著者:小沢信男(筑摩書房・2310円)
評者:池内紀(おさむ) 毎日新聞 2009年9月27日 東京朝刊
本書サブタイトル(表):
無数の骨灰をめぐり、忘れられた東京の記憶を掘り起こす、鎮魂行。
書評サブタイトル:てくてく訪ねる高層ビル下の死屍累々
※ この書評の原文は、こちらで読めます。
この。
踏みしめている大地の元で。
これまで、一体如何程の命の火が消えていったのだろう?
数多散り往く魂が、その最後に何を思い、どんな叫びを残して
この世を去っていったのか。
その殆どは、知る由も無い。
ただ。
街の風景の中に微かな傷のようにして残る、痕跡。
砂に描いた文字のように。
やがては薄れ、損なわれ、消えていってしまいそうな。
それでも、僅かにここで生を終えた人々の存在証明となるもの。
東京の街に、ひっそりと眠る。
今は、その時代さえ亡きものとなった江戸の世を中心に。
様々な石碑、石塔や供養塔を巡礼したこの紀行。
最近流行の廃墟巡礼等とは、歴史の単位が違う。
#廃墟や廃道、廃線等は、それはそれで異なる情緒が在るが。
書評子が挙げる、江戸の死者の数が半端無い。
明暦三年の大火。俗に言う「振袖火事」では、焼死者十万七千余。
安政の大地震。死者四千余。
関東大震災では、死者不明者十四万人。
東京大空襲となると、罹災者百万人。死者は推定で九万人…。
正に、死屍累々。である。
更には、吉原。
言わずと知れた、”花の”吉原では。
吉原から北へ約1キロと、割と近しい距離にあった浄閑寺には、
遊女の遺体が投げ捨てられるようにして打ち捨てられた、という。
その数、二百年余りの間に約二万五千体。
その女性達の平均年齢は、僅か21歳であったというから。
吉原での生活が、どれ程過酷なものなのか。
到底実感することは出来ないまでも、その一端なりとを乏しい
想像力で補うことは可能である。
そうした遊女達の。
あるいは、市井の民達の。
様々な、夢も希望も、そして絶望も。
皆、坩堝の如く、まとめて小さな石碑や墓に封印されて眠る街。
それでも。
そうした拠り所となる墓石が有る魂は、まだ幸せなのかも知れない。
例えば。
吉村昭氏の「史実を歩く」文春文庫刊によれば。
小さなところでは、桜田門外の変。
井伊直弼を守りきれなかった彦根藩士の中には。
そのままむざむざと故郷に戻れば、その罪を叱責されて切腹を迫られる
ことを予見し、現場から刀を捨てて逃亡。
向ヶ丘遊園近くの寺に逃げ込み、住職に拾われて、寺男としてその生涯を
全うしたものも居るという。
吉村氏が探し当てたその場所、廣福寺には。
そのものが遺したという辞世の句碑は残されているが、墓の所在は
杳として知れない。
そのことが、その男の遺志だったのか。
あるいは、単に時代のうねりの中に飲み込まれただけなのか。
その辞世の碑文さえ、かすれて判読できなくなった今となっては、
その真相が世に出ることは絶えて有るまい。
ただ。
寺所を美しく染める紅葉だけが、全てを記憶し、沈黙を守っている。
更には。
これも、吉村氏の同書に拠れば。
上でも取り上げた、安政の大地震。
この際には、新吉原の遊郭は全て消失し、多くの遊女が焼死したそうな。
#その中には、高野長英の娘(長英が刑吏に殴殺された後、吉原に遊女
として売られている。その名を”もと”)も含まれている。
そのうち、浄閑寺等に投げ込まれたものはごく一部であり。
殆どは、吉原の傍の原に穿たれた穴に放り込まれたのだ、という。
当たり前の話であるが。
それら、数千、数万の魂は。
存命の間は、どのような苦界にその身を置こうとも。
自ら考え、思い、悩む一個の人間として、存在していた。
それが、死後は。
文字通り十把一絡げにされて、穴に打ち捨てられ、朽ち果てていった。
そうした、無数の屍と、無数の思いの上に。
今の僕達の生活は、成り立っている。
書評子の引用に拠れば。
著者は、現代の東京に林立する超高層ビル群を、
「しょせんは100メートルや200メートルや600メートルにも
たちのぼる陽炎のごときもの」
と称した、と言う。
だけれども、ここまで読み終えた僕には。
それらのビル群が、無数の卒塔婆に思えてきてしまった。
それでも。
僕達は、今この時に生を享受しているものとして。
亡き者達に、折に触れ思いを寄せつつも。
日々の暮らしを営んでいくのだ。
(この稿、了)
評者:池内紀(おさむ) 毎日新聞 2009年9月27日 東京朝刊
本書サブタイトル(表):
無数の骨灰をめぐり、忘れられた東京の記憶を掘り起こす、鎮魂行。
書評サブタイトル:てくてく訪ねる高層ビル下の死屍累々
※ この書評の原文は、こちらで読めます。
この。
踏みしめている大地の元で。
これまで、一体如何程の命の火が消えていったのだろう?
数多散り往く魂が、その最後に何を思い、どんな叫びを残して
この世を去っていったのか。
その殆どは、知る由も無い。
ただ。
街の風景の中に微かな傷のようにして残る、痕跡。
砂に描いた文字のように。
やがては薄れ、損なわれ、消えていってしまいそうな。
それでも、僅かにここで生を終えた人々の存在証明となるもの。
東京の街に、ひっそりと眠る。
今は、その時代さえ亡きものとなった江戸の世を中心に。
様々な石碑、石塔や供養塔を巡礼したこの紀行。
最近流行の廃墟巡礼等とは、歴史の単位が違う。
#廃墟や廃道、廃線等は、それはそれで異なる情緒が在るが。
書評子が挙げる、江戸の死者の数が半端無い。
明暦三年の大火。俗に言う「振袖火事」では、焼死者十万七千余。
安政の大地震。死者四千余。
関東大震災では、死者不明者十四万人。
東京大空襲となると、罹災者百万人。死者は推定で九万人…。
正に、死屍累々。である。
更には、吉原。
言わずと知れた、”花の”吉原では。
吉原から北へ約1キロと、割と近しい距離にあった浄閑寺には、
遊女の遺体が投げ捨てられるようにして打ち捨てられた、という。
その数、二百年余りの間に約二万五千体。
その女性達の平均年齢は、僅か21歳であったというから。
吉原での生活が、どれ程過酷なものなのか。
到底実感することは出来ないまでも、その一端なりとを乏しい
想像力で補うことは可能である。
そうした遊女達の。
あるいは、市井の民達の。
様々な、夢も希望も、そして絶望も。
皆、坩堝の如く、まとめて小さな石碑や墓に封印されて眠る街。
それでも。
そうした拠り所となる墓石が有る魂は、まだ幸せなのかも知れない。
例えば。
吉村昭氏の「史実を歩く」文春文庫刊によれば。
小さなところでは、桜田門外の変。
井伊直弼を守りきれなかった彦根藩士の中には。
そのままむざむざと故郷に戻れば、その罪を叱責されて切腹を迫られる
ことを予見し、現場から刀を捨てて逃亡。
向ヶ丘遊園近くの寺に逃げ込み、住職に拾われて、寺男としてその生涯を
全うしたものも居るという。
吉村氏が探し当てたその場所、廣福寺には。
そのものが遺したという辞世の句碑は残されているが、墓の所在は
杳として知れない。
そのことが、その男の遺志だったのか。
あるいは、単に時代のうねりの中に飲み込まれただけなのか。
その辞世の碑文さえ、かすれて判読できなくなった今となっては、
その真相が世に出ることは絶えて有るまい。
ただ。
寺所を美しく染める紅葉だけが、全てを記憶し、沈黙を守っている。
更には。
これも、吉村氏の同書に拠れば。
上でも取り上げた、安政の大地震。
この際には、新吉原の遊郭は全て消失し、多くの遊女が焼死したそうな。
#その中には、高野長英の娘(長英が刑吏に殴殺された後、吉原に遊女
として売られている。その名を”もと”)も含まれている。
そのうち、浄閑寺等に投げ込まれたものはごく一部であり。
殆どは、吉原の傍の原に穿たれた穴に放り込まれたのだ、という。
当たり前の話であるが。
それら、数千、数万の魂は。
存命の間は、どのような苦界にその身を置こうとも。
自ら考え、思い、悩む一個の人間として、存在していた。
それが、死後は。
文字通り十把一絡げにされて、穴に打ち捨てられ、朽ち果てていった。
そうした、無数の屍と、無数の思いの上に。
今の僕達の生活は、成り立っている。
書評子の引用に拠れば。
著者は、現代の東京に林立する超高層ビル群を、
「しょせんは100メートルや200メートルや600メートルにも
たちのぼる陽炎のごときもの」
と称した、と言う。
だけれども、ここまで読み終えた僕には。
それらのビル群が、無数の卒塔婆に思えてきてしまった。
それでも。
僕達は、今この時に生を享受しているものとして。
亡き者達に、折に触れ思いを寄せつつも。
日々の暮らしを営んでいくのだ。
(この稿、了)
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