著者:西村賢太 (講談社・1575円)
評者:江國香織 毎日新聞 2009年11月1日 東京朝刊
本書サブタイトル(表):こういう風にしか、生きていけない
書評サブタイトル:男女が寄り添おうとする姿の淋しさ
※ この書評の原文は、こちらで読めます。
”人が人を恋うるとき、人は誰でもさびしんぼうになる”
かつて…。
大林宣彦は、その名作「さびしんぼう」のラストをこう締め括った。
雑多な邪念が、自分の中にも他人の中にも渦を巻く世の中で。
誰か、人を好きになるとき。
ほんの一瞬の。
その刹那に。
まるで、儚い線香花火の火花のように。
でも、夜目にも鮮やかに、はっきりと。
浮かび上がる、その思いの純粋さ。
それが、人を好きになる、ということ。
そして。
その想いが、純粋であればあるほどに。
存在出来るのは、ほんの僅かな時間。
だからこそ。
人を好きになるということは。
この上なく愛しく、この上なく淋しい。
そんな淋しさが凝縮されたような小説が、この「瘡瘢旅行」だと
書評子は呟く。
その声は、まるで囁きだ。
限りなく、心もとなく。
限りなく、密やかに。
でも、低いその声は、妙に耳について離れない。
書評子は、主人公の男のことを、これでもかとばかりにその欠点を
列記する。
けれど。
だからこそ、書評子は主人公が愛おしくて堪らない。
そしてそれは。
主人公の恋人である女性に対しても、等質のウエイトを以って
寄せられる感情でもある。
けれども。
その寄せられる思いと反比例するが如くに、深まる孤独は何なのだろう。
二人が、寄り添い合えば合うほどに。
お互いを信じられなくなっていくことの、恐ろしいほどの絶望と。
それでも、尚。
一緒に買ったお弁当を部屋で二人で晩酌を傾けながら食することの、
遣り切れないほどの切なさと。
一体、そんな思いをしてまでも。
人は誰かを好きにならざるを得ないのか。
そんな思いに駆られてしまう。
こう書くと、この小説がリリカルで叙情的という印象を与えてしまう
やもしれない。
でも、著者は。
そんな温い性格付けを、登場人物に行ってはいない。
主人公の毒舌さは、生半なものではない。
その悪し様に彼女を罵る有様は、一体自分を何様だと思っているのか?
と思える程である。
そうでなければ、
「黙れと言ってるんだ、このオリモノめが!」
「膣臭女めが」
こんな罵詈雑言を、吐ける筈もない。
そして、その言葉を吐いたその口で、主人公は又、涙を流さんばかりに
謝罪の言葉をも吐き出す。
その振幅の度合いの大きさは、そのまま主人公の立つ大地の揺らぎでも
有るのだろう。
鬱陶しくって、みっともなくって、いやみったらしくて、口汚くて、
偏狭で、利己的で、我がままで、独善的で、自己中心的で…
凡そ、考えられる限りの人格の偏り(それも、マイナスベクトルへの)
を示す主人公を。
それでも、読者は好きにならずにはいられない。
というよりも。
それを好きになることが出来た人のみが、このシリーズの読者足り得る
のだろう。
果たして、僕は読者になることができるのだろうか?
書評子が、女性だからこそ成れたのでは?
そういう気が、僕の中では濃厚に漂っている。
男なら。
少なくとも、僕なら。
そんな、合わせ鏡のような小説を読みたいと思うだろうか?
そう、考えざるを得ないからだ。
(この稿、了)
(付記)
男女の営みの淋しさという観点で、僕の脳裏に浮かんでくる作品。
一つは、岩重孝の「ぼっけもん」。
主人公の義男が、心に血を流しながら恋人の加奈子を殴打するシーンは、
何度読んでも胸が痛くなる。
もう一つは、S・キングの「クリスティーン」。
この小説のラストの前。
クライマックスのシーンで、ヒロインと主人公の間に交わされた刹那の
感情の交流の眩さ。強さ。そして儚さ。
偉大なホラー小説はまた、偉大な恋愛小説でもあったのだ。
評者:江國香織 毎日新聞 2009年11月1日 東京朝刊
本書サブタイトル(表):こういう風にしか、生きていけない
書評サブタイトル:男女が寄り添おうとする姿の淋しさ
※ この書評の原文は、こちらで読めます。
”人が人を恋うるとき、人は誰でもさびしんぼうになる”
かつて…。
大林宣彦は、その名作「さびしんぼう」のラストをこう締め括った。
雑多な邪念が、自分の中にも他人の中にも渦を巻く世の中で。
誰か、人を好きになるとき。
ほんの一瞬の。
その刹那に。
まるで、儚い線香花火の火花のように。
でも、夜目にも鮮やかに、はっきりと。
浮かび上がる、その思いの純粋さ。
それが、人を好きになる、ということ。
そして。
その想いが、純粋であればあるほどに。
存在出来るのは、ほんの僅かな時間。
だからこそ。
人を好きになるということは。
この上なく愛しく、この上なく淋しい。
そんな淋しさが凝縮されたような小説が、この「瘡瘢旅行」だと
書評子は呟く。
その声は、まるで囁きだ。
限りなく、心もとなく。
限りなく、密やかに。
でも、低いその声は、妙に耳について離れない。
書評子は、主人公の男のことを、これでもかとばかりにその欠点を
列記する。
けれど。
だからこそ、書評子は主人公が愛おしくて堪らない。
そしてそれは。
主人公の恋人である女性に対しても、等質のウエイトを以って
寄せられる感情でもある。
けれども。
その寄せられる思いと反比例するが如くに、深まる孤独は何なのだろう。
二人が、寄り添い合えば合うほどに。
お互いを信じられなくなっていくことの、恐ろしいほどの絶望と。
それでも、尚。
一緒に買ったお弁当を部屋で二人で晩酌を傾けながら食することの、
遣り切れないほどの切なさと。
一体、そんな思いをしてまでも。
人は誰かを好きにならざるを得ないのか。
そんな思いに駆られてしまう。
こう書くと、この小説がリリカルで叙情的という印象を与えてしまう
やもしれない。
でも、著者は。
そんな温い性格付けを、登場人物に行ってはいない。
主人公の毒舌さは、生半なものではない。
その悪し様に彼女を罵る有様は、一体自分を何様だと思っているのか?
と思える程である。
そうでなければ、
「黙れと言ってるんだ、このオリモノめが!」
「膣臭女めが」
こんな罵詈雑言を、吐ける筈もない。
そして、その言葉を吐いたその口で、主人公は又、涙を流さんばかりに
謝罪の言葉をも吐き出す。
その振幅の度合いの大きさは、そのまま主人公の立つ大地の揺らぎでも
有るのだろう。
鬱陶しくって、みっともなくって、いやみったらしくて、口汚くて、
偏狭で、利己的で、我がままで、独善的で、自己中心的で…
凡そ、考えられる限りの人格の偏り(それも、マイナスベクトルへの)
を示す主人公を。
それでも、読者は好きにならずにはいられない。
というよりも。
それを好きになることが出来た人のみが、このシリーズの読者足り得る
のだろう。
果たして、僕は読者になることができるのだろうか?
書評子が、女性だからこそ成れたのでは?
そういう気が、僕の中では濃厚に漂っている。
男なら。
少なくとも、僕なら。
そんな、合わせ鏡のような小説を読みたいと思うだろうか?
そう、考えざるを得ないからだ。
(この稿、了)
(付記)
男女の営みの淋しさという観点で、僕の脳裏に浮かんでくる作品。
一つは、岩重孝の「ぼっけもん」。
主人公の義男が、心に血を流しながら恋人の加奈子を殴打するシーンは、
何度読んでも胸が痛くなる。
もう一つは、S・キングの「クリスティーン」。
この小説のラストの前。
クライマックスのシーンで、ヒロインと主人公の間に交わされた刹那の
感情の交流の眩さ。強さ。そして儚さ。
偉大なホラー小説はまた、偉大な恋愛小説でもあったのだ。
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買おうと思います
いらっしゃいませ。
”読んでみたくなった”
原作者と書評子の方のお力とはいえ、
こうして自分が気になった本を紹介している
僕としても、嬉しい限りのお言葉です。
ありがとうございました。
また、折に触れてお越しくだされば幸いです。
よろしくおねがいします。
UP中の記事に連載中の事故のため、
コメントのUPが遅くなり失礼しました。
こちらこそ、よろしくお願いします。
お気軽に、お立ち寄りくださいね。