいはそれ以上)
言われる単位でニューロンが死滅していくのだ。
それを補うべく、壊死した左脳側ではなく、右脳側で未機能だった
神経線維を接続し、人格を再構築する営みが行われる訳だから、
それは人も変わるというものだ。


結局、この不幸な出来事をトリガーにして、著者は第二の人格を
芽生えさせ、再生を(というより新生か)を果たす。

著者はそのプロセスの中で、自我が溶解し、宇宙と合一するような、
言わば悟りの境地を見た
、という。

それに対して評者は、そのことを尊重しつつも、生じたことは
脳が取りうる一つの状態が具現化したに過ぎないと明言する。

臨死体験を含む、様々な宗教体験も、すべからくそれで説明出来る
とする評者の視点は、ある意味正しいのだろう。

その体験を持ってどう捕らえていくのかは、勿論体験者の
専従範囲であるし、評者もそれを否定している訳ではない。

ただ、そうしたことを逆手に取って、あたかも生じていることが
宗教的体験であるかのように誤解させるような誘導もまた、
プロセスをきちんと踏めば可能であるということである。

昔、新堂冬樹氏の「カリスマ」という小説を読んだが、この本の
中では宗教が如何にして人格を崩壊させ、人を篭絡していくか、
というその方法論についても詳細に描写されていた。

本書の著者の脳内で生じた現象を、外部からの刺激をコントロール
することで擬似的に起こさせ、そこで生じた脳の混乱に付け込んで
マインドコントロールしてしまうというその手法は、意識的かどうか
はさておき、多くの宗教儀式において恐らく実践されていること
だろう。

無論、そうした行為は宗教だから、というものではなく、科学の
顔をした中でも、容易に起こりえるのだ。

それが故、評者は忠告する。
科学だから、と言う言葉に無条件で信憑性をおいていないか?と。


そう考えるとき、何が正しく、何を標(しるべ)として物事を判断
していくべきか、ということについて、評者も総括するとおり、
もっと僕たちは真摯に、危機感を持って当たらないといけないと
思う。

さて、あなたは、あなたの目で見たことを信じますか?

あなたが今考えていることは、あなた自身が考えたことなのだと
自信を持って言い切ることが出来ますか?

(この稿、了)


(付記)
本コラムを書く中で、南方熊楠の脳が大阪大学に保管されている
ことを知った。
う~ん。アインシュタインも然りだが、天才というものは大変だなぁ。

奇跡の脳
ジル・ボルト テイラー
新潮社

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