壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

『去来抄』6 続・凩(こがらし)

2011年10月29日 20時48分46秒 | Weblog
        凩に二日の月のふきちるか     荷けい     
        凩の地にもおとさぬしぐれ哉     去 来


 ――荷けいは、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に行った時、その門に入った俳人である。後に『俳諧七部集』と呼ばれる蕉門の代表的撰集のうち、『冬の日』『春の日』『曠(あら)野』の三集を編集し、初期の蕉門で重きをなした。ことに『曠野』に収める「凩に」の句が、発表直後から評判になり、これにより「凩の荷けい」と呼ばれ、一躍有名になった。
 一方、去来の「凩の」の句は、其角編の俳書『いつを昔』に、荷けいの「凩に二日の月の吹ちるか」とともに、「凩の地迄落さぬしぐれかな」の句形で収められている。
 いやでも、この二つの句が比較されることになってしまったのである。おそらく、この時点では、荷けいの句は、「凩の荷けい」の愛称とともに大いに喧伝されていたことだろう。
 すっかり自信をなくした去来が、弱々しく胸中を吐露したところ、芭蕉からまったく予期せぬ反応が返ってきた。大喜びした去来は、さっそく、『去来抄』にまとめたのが、この一条なのである。

 そこで、荷けい・去来の両句であるが、両句とも「凩」がテーマである。荷けいは「凩」に「二日の月」を、去来は「凩」に「しぐれ」を「取合せ」たものである。
 「二日の月」は、それまで作句の対象として注目されることはなかった。荷けいが「凩」との関わりの中で発見した対象として、高く評価できるのである。
 それに対して、去来の句の「しぐれ」は、「凩」とともに、オーソドックスな冬の季語である。
 となると、荷けいの句は、「二日の月」の発見と、それを「ふきちるか」と把握、表現した点と、二つの面白さがあることになる。
 去来の句は、「しぐれ」に対して「凩」が「地迄おとさぬ」勢いで吹きつけていると把握、表現した、この一点に評価がかかっているのである。

 芭蕉の言として、「体格はまづ優美にして、一曲あるは上品(じょうぼん)なり。また工(たく)みを取り、珍しき物に寄るはその次なり」とある。それゆえ、「荷けいが句は、二日の月といふ物にて作せり。その名目(みょうもく)をのぞけば、させる事なし」との言も出てくるのであろう。
 対する去来の句に対して、芭蕉の「全体の好句なり」との評言を、額面通りに受け取ってはならない。落胆している去来に対する、芭蕉の思いやりが働いていることを、去来はまったく気づかなかったのである。
 去来の一句における、まさに眼目とも言うべき措辞「地迄おとさぬ」の「迄」の部分が、芭蕉によって「ただ、地迄とかぎりたる迄の字いやし」ということで、「地にもおとさぬ」と斧正されたのであるから、「全体の好句なり」は、多分に社交辞令的な言葉であることが理解し得るはずである。
 それを額面通りに受け取って喜んでいる去来。去来の甘さがよくわかる一条である。

 単語の魅力や表現技巧に頼った句は、人目をひき、作者も得意になりがちである。しかし、部分が目立ちすぎて、全体の情感はさほどでもない、ということがしばしばある。こういう句を「名目(みょうもく)の句」というのでしょう。技巧に巧みなベテランほどこうした危険を抱えているといえる。
 魅力のある語も、気の利いた言い回しもないが、景は具体的で、情感があり、季語の本情の把握も確かな句を「全体の好句」というのである。

 最後に、「地迄」と「地にも」違いを。
 「まで」というと、視線を地面のほうにさそって限定し理屈で説明した感じになる。
 「にも」だと、重点は凩にあって、句柄が大きくなる。この斧正(添削)は、ぴたりと勘所を押さえてみごとである。思わず「座布団五枚」と言いたくなる。さすがは芭蕉先生である。


      生姜湯をうましと飲めば秋深む     季 己